11

 颯真と私。二人分の荒い息が密室の中で響いていた。さっきのが一発目。下着を着けたTシャツ越しにいつもの拳を受けたのだった。熱くて硬い隕石のようなものが下腹部にめり込んだと思ったら、その起点に下から突き上げるような衝撃が、下腹部から波紋のように全身に広がった。職場の人間には絶対に聞かせられないような、声にならない動物じみた呻き声が食いしばった歯の隙間から漏れた。異常な興奮をはらんだ熱が駆け上がる。瞬く間に視界が、あの懐かしい血の色に染まった。

 体中が熱いと思った瞬間に視界がぼやけて、一瞬の血の気が引くような感覚の後で、両脚は身体を支えきれず、膝をついて崩れ落ちた。跪く形になった後でそれでも止まらず、左右非対称にひびの入った割りばしがそのまま慣性で不細工に割れるように床に倒れ落ちた。 

 打ち身の腹部がバウンドした時に、うつ伏せになった後で、身体が本能的に身を守ろうとしているのか、少しでも楽な姿勢を取って痛みを分散させようとしているのか、芋虫が醜く丸まってはのけぞるような動作を、気づけば何度も繰り返した。

 早くも朦朧としつつある意識の中で、私の心が、みじめと言った。みじめみじめと執拗に連呼する。頭の中でいじめっ子を飼っているようだ。うるさいと言っても無駄なのだった。私の内で便乗して自傷を始めたもう一人の私の心を、止められる存在などある訳がない。

 これは私を共喰いに誘う声なのだ。今までに出会ってきた悪意を集めて煮詰めたような、癇に障る声で私の不規則な呼吸をあざ笑う。本体から抜け出て私の心に巣くったそれはもうそれ自体が一個の生命体と言うべき意思を持っていた。どこかにいるはずの本体に自分達がしたことの落とし前を付けられる度胸も知性もある訳ないから、もはやこうなった責任を誰も取ることが出来ない。勝手に棲みついたペットのようなそれは、私という存在を追い立てるように囃し立てる。頼んでないのに勝手に居座った居候の分際で生意気。まともに相手をしたら負けだと思った。だから生贄として颯真に差し出した。自身の性癖を隠れ蓑にして。

 私の良心を抑え込む忌々しい存在。私の良心はこれのせいで時々狂うのかもしれない。

 思えば、物心ついた時から私の身体は私一人のものではなかった。そもそもこの身体自体、私の言うことを全然聞かないし。でもだから仕方ないということには、ならないのだった。自分でさえままならない身体に、一番嫌いな他者達であるあいつらが我が物顔で寄生していい理由には、絶対にならないのだった。

女ということを差し引いても、血を見るのは人並みに慣れている方で、痛みにも強く、何よりも我慢強かった。今の職場に入ってから、一度だけ興味本位で手首を切ってみた。颯真に分けてもらった仮面浪人時代のスマートドラッグでバッドトリップをして、生まれて初めて自分の身体を自分の意志で傷つける方法で死にたくなったのだった。

 手首を切った時、抽象でしか想像したことがなかったあの黒い血を初めて見た。ほの暗い部屋で見た血は粘り気を伴っていて、手首を動かす度に鈍く流れ、本当にタールのようで、眼前に具現化したそれに感動して思わず泣きそうになってしまった。この時にリストカットはセラピーだという体験者の言葉の意味が分かった。でもその感傷はぬるついた粘りを持つ血の不快な感触と傷口の強烈な痛みに秒で上書きされた。要はハマれなかったのだ。一人の寒い部屋で血の汚れとそれに派生する孤独な痛みに諭されて、人並みの罪悪感が生まれて、自分の手で曲がりなりにも磨いてきた自分の身体を傷つける意味が分からないという境地に至れた。

 自分で救急車を呼んで搬送された先のバイトの医師がたまたま外科医だったので、傷口は今では全く分からない。他人から見れば完全な徒労だが、あれで裏付けられて得たこともある。今まで伝えてこなかったこと、私はお前達が大嫌いなんだということを伝えることが大事なんだという悟り。例えそれが人じゃなくものであっても、嫌悪感を示すことで始まるものは確実にあるという確証。

 この話をした時に、颯真も私の気持ちが少し分かると言った。お世辞、共依存。どちらでもない全く新しい同情的な何か。ただしそれは絶対に愛ではない。一番欲しかったものはまた手に入らなかった。でもそれは二番目に欲しかったものだった。

 さっさと切ってくれれば良かったものを。もう離れることは絶対に出来ないと思ったから共に傷つきたかった。私が心からそれを望んで、颯真も心からそれを望んで、二人で全部分かった上で共に真実に基づく夢が見られるのなら、それがどんなに血生臭い、暴力的な夢でも良かった。

 SMにハマっている当事者達は――そこで行われる行為に全て責任を取る覚悟があるなら、という条件付きだが――痛みを伴うセラピーを共同で行っている感覚でいるらしい。私にはそれは、社会の枠から外れずに変態を突き詰めるための詭弁に思える。それを本気で信じられるようになったら終わりだが、昼間のオフィスにまで浸透して市民権を得ている感覚であることは事実なので、お守り代わりに利用させてもらう。

 私も、もう大人だから言われなくても分かっている。私は、血の痛みと孤独が嫌だったんであって、痛みが嫌だったんじゃない。逆に、痛みのないセラピーなどやる意味があるのか、と思う。あるというなら、そんなのはやる側の自己満足で、それこそが時間とお金の無駄じゃない?

 まだ一発しか殴られていないのに、もう追い詰められそうになる。今倒れたら完全に白けるから頑張って正気でいなければならない。目的達成のためには暴力も厭わない癖に暴力を振るわれるのは嫌いな良心は、理性と感情が共謀して呼び寄せたこの状況に恐れをなし、常々見下している感情に自分の部下の指示まで丸投げしてまた隠れてしまったようだった。

 今は縦横無尽に跳ね回る感情だけが頼りだった。私の感情はどのようにこの身体を操縦していくのか。良心の指示をちゃんと聞いたのか。そもそも操縦出来るのか。一発だけで気絶しないためには、身体と魂を自分で切り離さなければならないのだった。身体の側から引きちぎられる前に、自分でたま飛ばしをやり、痛みを高みから眺めるようにして、感じなければいけない。

 理屈では分かっていても雑念が多すぎるのか、切り離しはまた不完全に終わった。どこかが引っかかっていて完全には切れない。一秒当たりの情報量が多すぎるから、処理が追い付かないのだ。欲張っていろいろ考えてしまうのかもしれない。繰り返す呼吸音を見慣れた足元で聞きながら、私は眉根を極限まで寄せて痙攣のような動きを繰り返していた。うつ伏せになると、心臓の鼓動が全身に響いてきた。身体中が太鼓になったような気分、でも殴られる前よりはましだった。ほぼものになった私の中で、自律神経が狂気じみた疼きを繰り返す。元は颯真のものだったのだろう。人肌を保ったじんわりとした痛みが、下から上に、時に分岐しながら放射状に広がっていく。それにしても、ここまで来ても人肌から逃れられない私には、何か呪いが掛かっているのか。私という人間の悲しさに身体ごとすっぽりと包まれるようだ。透明な膜の中で誰かに好きなだけ泣いてもいいと言われている気分。私の涙を吸い出そうとするそのあざとさを突っぱねられない。絶対に泣きたくない。でも泣きたい気持ちなのはとても分かる。血の赤を感じながら、身体にとっては危機的状況なんだから無理もないだろうと想う。

 視界がぐらぐらと沸騰するように歪んでいく。部屋中の酸素を取り込もうとするように無謀な深呼吸を繰り返す中で、周囲の空気の温度が自分の呼吸のせいで急激に上がっていくようだった。息をする度に下腹部が、特に胸から性器に掛けてのみぞおちに当たるであろう部分が、内臓ごと縦にねじ切れそうに痛んだ。たとえ死ぬほど痛かったとしても呼吸を止めてはいけない。絶対に呼吸を続けなければならないんだと身体は言っていた。そうしないと呼吸困難で本当に死ぬんだよ、と私の身体は訴えていた。その訴えを受け入れながらも、その身体の臆病さに心の底ではしらけていた。 

 そんな風に必死で生きてなんになるの。少しでも酸素を得ようと思ったのか、私の身体が勝手に丸まった。身体だけが機敏に動くのがおかしいと思った。でも無理もなかった。

 私の身体はたぶん、私に呆れている。本当に出来損ないの上司について行くのは大変だ。主人に置いてけぼりにされた私の脳とよそ行きの心はきっと、互いに顔を見合わせた後で、共犯めいた、意味深な諦めの笑みを浮かべているに違いない。

 不意に顔を上げると頭上に真っ黒な天井が見えた。白い間接光を反射して鏡面のように輝く天井は、床だと言われても信じてしまいそうなほど艶めいていて、隙が無かった。こんなものを見たらもっと自暴自棄になる。勘弁して欲しいと思った。もしこれが私の最期だったら、最期に見るのがこんな真っ暗な天井なんて、こんなに空しいことなんて、ない。暗くて陰気すぎるから嫌。嫌なのに。でも嫌だと言っても、第一そんなことを言って、今さら何になるのだろう。


 耳元で不意に風切り音がした。これが二発目だとすぐには認識出来なかった。先程全身で耐えたのと同じ痛みがまた来たのだと理解するまで、バカみたいに時間が掛かった。歯を食いしばったが、遅かった。思えば私はいつも詰めが甘かったのだった。あのトイレで吐く寸前の時のような、ひん死の動物じみた声が丸まって密着した口元とお腹の隙間から響いた。一秒もじっとしていられなかった。痛みと共に胃が裏返って喉奥にせり上がってくるような内臓の引きつりから逃げ惑うように身体を伸び逸らせた。それは死を予感させる不吉な引きつりだった。でも流れに身を任せている限り、それが絶対にやって来ないことを知っている分、私は、私という人間は、たちが悪かった。

 殴られたのはさっきよりも左に近い部分だった。後数センチずれていれば脇腹だったが、彼は脇腹は殴らない。私が何も言わなくても、医者の卵の彼は脇腹と肝臓のある右上腹部、脾臓のある左上腹部は絶対に狙わないのだった。

 颯真が小首を傾げて覗き込んできた。

「ねえ泣かないでよ。僕がいじめたみたいになってるよ」

「‥‥‥泣い‥‥‥て、な、いよ」

「泣いてるじゃん。誤魔化さないでよ」

 もう敬語で話す彼はいない。颯真はくすりと笑うと、脚でじゃれるみたいに私の横胸を軽く蹴り上げた。自身のパーマを掛けたばかりの真新しい黒髪に軽く触れると、狩りの獲物を計算で追い詰めたハンターがするように、また薄く笑った。出会った頃には絶対にしなかった笑い方。中学の時の休み時間に読書をしていたらカースト最上位のクラスメイトにこんな風に寄って来られて怖かったとこぼしていた。暇つぶしの生贄を物色する時に、食物連鎖の理解が甘い輩はこんな風に笑う。

 既に最初の分解が終わったのか。この笑い方は、医学部に入った彼の新しい癖になった。赤の他人のは熱湯をぶっかけたいほど嫌い。でも、颯真のは虫唾が走る程好きだ。相変わらず勉強が忙しいそうだから、服装だけは依然として変わっていないけど、外面的に変わってないのは、もはやそこだけのようだった。

「まだ終わってないからさあ、立ってよ」と私の耳元で囁きかけた後に、頬にキスをした。今何をされたのか、反芻するために瞬きをすると、液状のものが睫毛の脇に触れた。 

 私は泣いていた。いつから泣いていたのか、分からなかった。

 セフレがいる医大生の立場に慣れた所に、加虐の楽しさを吹き込んだら、すぐに根元まで染まってしまった。ソフトSMで止まると思っていたら、ここまで来た。元々その素養があったのだと思う。現にドラッグの分野では、颯真は高校の薬物乱用防止啓発映像で知識が止まっていた私よりはるかに先に行っていた。たまたま枕元で颯真のピルケースが転がった時に、慌て方がおかしかったから聞いたら、あの受験の間だけ個人輸入したスマートドラッグを使っていたことを告白された。

 編入試験に落ちた頃に初めてメンタルクリニックに行き、そこで処方された薬にヒントを得たのだと言う。自身の症状の延長線上にある薬。国内の臨床では治療薬としてメジャーに使われており、セカンドオピニオンで確認したが、自分の段階でもこれを処方する医者もいる。海外では既にスマートドラッグとして一般使用が合法化されている。薬効はセントジョーンズワートのような精神安定が主。「セントジョーンズワートはコンビニでもたまに売ってるから聞いたことあるよね?」と真顔で念押しされた。

 ふうん、と思った。服用していたドラッグは、ドラクエの呪文みたいなかわいい名前だった。精神高揚の薬だと言ってくれた方が薬のせいに出来るから良かったのに。あからさまな嘘を吐かれたようで寂しかった。でもこういう子ほど染まりやすいことを経験から連想出来たという点に、私の罪もあるのだった。むしろ染まってくれたということが、相変わらず根が素直であることの証明でもあった。

 大人しい男の子だけど、本当は人一倍負けず嫌いで、プライドが高い彼を激昂させるのは簡単だった。彼の心の底に沈んだ怨嗟をつつくだけで良かった。

「私と初めてした時、童貞だったんでしょう? 全部バレてたよ」

 そう囁いて嫌味な笑顔で微笑むだけで良かった。こんな笑い方をする見本は社内に腐る程いた。むしろあいつらから学べる唯一のことだった。

 最初にそれを言って、それが私の本心だったのだと颯真が理解した時、しばらく沈黙があった。その沈黙が、今ならまだやり直せるんだよ、と意志を持っているようで、その説教臭い態度がどうにも我慢ならなかった。激高した私はより手遅れになる言葉を選んで、立ち尽くす彼に浴びせた。彼は真っ赤な顔をした後で、羞恥心を私に見せまいと俯いた。私を傷つけたくないからではなくて、自分の中のどす黒い思いを抑え込もうと葛藤している、その姿を見られるのが嫌なようだった。彼の握りしめた両拳は、小刻みに痙攣していた。それは彼の透明な心壁の中で行われている怒りの壁打ちが、具現化したものなのか。目の前の人間に激しい怒りを感じても、それをストレートにぶつけられない時に人は皆こういう反応をする。顔もそう。コンロの炎と一緒で、あからさまに真っ赤になったりはしない。こういう時の顔は、死体のまま蘇らされたゾンビみたいに真っ青になる。

 私を傷つけたくない彼の代わりに私は彼の中に棲みついていた「私」を殺したのだった。彼の中で描かれている、数割増しの理想の自分を握り殺したのだった。とんでもないことをしてしまったという重苦しい罪悪感、あの馴染みのある罪悪感が沸き上がった後で、不気味なすがすがしさと言うべきものが、私の脳内に静かに満ちていった。毒なのか何なのか分からない曖昧な感情に私は戸惑い、苛立った。そしてその苛立ちをまた彼にぶつけた。私は腹黒く、したたかだった。だって一時の気の迷いだったと思い込むことすら許せなくて、その逃げ道をも塞ぎたくて、何度もその発言を繰り返したから。全てが水に流れかけた頃を見計らって、わざと時を戻して、同じことを言った。そうして何度も何度も丹念に刷り込ませたのだった。これが現実で、私が本当はこんな人間だということを。

 私は、私の中の「彼」をパブロフの犬にした。皮肉にも現実の彼も、特に私を殴った後のセックスで涎を垂らした時に、実際にそう見えた。

こんな風に人をもの扱いして、ただで済む訳がないと思っていた。颯真に心があることはもの扱いした私が一番良く分かっていたから、いつか必ず今のような生ぬるい方法ではなくて、私の心の尊厳をずたずたに引き裂かれる方法で復讐されると思っていた。それが分からないのなら私の方がものだろうとも。私が彼に復讐される日、それがいつなのか、分からなかった。待つ側には待たせる側の気持ちは分からない。具体的にいつと伝えられたとしても実感が湧かない。終末を待つキリスト教徒も、こういう気分なのだろうか。無宗教が分かる訳ないが、何も考えずにいられるほど私は愚かにもなれなかった。

 私は張りぼてだった。傲慢な感情の裏の、自己嫌悪を伴った罪悪感に内側から蝕まれている。そんな実感があった。でも内側から腐っていくこの現状を私は受け入れていた。嫌いではなかったのだ。その嫌いではないという感情が、私に人の形を辛うじて保たせていたものだったのかもしれない。人型の張りぼての中に小さな風穴が空く瞬間にはこの上もない快感が走った。そこから吹き込む空気のおかげで私は、混線した感情の中でも、流されずに私を保てた。風穴から吹き込む空気は、倒れ込んだ時の床の冷気をはらんでいるように思えた。その押し付けた肌を刺すような冷たさは、理性や感性の鎧を纏った私をまとめて壊してやったという、一番奥底の私自身が渇望していた解放感を鏡のように投影したものだと思っていた。これも自虐の亜流だろうか。だがそれが着つけとなったおかげで私は、現実はどうあれ、呼吸出来ているようなものだった。彼の前で悶えて、彼の加虐を引き出す度に私の人型の風穴は膨らんだ。身体が追い詰められるのと引き換えに私が本当に吸いたい空気が身体中に満ちていった。

 殴られた後は、裸になってセックスをしながら、彼が振るった暴力を身体に馴染ませる時間が始まる。それは、感情のままに生み出される言葉の暴力に、今度は颯真が耐える時間でもあった。

それは人工の鳥が羽ばたくような、純粋な時間だった。



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