10

「芙由って、ほんと小食だよね」

 考え事をしていたのに、二葉ちゃんの声で現実に引き戻された。眼前には野外の剥き出しの日光を受けて鋭利な刃物のように光るフォークの刃があった。私はうわの空でずっと自分のフォークを見つめていた、ようだった。ぱちぱちと瞬きをして辺りを見回した。ここは社食のテラス席。今は‥‥‥きっと昼休み。テラス席は私達だけだけど、室内にはそこそこ人がいる。幸い不審な視線は浴びていない。二葉ちゃんだけに見られている。実際にそうだったのかは知らないが、そう自分に言い聞かせた。見ているのは、二葉ちゃんだけ。友達の情で、ただ不思議そうに見つめてくれる二葉ちゃんだけだと、言い聞かせた。

「‥‥‥はすみさんは?」

「‥‥‥まだ帰って来ない。また部長に仕事押し付けられてんじゃない?」

「‥‥‥」

「昼休みなのに、パワハラじゃない? ねえ?」

「‥‥‥」

 気まずい間を埋めたかっただけの質問なのに必要以上の興味で答えてくれた。半分冗談、半分本気で無邪気に笑いながら言う二葉ちゃんを笑顔であしらいながら、辺りを見回した。

 太陽が真後ろにあるのか。私の席は、若干日差しが強かった。

 ‥‥‥目の前にあるのは、これは日替わりなのか。給食みたいな白いプラ食器に、乱暴に盛り付けられている料理。滑りが悪い傷だらけのトレーの上にあるのは、ご飯と、何の肉だか分からない手のひらサイズの薄い揚げ物。その上にある小鉢は、たぶんほうれん草のおひたし。雑に切られて凧のようになったわかめと薄く刻んだ野菜が浮いた味噌汁。ミックスベジタブルが入ったポテトサラダ。味噌汁の野菜はミックスベジタブルの野菜とほとんど同じ種類、だと思う。目線を上げると二葉ちゃんも同じものを食べているようだった。ほぼ給食の、義務的に胃の中に流し込むための食事。二葉ちゃんはもう食べ終わってるのに、私はほとんど手を付けていない。

 半分寝ぼけたような頭で、でも手だけは素早く動かして、スマホを取り出して時間を確認した。十二時半。良かった。今から急いで食べれば、大丈夫だろう。でもどうしてだろう。こんな風に記憶が飛んでしまうのは、疲れているのか。

 ‥‥‥そうだ、そうに違いない。私は疲れているんだ。思い出した。だって…‥。

 昨日も残業した後で、颯真に会って、抱かれた。その後で家に帰った。樹にお帰りと言われて、彼が作ったご飯を食べた。代わりばんこにお風呂に入った後で、樹にも抱かれる所だった。けど、私が出来ないと言った。嘘を吐いたのだった。樹は仕事のストレスが溜まっていたのか一瞬ムッとした顔をした後に、取り繕うように残念そうな顔をしたけれど、手で頑張って奉仕したら満足して眠ってくれた。仕方ないのだった。だって颯真に抱かれた日は、樹に裸を見せられなくなる。特にお腹は、絶対に見せられない。

 あそこで感情を正しくぶつけ合っていればある意味きれいに別れられただろうに、私達の関係は、それでも切れなかったのだった。互いに手駒の感情を隠し持ったまま、最初の恋を手放せずにいたら、それは時限付きのものだったようで、変質した。違う。私が変質させたのだ。颯真は私を軽蔑することをまず覚えた。そしてそうすることで、私とのセフレの関係に慣れることを選んだ。 

 実際、樹と付き合ってから、颯真と会う頻度は激減した。前は月に何度も会っていたのに、今は二か月に一度しか会わなくなった。颯真はそれでも耐えられるのだった。だって一回のセックスの濃度を上げれば、回数が少なくても満足出来る。なぜ食欲がないのか。今日だけではない、私はいつも食欲がないのだった。

 私は颯真に殴られるようになった。

 最初に殴ってくれと頼んだのは私だった。「このままセフレの関係を続けるんだとしたら、颯真も彼女を作ってよ。で、もっとセフレらしいことをしようよ。例えば、お互いの彼氏や彼女にも頼めないこととか、しようよ。そしたらもうお互いのことを彼氏や彼女だって、間違えないよ」

 颯真はそれを聞いて絶句していた。歪んだ罪悪感と自己嫌悪があの言葉を言わせたのだと思う。私の中の悪魔が、あれを言わせた。颯真に対して、あそこまで言ってもまだ、手のひらに溜めていた水が指の隙間から零れていくような感傷は抱いても、ああ言ったこと自体に対する後悔の念は湧いてこなかった。当たり前だった。私の中のあの悪魔は、私の中に棲みついているだけで、私に親切にする義理もない。それにあれは悪魔じゃなくて、ただの私の別人格なのだから。

でも颯真は私を止めなかった。やはり、本質的にはそう出来る人だったのだと思う。要するに、サドにもすんなりなれる人だった。

 彼はしばらく何かを噛み締めるように俯いた後で、数週間連絡を絶った。その後でまた会うと、どこか吹っ切れたような顔をして、「芙由さんの気持ちは、分かりました」と、ATMの自動音声のように言った。

 芙由さんがそれでいいなら、僕も彼女作りますね。そう言った翌日に、颯真はコンタクトにした。わざわざラインでコンタクトにした自撮り写真を送ってきたのだった。元々医学部に入ったらこうするつもりでした。私は似合う、とスタンプで返信した。動揺したら負けだと思ったのだった。次に会った時には、こんな風に補足もされた。解剖学実習の時とか、眼鏡があると煩わしいと思うから、一年の時からコンタクトにして慣れておこうと思ってたんです。

 颯真は「解剖学実習」という用語を発する時に、顔を上げて得意げな表情をした。語尾に力強さが増していた。自分がその特別な医学用語を、自然体で発言するに値する存在であることを、もう隠さなくなった。かいぼう、という猟奇的な響きも、彼の遅れてきた思春期のエゴイズムを支える後押しをしたのだと思う。「颯真さんならモテると思う。眼鏡のままでもモテるし、コンタクトに変えたらもっと」私が半分冗談、半分本気で言った言葉を、颯真は自分の意志で現実にした。

 最初は見たくないものを見たと思った。でも見慣れていくうちに、私はそんな颯真を正しい存在と思い、それをそのまま受け入れた。今ではそれに満たされるようになった。

颯真に薄墨色のナルシズムが加わったことで、私達の立ち位置は自然と逆転した。

私は名実ともに施される側になっていた。

「‥‥‥芙由、ふーゆ! 今日も食べないの? 何ボーとしてんの?」

「え、ああ、食欲ないかも」

「また後でカロリーメイト食べるの?」

「うん、あれ食べとけば倒れないし」

「芙由って時々食に興味なくなるよね」

「‥‥‥興味がないっていうより、まずいものを味わって食べるのが嫌なの。だってまずいものを味わっちゃったらまずさの再確認をすることになっちゃうでしょ?」

「‥‥‥あー、まあね」

 自分ではすごいことを言ったと思ったのに、二葉ちゃんはけろっとした顔で屈託のない笑顔を見せた。今日はなぜ二日酔いじゃないのか。二葉ちゃんの鈍さが、私は時々恨めしくなる。私銀行行ってくるわ、と言い残して席を立とうとする二葉ちゃんに、「みずほなら午後に両替行くんだよね、その時についでに済ました方が得だよ」と言い、お菓子を出して引き留めた。

「これ、アマゾンで買ったんだ」

「あそれ知ってる! ハリボーのグミでしょ。カエルのやつもあるんだね」

「青リンゴ味なの。お腹の白いのはマシュマロ。結構癖になる味」

 おもむろにバッグからはさみを取り出してパッケージを開ける。デモンストレーションのようにカエルを一匹取って口の中に入れると、新鮮な食べられる絵の具を口に含んだような、みずみずしい原色の味が口いっぱいに広がった。いかにも外国のお菓子味。でも慣れればそれなりにハマる味。

 二葉ちゃんは私に釣られてパッケージに手を伸ばす。パッケージの口に指が挟まる仕掛けがあったらおもしろいのにと思った。あの昭和レトロのガムのおもちゃみたいに。

 半信半疑で口に入れる。数秒後、「あ、おいしい」と言ってまた手を伸ばす。

「止まんなくなるでしょ」

「うん、もろ輸入菓子って感じの味だけど、何かいいね」

「今は売ってないけど、アマゾンだとこんくらいのバケツに入ったのが前に売ってたよ。カエル食べ放題」

「え?マジ?‥‥‥グローい。でも今もグロいか。もろにカエルの形だし」

「海外のお菓子あるあるだよね。でも結構いけるでしょ。もっと食べな」

「え?いいの? じゃ、いただきまーす」

 二葉ちゃんはカエルを貪るように食べている。前に未来のライフスタイルをフィーチャーした企画展が六本木の森美術館で開かれた時に、昆虫食のミュージアムグッズとして、タガメサイダーというものがあった。「昆虫食に興味ある方必見!」のコピーも空しく、大量のタガメが大釜の中で煮られている写真の横で売られていたそのサイダーを買う人は誰もいなかったけど、私は二葉ちゃんの誕生日プレゼントにそれを選んだ。メインが予約のなかなか取れないけやき坂のVRレストランのチケットで、サイダーと無印のコオロギせんべいとで、三点セットにして渡したんだっけ。二葉ちゃんはサイダーのパッケージを見るやいなや、手を叩いて爆笑して、その場でサイダーを飲んでせんべいを食べた。私に気を遣ってるのではなくて、自分がそうしたいと思ったらしかった。普通のサイダーに、パクチーを鍋一杯入れてぐつぐつ煮詰めた液を一滴落としたような味がする、えびせんみたいな味がする、と言いながら。

「おいしい?」

「うん!」

「よかった。食べてるとこ、インスタに載せるといいよ。パッケージかわいいから映えるよ」

「‥‥‥えー? ふふ、うん」

 今度バケツのやつも見かけたらまた買って持ってくるね、と背中を押すように言い、他におもしろいことないかな、と思いながら、辺りを見渡した。

 社食の建築デザインは相変わらず才能の無駄遣いだった。ビル共用の社食は、美術館のエントランスによくある近代建築の吹き抜けデザインだが、中央のドリンクバーを起点にして半円形のテーブルと椅子が同心円上に並ぶ点に、プリツカー賞を受賞した建築家のノスタルジックなこだわりが見える。だが今は、そのこだわりが裏目に出ていた。

 デザイン上は野外にいるのと変わらない開放感があるはずなのに、室内は茶褐色の大蛇がとぐろを巻いているような、不潔で澱んだ雰囲気しかなかった。デザインがうちの会社の食堂という機能にイメージごとすり潰されて、不潔にねじれた軟体になって排泄、いや垂れ流されているかのよう。ここまで考えたら口の中に無理やりそれをねじ込まれるような気になった。今、胃の底にそれが入っている。たくさん。空気が一気に不味くなっていく。 

 気持ち悪い。もうこれ以上は、「給食」が喉を通らなくなるから考えたくない。

 私は視点の焦点を室内の人々に移した。昼休みも終わりかけだから皆、空の食器を見せ合ったまま向かいの相手と会話するか、目の前の相手を暗黙の了解で無視してスマホを弄っている。相手がいない人間はテーブルに突っ伏して充電切れみたいに寝ている。そのままトイレの中みたいなガスが充満した空気の中で、再起動しないのがいても、不思議じゃない。 

 でもそれを改めて知った所で今更何。つまらないから、私は目をレーダーにしてマイノリティを探す。

 あの人はすぐに見つかった。やっぱり、いた。背中を丸めて一人でカレーらしきものを食べている。こんな所でそんなものを一人で食べられる感性、やっぱり普通じゃなかった。

 理性も麻痺しているのか。飛んで火にいる夏の虫なのがどうして分からないのだろう。逆張りの現実逃避のつもりなら余計に無理がある。そういう設定で行きたいのなら、そんなにきょろきょろしちゃ駄目なのに。まさかそれすらも分からなくなってしまっているのかと、別角度からの鈍さと、それをコーティングしている甘えのどきつさに、また少し苛立った。が、自分のことでもなし、どうしてそんなに気になるのかと思ったら逆におかしくなり、心の中で笑った。

「最近おしゃれになってるの」

 いつの間にか同じ方向を向いていた二葉ちゃんが、カエルを嚙み砕いて飲み込んだ口で言う。

「化粧は相変わらずだけど、服のセンスはなんかね、ちょっとずつ良くなってる」

「‥‥‥ふうん」

「でも相変わらず仕事出来ないって。周りに対する態度もヤバいって話だよ」

「‥‥‥」

 まあどうでもいいけどね、と言いながら、二葉ちゃんは最後のカエルを摘まんだ。私もどうでもいい。もうお腹いっぱいだから。あれ、もうない、私だけで全部食べちゃった。二葉ちゃんは独り言のように呟いた後で、また頬杖をついて横を向いた。

「あ、花梨達じゃん」

「ほんとだ」

「‥‥‥もうあたし達も行こうか」

「うん」

 二葉ちゃんは伸びをして立ち上がった。建付けの悪い木製の椅子ががたんと、大げさな音を立てた。ずっと屋外に出しっぱなしにしておくからこんな風になる。

 二葉ちゃんは懲りずにあの人の所にまた向かっていった。救いようのない観察対象に対して、次は何を言うのか。ひやひやしてならない。心臓に悪いから止めてほしいけど、頼んでもどうせ無理だろう。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る