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 颯真の容姿は豆柴に似ている。眼鏡を掛けた黒髪で、はにかんだように笑う所が従順さを感じさせるのかも知れない。長身なのにイメージが豆柴という所が、颯真の性格を現わしすぎるほどよく表していた。付き合いはもう二年位になる。出会いはマッチングアプリ。樹と出会う前のことだった。この会社に入る前の失業中に色々なことに引け目を感じていて、でも一人ぼっちだった。あの時の私が東京で心を許せる相手は、前の会社の社長しかいなかったけど、社長とはお互いに第二の人生を歩むような形で気持ち良く別れていたから、今さら連絡を取って迷惑を掛けるという図々しいことは出来なかった。また率直に言うと、社長は私を理想の娘像のようなものに当てはめているようでもあった。働いている間はそれをありがたく享受して守ってもらっていたけど、内心では、その理想の娘像は私にはふさわしくないという思いがあった。

 私は社長が人間的に好きだったから、社長が好きな人間のままで別れたというだけだ。その理想のイメージを、向こうも大変な時期にあえて壊すという「親不孝」なことはしたくなかったし、疑似の娘としてのイメージを押し付けられることを拒んでもいけないと思っていた。なぜなら社長は、最初から最後まで、私を傷つけていないから。自分が思い描いたイメージそのままの私を、下心など一切見せずに、実の親同然に世話してくれたから。そういう人のイメージを壊して幻滅されたら逆に私の方が耐えられないと思った。だからあの社長に自分の弱った黒い顔を見せるという選択肢は、最初から無かった。

 社長からは退職金を貰っていて、足りなくなったら連絡しろとも言われていたが、私は意地でも連絡するつもりはなかった。私が退職した直後にタイミング悪く好景気が終わって、就活は一気に厳しくなった。大企業でリストラに遭った間接部門の人々が転職市場になだれ込んできているようで、最初から高望みはしていなかったが、中小企業の一般事務のスキルと、若さと愛想の良さだけでは前職と同じかそれ以下の規模の企業の面接にも受からなかった。とある中小企業の事務の一次面接では、会議室に入ると十人以上の同世代の女の子が集まっていて、新卒さながらのSPIを一斉に受けさせられたりした。大学時代の就活の頃に散々苦しんだ、「あなたを野菜に例えると何?」のような、広告代理店のクリエイティブ面接の真似事みたいな、下らない質問の対策を練らなければならなくなった。集団面接で隣に座っていた子達と私は、能力的に互角に思えたのに、なぜ落とされたのか、全く分からない。就職支援センターやハローワークで、主観なのか客観なのか分からないアドバイスをもらって悩み、どこが駄目だったかを仮定で考えて、受かるための対策を、また練らなければならなかった。大学四年の、堂々巡りの地獄に呼び戻されたみたいだった。

 やり切れない思いを吐露する相手もいなかった頃に、たまたまマッチングアプリが流行っていたのもあって、無料体験登録をして、使い心地を試していた。

 明るいイメージになっても所詮は出会い系サイトの延長だという意識はあったから、実際に会うまでは中々行かなかった。無料ポイントに釣られる形で、こういう使い方をしていた普通の人は多かったんじゃないかと思う。現に颯真も普通の大学生だった。正確に言うと、多大なストレスを抱えて生きている大学生。進学で上京したが、現役で落ちた医大を目指して、大学寮で仮面浪人をしていたのだった。「親が医者なの?」と尋ねると、うん、まあと言う。色々あるのだった。無ければこんな所に登録しない。

 サイトのチャットが使いにくかったから、ラインを教え合って、しばらくそっちで話した。一度会ってみたいと向こうが言い出して、ヤバい人だったら人込みに紛れて逃げようと思って新宿駅で待ち合わせた。やって来たのは本当に普通の黒縁眼鏡の大人しい大学生で、写真で見たのと同じ顔だったのが逆に怖かった。

 颯真は「初めまして」と言った後で、俯いて黙ってしまった。眼鏡がよく似合う端正な鼻と口元を持っているのに、本人はその日本人離れした美しさの価値には気づいてはいないようだった。一度も目を合わさない所を見ると、向こうも私のことを怖いと思っているのが明らかだった。互いの間に、触るときつい静電気が起きそうな、見えない空気の壁が、いつの間にか、でも確実に出来ていた。

 気まずさを感じて窓の外に目を向けた。四車線の大通りに面した窓から見る景色は暗く冷たかった。快晴のはずなのに、太陽がいつの間にか巨大なストロボに変えられていて、その寒色の光に街全体が被ばくしたかのような、物言わぬ静止画めいた景色だった。

 敵でも味方でもない見慣れた新宿駅東口周辺の景色が急に色褪せたように感じた。私の目の前で劣化した建物の壁みたく、むごい剥離の連続の末に崩壊していく。そんな錯覚を抱いた。この人と一緒にいると当たり前すぎて見飽きたはずの景色でも、こんな危ういものに瞬時に変わってしまう。それは私達が初対面だからだと思っていたが、しばらく話してそうではないことが分かった。

 颯真はあまり笑わない人だった。普通の人が笑うような時には、戸惑ったような顔をして目を伏せる。笑うことが出来ないのではなくて、笑わないのだ。不意に目が合うと微笑んでくれるのだけど、それは礼儀やもてなしに位置づけられるもので、そこに彼の本当の感情はないように思った。不意の笑いに襲われた時は観念したみたいに笑ってくれるのだけど、笑うこと自体に罪を感じているような意識が、所作の端々に感じられた。

 一見普通の善良な男の子に見える颯真を普通じゃなくさせている、不自然なオーラの一因がこれだった。正体不明の罪悪感を負って生きているような。この負うべきでない荷を誰かに負わせられているようなアンバランスさが、颯真の精神年齢のメモリをかすませて、実体の無い幼さを付与しているのだった。

 待ち合わせ場所の近くのエクセルシオールに入った。コーヒー代は社会人の私が奢った。何でもないことなのに、すいません、と颯真は細長い身体を折って卑屈な声を出した。何で私なんかに。その消極的な判断が、過剰防衛に見えて堪らなく嫌だった。

 窓際の席で向かい合った。あの果物屋の横にあったエクセルシオールも、新宿駅前の再開発の大波に飲まれて、もうない。

 平日の美術館の吹き抜けのカフェを思わせる、だだっ広い店内で、彼と目が合って、義務のように微笑まれる度に思った。この人懐っこそうな演技の奥の何とも言えない悲しさは何なのか。笑ってはいけないという呪いに掛かっているようでいて、でもその呪いに掛かっているということ自体はあっさりと認めて、諦めているような。その状態もまた、アンバランスゆえにこちらに不安を起こさせるほど不自然で、ぎこちなかった。そもそも日常生活における諦観という感情は、もっと歳を取った人が、世の中のありとあらゆるものに拒否されて、生きることを諦めて、でもそれでも生きていかなきゃならない時に生まれるものじゃないのか。それなのにまだ若くて、たぶん頭も良くて、将来のために勉強も頑張っている子が、どうしてこんな表情をするのか。自称SNSの達人のインフルエンサー達が言う、ラインとリアルで人格なんて変わらない、なんて大嘘だと思った。

 これまでのラインのおさらいのような会話をしながら、心の中では「ああ、私達、誰に盗聴されても恥ずかしくない会話してる」と嘆息していた。私達は当たり障りのない会話の裏でお互いを、好意的な目で見つめたままでけん制し合っていたのだと思う。私がライン通話で話していたあのはにかみ屋の、将来の希望を慎ましやかに信じていた子はどこにいってしまったのか。もしどこにもいないのなら、こんなの、まるで私がこの子をお金で買っているみたいだと思った。不意に自分が失業中だということが頭を過った。アプリで彼と話していた頃の青い思い出は蒸発した。入れ替わりに社会に対するどうしようもない引け目が、蒸し返してきた。こんな大都会の真ん中で、私は真っ昼間から働きもせずに何をやってる? 一体何をしようとしている? 答えはなく、こんなことを考えている自分自身に、いたずらに焦れるような虚しさを覚えた。

 上京者にとって、東京はフレネミーのような存在だと思う。こっちから擦り寄ったら仲良くしてくれるけど、ここに生まれることが出来なかったというこちら側の引け目は、とうに見透かされている。

 こっちが弱っている時などに、「それならね、そんなに辛いならね、こういう生き方もあるよ」と馴染みのある音楽が流れる、異界に通じる穴をチラ見せする。親身に思える救いの言葉を信じて、その穴に足を突っ込んだら最後。引きずり込まれて、生きたまま毒で麻痺させられて、喰われる。骨も残らないほどしゃぶりつくされて、仲間内の養分にされる。 

 上辺だけの華やかな関係を築くには最適の友達。一緒にいてこれほど楽しい友達はいない。お金さえ払えば何でもしてくれるし。でもメンヘラだからその瞳を覗き込んだら、自分の孤独が鏡のように映っちゃう。目を逸らしても駄目。私のこと好きなんでしょう? だから苦労してここまで来てくれたんだよね、って言われる。それが東京の手口。上京することで東京を強制的に故郷にすることを選んだ私がその穴に落ちてしまったら、もうどこにも行き場所がないし、悲惨な死が確定だから、私は絶対にその穴には落ちない。

 何言ってると思われるかもしれないけど、多かれ少なかれ皆そうなんじゃない? 皆生きるのに必死。東京の一等地で生まれることが出来た梨々花みたいな特権階級以外は皆一緒。たぶん成り上がってもこの感覚は消えない。物心ついた時に押される烙印みたいなものだから、忘れる方が異常。

 私の東京がこの子を連れてきて、この子の東京が私を連れてきた。両方とも東京の駒で、被害者。この子を傷つけることで私も傷つく。そういう構造の罠なんだと思うと、無性に悲しくなってきた。どうせ傷つけ合うのなら、目の前のこの子を、人と思ってはいけない。そ思うから余計に傷つく。


「寮の門限が夜の十時だから今日も十時には帰らないといけないんですよ」と自嘲気味に笑う子供みたいな人が、目の前にいた。

控えめに言って、バカみたいだと思った。お互いに時間が貴重な身の上なのに、時間を無駄にしている。当たり障りのない道徳の教科書みたいな会話して。そんなに門限が気になるなら、さっさとお家に帰ればいいのに。

 俯いてコーヒーを飲んだ。昔のプレステの格ゲーみたいなカクカクした動作。僕この空間に溶け込むのがいっぱいいっぱいなんで配慮してくれませんかね、と言うかのような、動揺と相手への甘えが無意識に、でもあからさまに出ていた。「何を期待してるの?」と聞きたかった。もう自分の口ではっきり言って欲しい。どうして欲しいのか。私に何をして欲しいのか。その方が時短になるし、誤解も解けるよ。心よりも身体の方が饒舌だなんて、昼間じゃ笑えないよ。手遅れになる前にそういうキャラじゃないって言ってよ。

 何も聞こえてない彼は目を落としたまま私に何か質問をした。私は話を聞いてなかったから答えられなかった。彼は私の顔を見て、何か言いたげな目をした。言いたいことがあるなら言えばいいのに。明らかに話を聞いてないのは分かってるんだから、ちゃんと聞いてよって怒ればいいのに。彼は心配そうな、でも優しそうな目を向けるだけで何も言わない。

 ここまで考えたら、無性に腹が立った。

あからさまにスマホを取り出すと、ラインを開いて一斉に文字を打ち付けた。目の前のその人は一瞬あっけに取られたようだったけど、仏頂面でメールを打つ私のことを急ぎの用事が出来た人だとまた好意的に解釈したらしく、崩れた積み木におずおずと話しかけるように会話を続けた。

 

 あの、大丈夫ですか? 何か急ぎの用? あ、そうですか。‥‥‥こ、この辺は、この辺は浪人し始めてからはあんまり来ないんですけど、高校が新宿だったから高校の頃は毎日来てたんです。あの僕高校まで男子校だったんですけど。でもちょっと来なくなると見慣れないビルとかけっこう建ってて、なんか来る度に変わってて、自分が今どこにいるのか迷っちゃって。でも、今はスマホ見ればいいのか。僕地図アプリとかあんまり得意じゃなくて、地下を歩く時とかは勘で行っちゃいます。高校の頃は学校で禁止されてたからスマホ買ってもらえなくて、それで何とかなってたっていうのもあるから。でも大学受験は結局失敗しちゃったんですけどね。だから今、リカバリーしようと頑張ってる訳で‥‥‥。

 誰も幸せにしない言葉を片手であしらうように、文字を打ち付けながら左手で髪を耳に掛けた。彼の視線が一瞬浮いて、私の左手に移ったのが分かった。自慢の白くて細い指。この指が好きだと言ってくれる人もかつていた。私のこの指に彼がどんな想像をしているのかと思ったら、初めから予想していたことなのに、得体の知れない黒い手に、裸の両胸を鷲掴みにされて、その奥の心をゆっくりと嬲られるような感覚を覚えた。その手に素直に嬲られたくないと思った。指先には細い髪の感覚が残っていた。薄い前髪を斜めに流したダークブラウンのセミロング。私は学生時代からずっとこの髪型だ。そして私の指先もまたあの頃から何も変わってはいない。うんざりするほどの定形の事実の蓄積が私を形づくっている。

 逡巡するかのように、何度もメッセージを推敲した後で、「西口にある現役時代に通っていた予備校の脇を通ると、引け目を感じて死にたくなる」とまた一人で笑った「この子」に、別次元から同意の笑みを浮かべた。彼は笑顔で「死」を消費した。医者志望なのに「死」の扱いがもう軽いね。そういうとこ好きよ。

 あなたに合わせて笑うのはこれが最後ね。引導を渡すように送信ボタンを押した。

 私の透明な囁きに「分かった」と言うように、彼のスマホのバイブが鳴った。不意の通知音に驚いたのか。子供のように目を見開いた彼は、すいません、とばか丁寧に断って、スマホを取り出した。さっきの待ち合わせ場所で、触っていたのと同じスマホがまた現れる。至近距離で見ても、使い込んでいることが明らかなメーカー不詳の黒いスマホは、鈍い光を放射するばかりだった。彼が覗き込む寸前に画面がちらっと見えた。彼は私と違って、ラインのメッセージを隠さずに、通知画面にそのまま表示させていた。

 

 今日はホテルには行かないですか?


 「え?」、もしくは「は?」と言う言葉を投げつけたかったに違いない。そんな顔をしていた。でも彼はそんなことしなかった。周りの目と自分のイメージを考慮して飲み込んだ彼の抗議と思える行動は、やっぱり臆病で、いい人じみていた。何か言いかけの言葉の語尾を不自然に口の中に押し込んだ後で、ぱちぱちと大げさに瞬きをするだけだった。

 私は駄目押しをした。今度は右手で髪を耳に掛けると、何気ない態を装って、今度はわざと敬語を使って言った。

「ほら門限あるってさっきおっしゃってたから、もし行くなら早くしないとって思って」

 上辺の会話も、腹の探り合いももうたくさん。そんなのは、面接でもう嫌と言うほどやった。

 今思えばあの時のあれも東京が主催したチキンレースだったんだと思う。普通のチキンレースと違うのは、あのレースは運営に予算がなかったから、あまりにもセットがチープだった。だから、セットの壁を突き抜けて第三の選択肢が選べちゃったのだ。参加者だった私はたまたまそれに気づけたから、その出来合いのしょぼい仕組みの穴を突いて逃げ出せた。そして運営側に回れた。末端だけど、確かに支配する側に回れたのだった。颯真がそこにいたのは、たまたま。彼に落ち度があるとすればあそこで逃げなかったことだった。

「ラインで話したように今まで色々しんどかったからストレス解消したくて、行けたらいいと思ったんですけど、そういうつもりじゃなかったですか?」

 その場に留まり続ける、彼の心の奥に必ずあるに違いない欲望を白昼の光に晒した。私の心を執拗に奪い合う天使と悪魔がいた。天使は良心の化身だった。悪魔の方は、知らない。

 お願いだから逃げてよ、とひたすらに哀願する天使と、「そんなに共犯になりたいんだ?」と高飛車に挑発する悪魔。きつい酒を引掛けた時のように、胸がかっと熱くなった。譲るとか、妥協して和解するとかいう発想はそもそもない。一方が引かないのなら、心が真っ二つになっても別にいいから、相手が死ぬまでやりたいと彼らは言っていた。昔からそうだった。これからもそうだろう。口汚い言葉が脳内に響いた。自然と胸が痛くなった。孤独と罪悪感から逃れるために、畳み掛けるようにメッセージを送った。ここからは私一人の責任ではないと思う。颯真は何か支離滅裂なことを言い訳みたいに言った後で、結局ホテルに行くことを選んだのだから。

 歌舞伎町に行きましょう、と意識的に口角を挙げて誘うと、颯真は視線を外してその口から、ええにもはいにも聞こえるような不明瞭な音を発した。表通りを物色しながらしばらく歩いた後で、意識的に汚いホテルを選んで入った。彼氏の樹とは絶対に行かない類のホテル。レンガ造りの門壁には錆が混じった赤黒い汚れがこびりついていて、その上から汚水と排気ガスの混じった空気で育った緑色の苔が、悪趣味なエアプランツみたいに生えていた。外観は赤レンガ張りの低層のビルで、苔と同じ色の蔦が半ば枯れながら大量に絡みついていた。ホテルと言うよりも寂れた演芸会館のようで、そこだけ次元が歪んでいた。ご休憩、という言葉が似合いすぎるほど似合う。勇退という名目で社会から退場させられた建物だった。

 でもこの場所こそが今のどん底の私達にはふさわしいと思った。今の私達の象徴みたいな、ここから新しいものが始まるのであれば始まっていくだろうし、始めたいと思った。あのビルは、今でもある。総務課の窓からも普通に見えた。幽霊のように見える時もあるし、情緒不安定な人間のように見える時もある。年老いた身内のようだなと、見る度に思う。

 ホテルの中も予想通りくたびれていた。鍵の受け渡しはやはり有人で、私が休憩の旨を伝えるとお馴染みの細長いバーの付いた鍵が、しわしわの手の下から出てきた。部屋二〇四号室ですか、と確認して廊下を突き進む私の横を、颯真は派手に亀裂の入った透明なバーを気弱に撫でながら、時に斜め後ろに下がりながら、ついて来ていた。ラインでは彼女がいたことがあると言っていたのに、これから処女を捨てさせられる女の子みたいな挙動だった。

 ギシギシと軋む重い木製のドアを開けると、個室の内装は意外と地味だった。就活で使ったシングルのビジネスホテルを、歪に拡張した後で、ベッドのサイズだけ大振りにして壁紙と照明を変えたような部屋だった。元々はビジネスホテルだったのだろうか。常に夕焼けのような暖色の光が、茶色の花柄が無数に配された壁紙を照らしていた。近づいてみても何の花なのか分からなかった。この花の存在意義は何なのか。花だって私に聞かれたくないだろう。表面の劣化による黄ばみが、茶色の花をより茶色く見せていた。年老いた花にはここしか居場所がない。だから部屋全体をより陰気に見せることを頑張る。それがここで与えられた最後の役目であるように。

 ベッド脇には小ぶりのソファーがあった。ソファーにはカバーはなく、パステル調の玉虫色みたいな地の色がそのまま剥き出しになっていた。恐らくカバーを掛けても汚されるから掛けなくなったのだろう。母方の実家の祖母の部屋に、これと似た椅子カバーがあった。目を凝らしてみたが、幸い怪しい染みまでは無かったからほっとした。手前にはガラスの天板のサイドテーブルがあって、出前のメニューやら何やらが漫画喫茶の説明メニューのように扇状に開かれていた。見慣れた景色が断片的にあるのは何かの嫌がらせなのか。私はメニュー一式を無言で揃えると、ソファー脇にまとめて立て掛けた。

「シャワー浴びてる時間ももったいないですね。一緒に浴びますか?」と下着姿になって言うと、颯真は暖色の照明の中でも分かる程顔を赤らめた。私は立ち尽くしている颯真の手を引くと、ベッドに座らせた。脇に座った後で向かい合う。ロゴも何もないシンプルな黒いパーカーに、茶色のチノパン。そう言えばこういう服装をしてたのかと思いながら、これからキスする相手の唇を見つめた。眼鏡の奥の気弱そうな目とは対照的な、薄い唇。ずっと噛んでいたのか、白く変色していた。私は右手を彼の右頬に添えて、頬を撫でた。つやつやの頬は髭が生えておらず、子供みたいだった。黒目がちな顔がこっちを向いた。両眼の潤みが同情を誘う。唇がわなないていた。こんな所に嘘吐いてきたあなたが悪いんだよ、と心の中で突き放した。

 そのまま、JINSかZoffで売ってそうな黒縁眼鏡をずらしてキスをした。

 最初は普通のキス。二回目からは反応を見ながらいたずらをするために、舌を入れた。私の剥き出しの太ももには、彼の唇が近づく前からずっと、硬いものが当たっていた。案の定、最初のキスでそれが明らかに大きくなった。一度目のキスで唇が離れた瞬間に、彼はひどく苦しそうに息を吐いた。相変わらず目が合おうとすると意地でも逸らそうとするのが寂しかった。チノパンの金具を外して、パーカーの裾をたくし上げながら偶然を装って覗き込んだ。目がひどく泳いでいた。殺される寸前の犯罪者みたいに、目だけがもがいていた。

「眼鏡は、いつも付けたままですか?」と耳元で聞いた。颯真は目を閉じたまま、大きな呼吸を繰り返すだけで、答えない。咎めるように、左手でわざと眼鏡のつるを触りながら、もう一度キスをした。居たたまれなくなったのか、我慢出来なくなったのか、彼は私の首に両腕を、ためらいがちに絡めてきた。

 私は彼の上に馬乗りになった。この人は今、何を考えているのか、剥き出しになった痩せた胸に顔を埋めるようにして身体の奥ごと全部覗き込んでしまいたいと思った。颯真の身体に触れる度に、とっくに癒えたはずの古傷をなぞられるような痛みを感じた。幻肢痛のような奇妙な痛みに面食らった。その痛みを自分の中に取り戻したくて、彼をいたずらに抱きしめた。幻肢の傷跡を伝って、彼が感じている死にたいほどの恥ずかしさと、苦しさが伝わって来るようだった。数秒前か、数時間前か、数日前か、あるいは数年前か。彼がこう思う前に、私も意識の表裏ひょうりで同じことを思っていた。一見非情に思えるが内実はぬるま湯のような時差の中で、私達は感情を共有していたのだった。

「キス気持ちいい、ですね」

 もう数えられなくなった何度目かのキスの後で、唇を離して囁いた。恥ずかしがらなくて大丈夫だと、目の前の彼と、自分自身に言ったのだった。それを耳元で聞いた颯真はほっとした顔になった、ような気がした。

 さっきまで死にたいと言っていた唇に、またキスをする。欲望のままに舌を絡ませて、相手の身体の感触を味見するみたいに、何度も試す。本当に慣れてないみたいだから、もしかしたら初めてかもしれないから出来るだけ優しくしようと思った。これは偽善じゃないと思った。私が初めての時に優しくされたから、私も初めての人とする時は優しくすると決めていた。ただそれだけのこと。

 そんなことを身体を触りながら考えていた。私達は死にたいとすぐ口にする。死にたいほど恥ずかしい、死にたいほど悲しい。でも言葉に出したすぐ後で、別の感情の波にさらわれて、口に出したことすら忘れてしまう。私達は必ず死ぬのに、自分達の死の苦しみを、恐らく誰とも共有することが出来ない。だって他人にそれを伝えようと、口に出す度に粘膜にまみれて語られた死はどんどん軽くなる。言葉には言霊があるはずなのに。生み出された瞬間に消えていく死の幻。ただの恋の先鋭的な枕詞だと見下すか、聞こえなかった振りをするか、この言葉の悲劇に気づけない相手の鈍さに同情するか。どれを選んでも、失敗する気がする。この無責任の繭に覆い隠された、救われなさは何なのか。

 自分達が蔑ろにしてきた「死」にいつか復讐されそうな気がして、時々怖くなる。

 例えばこんなことをしている時にも、後ろから一思いに刺されそうで、怖い。

 自分の内にある後ろ暗い恐怖を宥めるために、舌を絡めながら、右手で彼の黒いボクサーパンツの膨らみを繰り返し撫でた。三往復もしないうちに膨らみの中央の黒が濃くなった。膨らみの原因を暴くように彼の黒いボクサーパンツを一気に下げると、彼の本能がぼんやりとした光の中に現れた。互いの唇についた唾液と同じ成分に違いない液体で濡れている。粘着質で、でもつやつやとした光を放ちながらあからさまに屹立したそれを見て私が安心したように微笑むと、彼は顔を真っ赤にしてこの世の終わりのような顔で、目を背けた。

 上のパーカーも脱がせても良かったけれど、このままの方が興奮するから、わざと残しておくことにした。恥ずかしがる颯真をそのままベッド脇に座らせた。女の子の服を着せたままするのが好きな男の人の気持ちが、ようやく分かった。

向かい合わせに跨って、右手で彼の乳首をいじりながら、根元に向かって試すように舌を細く這わせた。一番敏感なものの先に触れた唇を跳ね上げると、颯真は後ろ手に手を付いたまま顔を更に真っ赤にして、荒い息を吐いた。不意に吐いてしまった声を隠したかったのか、私が足元に跪いて、それを一気に根元まで口に含んだタイミングで、軽くピストンするように、腰を動かす。何の他意もない、男の本能の条件反射。でもその一撃で、女の私の喉は簡単に犯される。あの時も。あっ、と思う間もなく、特有の苦味が喉奥に押し寄せた。  

 飲んだのは少量だったから苦しくはならなかった。が、苦しそうな顔は、確実に見せてしまった。全身がかっと熱くなって、羞恥が立ち昇った。男の人の手で無理やり口をこじ開けられて、喉奥に、苦い媚薬を直接垂らされるイメージが「凌辱」という単語を伴って脳裏に浮かんだ。頭の中を妖しく回り出すそれらに呼応するように、私の身体が不意に動いた。一人でに腰が、擦り付けるような動きを始めた。卑猥に見られるのを心の底から喜ぶような、雌の腰の動き。本物のピストンを身体でねだるようなあの動きを、私はこの男の子の前で、無意識のうちにしてしまった。

 颯真は私の唾液でぐちゃぐちゃになったそれを勃起させたまま、荒い息を吐き続けていた。私の理性が一瞬だけど外れた腰使いを戸惑いながら、でもはっきりとずれた眼鏡の奥で観察しているようだった。まだぎりぎり正常に動く理性を持っていて、それで私のことを分析しているのか。屈辱で目が潤んだ。見て欲しくないのに、見ないでと言えない。絶対にそんなこと、言いたくないのだった。自分から誘ったのに、こんなはずじゃなかったのに。 

 身体は自由なのに、心はいつの間にか雁字搦めにされていて、逆に苦しかった。自分がこんなにいやらしい動きを出来る動物で、それをじっと観察されているのに、ただ目の前の肉に全身で涎を垂らして服従して、もの欲しそうに動くばかりで止められない。その事実に耐えられない。やっぱり、逃げられないのか。だったら、私だけがこんな風に縛られていることが、ただ悔しくて、情けなかった。

 どれだけ取り繕っても、快感に悶える動物のような動きを見せたのは事実。だからこれを取り戻すために意識的に動物になろうと思った。抗議を兼ねたお返しをするために彼のものをまた咥えた。今度は自分から目を閉じて暗闇の中で彼のものの温度を感じながら、そのまま舌を激しく動かした。彼の吐息に合わせて、イキそうになったらわざと舌を止めて、じらす。気まぐれにわざといやらしい音が出るように、舐め上げる。亀頭に舌が触れる度にここに針を突き刺したいと思った。なのに身体は、実際に動く時は、こんな風に私のこともいたぶって責めて欲しいと、勝手に哀願していた。図星だから始末に負えなかった。素直に私の口の中で膨らんでいく彼のものがいじらしく、自分に罰を与えるために、それをしごくように自分から頭を動かした。 

 今度はめまいと共に本当に口の奥から喉奥に掛けて長い肉棒を丸呑みしたように苦しくなった。このままだと最初に口の中に出されてしまいそうだった。最初からそれじゃ、嫌だ。私は彼のお腹を押さえてそれを抜いた。いつの間にか両目には涙が溜まっていた。彼に拭われる前に自分で気づいて拭えたことにほっとした。

 さっきの比ではないえぐみを飲み下しながら彼のパーカーと下着を脱がせた。パーカーの首元から背中に掛けて、大きな汗じみが出来ていた。下着も汗でべちゃべちゃに濡れていたから、脱がすのには苦労した。下着が腿や足首で止まる度に、彼ははっきり見えていないはずなのに、ずれた眼鏡の内で顔を歪めた。恥じているのか。私は彼の眼鏡がずれる度に、さり気なく近づく振りをして、直した。目が合った時はいやらしさを自覚させるみたいにして、微笑んだ。微笑みながら、この子はこの眼鏡でこの服と下着を見る度に、今日私としたことを律儀に思い出すに違いないと、確信していた。

 右手で乳首を弄びながら、少し呼吸を整えた。枕元に行って、彼の耳をじゃれつくように触った後で一舐めした。耳も弱かったようでひゃっ、と子供のような声を上げた。ほの暗い光の中で依然として勃起したままのそれは、私の唾液と彼の体内から出る雄そのものの粘着質な液体が混ざり合って、堪らなく嫌らしくぎらついて光っていた。このままだと、挿れる前に彼の方が疲れてしまいそうだから、時間稼ぎのために興奮を冷まさなければならない。  

 馬乗りになって抱きしめたり、猫にするみたいに首の下を撫でて機嫌を取りながら、同じ目線で鑑賞するように、それの変化をしばらく眺めた。右手の指でちょっかいを掛けながら、耳元で「さっきの、びっくりしちゃいましたよ」と仰向けで目を閉じていた彼に囁くと、最高の反応をしてくれた。彼は、身じろいで、うわ言のようにごめんなさい、と呟いた。

 たぶん何のことだか分かってない。分かってないのに、謝った。

 余裕がなくて、浅はかで、でも素直なリアクションが堪らなかった。中途半端に服を着たまま責められていた時間が長かったから、今も暑くて仕方ないのだろう。彼が動く度にベッドが悲鳴を上げるように軋む。ここで悲鳴を上げられずにされるがままになった女の子もいるんだろうか、とふと思った。そういう子達の心は今もこの部屋の中にあるはずだ。妄想とも現実ともつかない亡霊達に取り囲まれながら私達は抱き合っている。これから最後までするなら、彼にもこのことを教えてあげたい。きっともっと興奮するだろうから。

 私も全部脱ぎますね、と耳元で声を掛けても、相変わらず返事はない。颯真は時折目を閉じながら、激しく身じろぎをしている。もうどこにも逃げられないし、本当は逃げるつもりもないのに。私と同じ彼の身体の最期の足掻きを目の当たりにした。剥き出しになった他人の身体の良心を見るのは切なくなるから嫌いだ。彼は目を閉じていた。私の幻影と戦っているのだろうと思った。彼の中の私が何を言い、どう動いているのか、見えないし知れないけどその結果で本当の私を嫌いにならないで欲しいと、想った。なぜそんなことを思ったんだと、また訝しがりながら、下着を脱いだ。

 全裸になったら、服を着ていたことで感じていた羞恥心の存在を自覚した。人並みの経験があるのに白いレースの下着をまだ付けていた自分のあざとさを正当化する理由を、見失ったのだった。腹いせにこれは後でおもちゃにしようと、床に落とした。

 彼の興奮が収まってきたタイミングで、私は再び彼の下半身に顔を埋めた。彼は次第に緊張がほぐれて来たのか、時折恍惚とした表情を浮かべるようになった。根元の膨らみをボールを弄ぶように丹念に舐め上げた後で、先端に向かって舌をゆっくりと這わせる。時々根元に戻ってじらす。先端を舐めながら左手で舐めたばかりの根元を触っていると、私の方も限界に近いほど濡れてきた。堪えられなくなった吐息が、彼のものにしきりに掛かった。それ自体が媚薬のようになった空気を、呼吸するためにまた吸い込む。催眠にかけられたみたいに頭がじんわりと痺れていった。

 何度目かのじらしの後で、彼も私も限界になった。彼はこれ以上いじめると壊れてしまいそうだったし、私も彼のものが欲しくて堪らない。虚ろな目で見下ろすと、彼のものが、おへそに付きそうなほどそそり立ってそこにあった。指でつついたらもう爆発しそう。これが欲しい。欲しくて堪らないと心の底から思った。ベッドのシーツが点々と濡れていた。彼のものか私のものか分からない染みでぐしょぐしょになっていた。まだ一回も入れてもいないのに、おかしい。誰に断罪された訳でもないのに、恥ずかしかった。裸の心臓を鷲掴みにされたみたいな、絶望的な羞恥に襲われた。

 私は憑かれたように枕元のゴムを取った。虚ろな目で最低限穴が開いていないことを確認すると、手元を見ずにパッケージを開けて、装着した。「きつい?」とわざと聞いた。彼が頷くのを意地悪く確認した後で、「もう我慢できないから‥‥‥入れますね」と言って、一気に彼の上に腰を落とした。

 腰を落とした瞬間にお互いイクのではないかと思ったが、衝撃の余韻を楽しむ余裕があった。今ではもう、互いに見つめ合うことが出来る。彼は私の両胸を鷲掴みにして揉み始めた。彼の大きな両手の中で柔らかく変形する胸の感触を、私は存分に楽しんだ。時折乳首が彼の手の中からはみ出て、彼の手で好き放題に嬲られるように、いやらしく形を変えた。この体勢でこんな風に胸を揉まれると、私は弱かった。彼の手が動く度に、腰が一人でに動く。まるで彼の手から逃げる振りをして、逆に挑発しているみたいに。

 彼の肉を、全身で頬張りながら、熱い感触を擦り付けるようにして味わっていた。無意識のうちに自分が当て欲しい場所に誘導しているみたいな動きになっていった。彼のものが入っても、本当はまだ満たされていなかった。あのべたべたした彼のいやらしいものが、味わっても味わってもまだ欲しい、もっと奥までもっともっともっと欲しいと私の脳が言っていた。いやらしすぎて恥ずかしい。でも、言葉を発しようとしても、身体がそれを許さず、喋ろうとすると甘くて苦しい吐息が混じった。マラソンのような呼吸を繰り返しながら、とぎれとぎれに言葉を口にした。こういうのって、誰かに見られてる気がして、恥ずかしいですね。腰を振りながら途切れ途切れに呟くのが精一杯だった。でも口に出した瞬間に、彼の爪が私の両胸に深く食い込んだ。私の呟きがトリガーになったみたいで、彼の腰使いがもっと激しくなった。ピストンのブレが激しくなるにつれて、必然的に当たる部分も多くなっていく。肉打ちの音が激しく響く中で、彼のものがぶつかる地点は、どんどん奥に入っていった。

以後は言葉らしい言葉も無かった。いびつで乱暴な交わりの中で、彼は私の中の気持ちのいい部分を、偶然に任せていくつも探り当てた。その中には私が今まで知らなかった場所もあり、私はそこに彼のものが当たる度にどこから出しているか分からないような甘ったるい声を出した。

 彼は私の身体に興奮していた。対して私は、誰に教えられた訳でもなく、この大学生の男の子は今、ただセックスの快楽を求める雄の本能だけで腰を動かしている、その事実に一番興奮していた。それだけでもう、狂ってしまえるほどだった。

 彼の前で物欲しそうに動く私の腰は当たり前に彼のものになった。そんな彼の前に無防備な身体を差し出して、本能のままに犯されたいと言う雌の本能が、痺れた脳のわずかに機能していた領域を、支配していった。

 最初は控えめな声で始めたはずだった。なのに、壁越しに同じセックスの声が聞こえて来た時に、私達の理性は部屋の外に消し飛んでしまった。今の私達と同じことをしている見知らぬ他人の姿を室内に想像したことで、先の見られているかもしれないという想像の仮定が現実になったのだった。隣と競い合うように声が激しくなり、絶頂の瞬間は悲鳴のような大声を互いに上げてしまった。

 達した後もお互いの腰は完全には止まらず、相手の卑猥さを動きで再現しながら証明するみたいに、余韻じみた動きを惰性でゆっくりと繰り返していた。彼も私も、それを気恥ずかしいと思いながらも、無理に止めようとは思わず、ただ動くに任せていた。やがて呼吸が比較的落ち着いた頃、彼のものをゆっくりと抜いた。舌を絡めた唇を離す時のような粘着質な音が、不意に増幅されて響いた。抜く寸前に彼は悩まし気な息を吐いた。白いゴムが苦しそうに食い込んだ先には、白濁した液体が大量に溜まっていた。

 まともに喋れるようになってから、気持ち良くていっぱい動いちゃった、と言うと、彼も荒い息を吐きながら、微かに頷いた。ようやく反応してくれた、と嬉しくなった。最後の声絶対隣に聞こえてましたね、と苦笑して言うと、冗談にはならなかったようで、彼はまた顔を赤らめて、またずれかけた眼鏡を外すとばつが悪そうに横を向いてしまった。

 眼鏡を外した彼の顔は、実年齢よりもずっと幼く見えた。現役の高校生と言われてもおかしくないほどの幼さで、裸眼だともっと大きく見える眼にはあからさまな羞恥と戸惑いの色が浮かんでいた。さっきまで夢中で腰を振っていた男の人と同じだとは到底思えなかった。同じ年齢なのに年下の子としたみたいな感覚に戸惑うと共に急に彼が遠くに行ったみたいで寂しくなった。が、彼の方は逆に、自分がした行為を忘れることが出来そうにないという事実に戸惑っているようで、俯いて潤んだ目をぱちぱちと動かしていた。涙の呼び水になりそうなその仕草が、無性にいじらしく、かわいらしく思えた。隣に行き、後ろからそっと抱きしめた。

 互いの汗はもう熱が引いて冷たくなっていた。不意に抱きしめられた彼は、びっくりしたように身をよじらせたが、やがて仰向けになって向き直ると、観念したように大人しくなった。

 脳内にはさっきのセックスの残像がまだあって、瞬きをする度にその像がなぞられて濃くなっていくようだった。彼から伝染した不安を揺すり落とすために身を起こし、彼の真似をして瞬きを繰り返した。 

 寝返りを打つ彼の背中や、ぐったりとした横顔に彼のものの残像が重なって、誰のせいでもないのに、堪らなく気恥ずかしくなった。彼は‥‥‥そんなことも知らないであろう彼は、寝返りの無意味さには気づいたのか、仰向けのまま、虚ろな目で、ぼんやりと天井を眺めていた。

 あの日は結局、休憩を入れながら四回セックスした。お風呂と、ソファーと、最後にまたベッドで。眼鏡を掛けた彼も、掛けていない彼も、いろいろな体位で十分味わった。回数を経るにつれて、学習したのか彼の動きはぎこちなさが取れ、本能を剥き出しにするというよりも、快感を高めるために本能を飼いならそうとする素振りを見せるようになった。ソファーで下着を付けたまま向き合いながらされるのと、洗面所で後ろからされるのが、特に気持ち良かった。

 ホテルを出たのは終電ぎりぎりの0時頃だった。玄関を出た時にしまったという顔をしていたから、「どんな言い訳するつもりですか?」とからかったら、彼は半ば本気に捉えたようで「それは‥‥‥帰りながら考えます」と困ったように言って俯いた。

 そう言えばお風呂に入る寸前に、「あの、爪立てちゃって‥‥‥ごめんなさい」と深刻な顔で頭を下げられた。困惑しながら、何を律儀に、と思って視線を落とすと確かに右胸に微かに血が滲んでいた。私が「こんなの、全然いいです」と言うと、この部屋に入って初めて、外にいた時と同じようなほっとした表情で笑った。あのメッセージを送ってからずっと身体が宙をさまよっている感じだったのに、あの時に初めて、私の方も、足が地に付いた気持ちになった。あの笑顔で外で話していたあの人と、今私が話しているこの人はやっぱり別人じゃなかった。この人は、彼は、颯真。それが体感で、裏付けられた。誰かに口に出して言ってもらわないと分からないこと、信じられないことは、やはりある。颯真は私に謝った後、胸に触るのを避けていたようだけど、私はわざと何度も胸を触って、とねだった。颯真はその度に困惑し、躊躇していた。何度も私の要求を聞こえていない振りをして無視した。でも最後の最後では、血のにじむ肌に自分から親指を当てて、跡が残る程、押し付けていた。


 別れた後、しばらくは連絡を取らなかった。嫌いになったのでも、飽きたのでもない。ひょっとしたらラインをブロックされているんじゃないかと思って、恐れていたのだった。勉強の邪魔だから、あるいは全部無かったことにしたいから切る、と言われても、向こうの立場なら仕方ない。だがそれなりの覚悟は決めていても、実際にされたら傷つくのは明らかだった。表面上はポーカーフェイスを装っていても、本当は、どこにも出かけずに何もせずにただ彼の連絡を待っていたかった。別れた翌日からずっと、心臓を彼の右手で掴まれているような心地だった。

 一週間後に「もしよかったらまた会いたいです」と連絡が来た時には、掴まれていた手がようやく離れたという安堵があった。ようやく解放されたという心持ちの中で、皮肉にも自由になったことで掴まれていた時の胸の疼きの強さを、逆説的に自覚した。嫌いじゃないなんて嘘だった。本当は、すごく好きだった。

 何回か会ううちに、何となく土曜の夜に会うのが習慣のようになっていった。私も平日は就活で動かなければならず、颯真も、昼間は大学の勉強と受験勉強でずっと机に向かっていなければならなかったから、事実上落ち着いて会えるのはその位だった。颯真は私との週一回のセックスを、平日に溜めたありとあらゆる苦悩を発散する場にしているようだった。ストレスではなく、苦悩。文系で、留年しない程度の最低限の勉強しかしていないと言っても、受験から解放されて浮かれている同級生ばかりの中で、慣れない寮の環境で孤独に勉強するのはすごく骨が折れることだったに違いない。最初に会って一ヵ月が経った頃に、こんなことも聞いた。実はダメ元で編入学試験の勉強もしてるんです。普通の入試以上に狭き門だから本当にダメ元ですけど、選択肢は少しでも多く持っときたいと思って。

 颯真が持ち得る選択肢がいくつだったのかは分からないが、最大限確保して勉強を続けてもまだ安心出来るものではなかったのだろう。最初の六月の試験の日が近づくにつれて、彼は元気を無くしていった。前日に徹夜をしたのか、目が充血していることもあった。疲れているのに無理に付き合わせることなど出来なかったけど、彼は平気だから気にしないで、と言うだけだった。

 そういう時には、ベッドで前戯みたいに彼のものを触りながら、満足するまで話した。時には先にシャワーを浴びた後、気持ち良さからか寝落ちしている時もあった。長い睫毛を伏せて、何も知らない子供みたいな寝顔で、うつ伏せですやすやと眠る彼を見ていると、同世代なのに颯真の母親や姉になったような、奇妙な感覚を抱いた。別れのタイムリミットが迫った時に、寝落ちした颯真をそっと起こすと、寝坊した人がするみたいに、がばっと布団を跳ね上げるようにして起き、しばらく沈黙した後で、申し訳なさそうな目をして私に「ごめんなさい」と言う。私も就活で疲労が溜まっている時もあったから、それでも全然良かった。ただ隣に、同じように孤独に頑張っている彼がいるというだけで満たされていた。ホテルに入って裸になったのに、ほとんど何もせずにただ枕元で話だけして出てきた時もある。受験が終わったら埋め合わせするからと彼は口癖のように詫びていたけど、私はそんなこと気にしなくていいから勉強、と実の姉のように言っていた。

 六月の試験は結局だめで、彼は夏の間は喪に服しているような、常に悲し気な影をまとっていた。私はその頃に転職に成功した。それが今の会社の訳だけど、そのことは彼には言えなかった。

彼の表情から影が消えたのは、二つ季節を超えた、三月下旬の桜の咲き始めの頃だった。彼は、編入試でだめだった大学に一般入試で受かっていた。

 例のごとく、聞いたのはホテルの部屋だった。インテリアだけはバリ島風で立派だけれど、分厚いカーテンがぴったりと閉ざされたほの暗い部屋の中で、その報告を聞いた。真っ先に感じたのは、繋いでいた手が離れるんだということだった。その確定された予定に対して、めまいを感じた。その後で得も言われぬ喪失感に襲われた。二人だけの静かな宇宙にいたのに、突如私の側に猛烈な風が吹いて、声を上げる間もなく、私だけ身体ごと奈落の底の暗闇に弾き飛ばされるような、そんな感覚。

「‥‥‥本当はちょっと前に結果出てたんですけど、実家で両親を説得するのに時間が掛かっちゃって、‥‥‥結局今の大学の入学金と授業料は、働きながら返すっていう話でまとまりました。小さい奨学金を借りたと思うことにします。でも新しい大学の入学金と授業料は、結果的に医学部に受かってたことを盾にして交渉したら、こっちは返さなくていいって言われました。黙ってたことを一番怒られました。でも、正直に話しても、うちの親はどうせ、絶対に許してくれないんですよ」

「‥‥‥実家、四国でしたっけ」

「はい、高知です」

「遠いですね」

「‥‥‥だから東京に出てきたんです。親は地元の医大に行けってずっと言ってたけど、僕はこっちの医大に行きたかった。医者っていう職業自体には憧れがあるんです。すごく」

「‥‥‥ああ‥‥‥だから関東圏の医大に通おうと思ったんですね」

 はい、と言って彼は頷いた。全部片付いてから、話そうと思ってたと言う彼に、切り返せる言い方は、これしかなかった。私も打ち明けなければならないことがあると言って、新しい働き口が決まったことを話した。

 彼は間髪入れずに「おめでとうございます」と言って微笑んでくれた。その祝福の笑顔に嘘は無かった。皮肉なことに、自分の医学部合格と、私の転職が同レベルの価値だと、思い込んでいた。私がもっと厚かましかったら、彼がそう思ってくれるならそれで良いと思えただろう。でもどんなに主観で、箱庭の中の喜びを創造出来たとしても、客観的には絶対に事実にはなり得ないのだった。私は微力なりにも彼を支えて来たし、彼のこともすごく好きだから、同じ目線で喜ぶことはしてもいいし、そうする権利もあると思う。でも、彼と別れた瞬間に、私は一人になる。そしたらまた、現実に叩き潰される。今度は本当に一人で、叩き潰される。彼は頭が良くて、優しい。最初は私の目を見ることを頑なに拒んでいた時もあったのに、今は、自信が付いたからだろうか。いつの間にか堂々と目を見て話すようになった。でもそれでも、優しいから、このことには気づかない。優しくて素直で正しいから、誰かにはっきり指摘されても、そんなのはあなたの偏見じゃないですか、と真っ向から相手を見据えて、正論を言うだろう。この時に、どんなに性格が悪いと非難されても、思ってしまった。それはどんなに優しい言葉でも、施しを受ける側からする側にこれから回るよ、という宣言に過ぎないんだと、思ってしまった。

 彼はいつの間にか、白い光に包まれていた。ノブリス・オブリージュの象徴としての白い光。一丁前のことを言うようになったと、架空の姉として祝える余裕など、私には初めからなかった。

 元々危うい均衡の関係だった。ここで別れるべきだったと、今なら分かる。でも、出来なかった。私から切り出すべきだったのに、臆病過ぎて、切り出せなかった。恋人じゃなく友達として付き合うことも、あからさまに距離を置くことさえ、出来なかった。

 私は彼の白い虚像の中に、かつての純粋だった頃の自分を、見ていたのだと思う。それがどんなに青臭く滑稽でも、直視せずにはいられなかった。それをせずに逃げ出すということは、過去の自分を正しいものと認めて敗北することと同じだった。 

 私は希望に満ちた彼の姿が、彼のこれから吐くであろう正論が、眩しくて仕方がなかった。現にもう彼の存在に助けられているのに、眩しくて目が痛くて辛くて仕方ないのだった。このまま見つめていたら失明しそうになるほどに。

 この時に、はっきりと自覚した。誰の心の中にも当たり前にあるあの愚鈍な感情。一生心の中で誰にも悟られず飼い、死ぬ時に道連れにして殺すことが誉れとされるあの感情が、いつの間にか、私が想像した以上に育ってしまったことを。

 タールのことを初めて知ったのはテレビだった。中東のタール漂着による環境災害。人工のエゴの塊のような毒が、何の罪もない海岸の無垢な美を犯しているということ。次元の穴から抜け出てきたかのような不自然にどす黒い、異様な液体の存在をあの時に初めて知った。子供の頃、まだ幸せだった頃に見たから気づけなかった。私は将来あれになるんだと。卑屈な肉の塊を動かすための黒い血。私は本当は、彼に医学部受験を失敗して欲しいと思っていた。最初に聞いた時から、ずっとそうだった。

 

「お願いがあるんです。僕が春休みの間に、二日だけでいいから、一緒に旅行してくれませんか」

「それは‥‥‥出来ません」

「‥‥‥どうして?」

「私達、そういう関係じゃないからです」

「?」

「だってそうでしょう? 私達、ただのセフレですよ」

 初めてセフレという言葉を使った。ダメ押しでふふ、と笑った。大学の頃に嫌いな先輩に散々やられて、その時の傲慢な口元が堪らなく嫌だったから、自分は一生やるまいと決めた笑い方だったのに。私の、私達の立場の本質的な卑しさを象徴するこの言葉を、私は最後の切り札のようにずっと持っていたのだった。私はあの言葉を自分の武器だと思い込めるほど、あの戦いにのめり込んでいた。自分から志願してサディストになったことで言葉の好みも変わった。口に入れた途端に溶けてなくなるスフレの仲間のような軽くて無責任な響き。相手に致命傷を与えた後で自然消滅する甘い凶器。どれほど口に出したかったことか。あの時の彼の顔は、今でも忘れることが出来ない。

 彼は一瞬目を見開いた後で、言うべき言葉が見つからないといった表情をした。何を言ってもいいはずなのに、なぜかあっけに取られて、言葉が見つからないという演技をした。その後で、軽く目を伏せて、何かを考えるような仕草をした。もう二十二年生きてきていて、身体も一人前の大人なのだから、私の言葉の意味を分からないはずもない。でも一瞬でも子供の素直な驚きを、こんな風に無防備に他人に見せる所が、颯真の稀有でお人好しであるがゆえに危うい所だった。医者など、子供の頃の一時期憧れはしても、目指したことなど一度も無い。ごく普通の成績だった私にとっては、そんなものになりたいと口に出すこと自体が身の程知らずをさらけ出す行為だった。最も身近な他人だった私の両親に、どんなにせせら笑われても仕方ない。ああいうのはみっともない、と赤の他人のお手本を示しながら、彼らはいつも笑っていた。

 努力をした人だけが見える景色は確実にある。それがただ、今私の前に現れただけなのだ。颯真がこれから昇っていく医者になるための階段。上流階級へと続く抽象のはしご。その階段が、物理的にどこにあるかは知識として知っている。でもそれが象徴するものは知らない。具象部分でさえ全貌を見られないのだから永遠に分からないだろう。でも、その古めかしい階段を昇った先には、たくさんの光に彩られた半透明な踊り場があって、そこに辿り着いた人間は下々の人間を否が応にも見下ろすということは、経験則で分かる。

 私がそう言ったら、颯真はそんな大げさな、と笑うに違いない。現に颯真のような優秀で優しい人はそういう反応をするのだ。それが嘘かどうかを見分ける方法は、ある。紙にボールペンのインクが滲むのを見つめるように、相手の言葉を聞いた後で、その顔を見ればいい。嘘を吐いている人の言葉は、滑らかに紡がれているようで、必ず引っかかりがあるから。その引っかかりは、顔の中に留まり続ける。そして、不純物が混じった言葉を吐いた人の顔に、嘘の染みを浮かび上がらせる。すぐに目を逸らす人はまだ正直だ。大多数の嘘吐きは、そのうち自分だけが見つめられることを理不尽に感じるのか、染みだらけの顔で、視線で抗議するように、同じように、またそれ以上に睨み返してくる。こちらの瞳の中に自己の仲間を増殖させるかのように。まるでガン細胞みたいに。そして臨界点に達したら、お前がそれを言える立場なのかと高飛車な態度でキレる。これも経験則で学んだ。医者でもないくせに。

 自分の小さな嘘から生まれた滲みが、分裂を繰り返しながら増殖する。自分から始めたのに、その増殖のスピードが苦しく、途中でもがくようになる。健康な皮膚の上に、黒い斑点が無数に出来る。他人から見ると気持ちが悪いことこの上ないが、本人が病気だと認めない限りそれは病気じゃない。それなりにエリートの自覚がある人は、自分で蒔いた種にただ翻弄されるか、自分で墓穴を掘ったのを認めたくなくて、取り繕う。取り繕っている間も斑点はどんどん増殖していく。やがて斑点が紙面を覆いつくす。エリートの人格者だった人はいつしか普通か、それ以下の黒痣の、グロテスクな人になる。

 この嘘の罠には皆嵌る。が、ずば抜けて優秀な人格者は、自分の面子のために、道化クラウンになる。最初から黒が欲しかったかもしれないなあ、と言っておどける。バカでも分かる一番大事なことを知らない振りをする。それが凡人にはおもしろいから、エリートを観察するのが大好きな人々がいるのだろう。人間観察の名目でいけ好かないエリートを檻の外から安全に観察するのは確かに楽しい。同じ土俵上であれば絶対に見下すことが出来ない人種を見下して悦に浸れる。エリート側もこんな風な展開になるのをとっくに読んでいて、そんな風に凡人の作った檻の中に入れられて観察されるのが癪で、それよりもましだから、最初から傲慢を地で行く層が必然的に生まれるのだろう。


 自らを貶めたその口で、私は次に何を言うべきか。もう頭で考えてはいけないと思った。頭で考えるとなお悪くなるような気がした。ここまで来たら思いをそのまま唇に乗せて歌えばいい。歌なら好き勝手に歌えるし、耳当たりも悪くない。

「颯真さん‥‥‥颯真さんってモテると思いますよ。颯真さんは気づいてないかも知れないけど、かっこいいし。医学部に入ったら、もっとかな。女の子の方が放っておかないですよ。絶対に」

 沈黙が訪れた。軽蔑して欲しいという思いと、これほど言ってもなお追いかけてきて欲しいという傲慢な思いが喉の奥で交差していた。どちらの思いも濁流のように蠢いていた。もう私の血と同化してしまったもの。墨汁のようにどす黒い濁流。このまま喋り続けたら、私はこの濁流に溺れてしまうだろう。人を殺すのは他人ではなく、自分のエゴなのだ。死に方は自分次第。他人は臓物のようなそれを関わりで引き当てるだけだから、いくらでも過失致死で逃げられる。第一、心の中の死なんて他人には見えないのだから、そんなのは無いのと同じなのだ。つまり他人が絡んだ時点で全ての心の死は自業自得の自殺と言ってもいい。

「‥‥‥それはどういう?」

「そのままの意味ですよ」

 またふふっ、と笑った。今度は自然と笑っていた。この嫌味な笑い方が板についてきたようだ。ちょっと意識するだけで性格なんていくらでも悪くなれるということが、今初めて分かった。私の心は本格的に自殺の準備を始めたらしい。私は颯真に死ぬのを見られたいのだろうか。だとしたら重すぎると思って、また苦笑した。颯真だって、そんなの嫌なはずだ。これから人生が始まるのに、暗黒の受験時代の行きずりの女に縋られて心中を迫られるなんて、そんなの許しがたいはずだ。

「‥‥‥僕何か芙由さんの気に障ることをしましたか?」

「特に何も」

「じゃあ、体調が良くないんですね」

「何で? 元気ですよ」

 言葉を交わす度に、不穏な空気が増長していった。颯真は眼鏡の奥で訝し気な目を向けていた。私が初めて作り上げたこの空気に何の意図があるのかを、私に情けを掛けられる斜角から読もうとしているのだった。彼が無意識だと思っているそれが、私にはもう見える。

「‥‥‥さっきの話ですけど、僕は芙由さんのことを、セフレだとは思ってませんでした」

「私は思ってましたよ」

「あの、今は僕の話をしています。僕は思ってませんでした」

「じゃあ認識の違いがあったんですね」

「何ですか、認識の違いって‥‥‥?」

「だからそのままの意味ですよ」

 口角が勝手につり上がる。道化クラウンの口もピエロの口も通り越して、悪魔ジョーカーの口になっていく。私はあまり賢い人間ではないから、自分よりも賢い人と喧嘩をする時は、相手の言葉を簡潔な熟語にまとめて、他人行儀のオブラートに包んで投げつける攻撃手段しか持たないのだった。投げつけた言葉の軽さに遅れて気づいて、相手の反撃を食らって一人で心に血を流すのがいつものパターンだ。

 でも私にも自尊心位はある。もう私の心の血は物心ついた時から、絶えずか細く流れ続けて貧血状態なんだと、自分の声の震えで悟った。そういう時は、もう別の攻撃をするしかないのだ。全てのバカのために用意された最終手段。子供でも出来る卑劣な攻撃。既成事実は後で作ればいいと、あの時私の中の悪魔が囁いた。それに、とただ続けるだけで、楽になれると。

「それに、言ってなかったけど、私彼氏いるんです。あなたと付き合ってしばらく経った頃に、出来たんです」

 架空の彼氏を人質に取った。自分以外の誰かの言葉に、全力で抗った。もう何もかも分かっているのに、問答無用で服従するのは、嫌だった。







  


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