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「まーたやってる」

 立ちっぱなしの朝礼の終わり、寝ぼけ眼の二葉ちゃんが細い顎で示した先には、社長秘書の梨々花とその取り巻き達がいた。

淡彩色の特権階級。通勤も含めて、電車にほとんど乗らないがゆえに、ハイブランドの淡色のアウターを、コーデに合うという理由だけで躊躇なく買えるカーストに属している人々。生活感皆無のハイファッション誌から抜け出てきたような彼女達から、少し離れた所に、のっぺりした黒のリクルートスーツを着た女の人が孤立して、いた。距離が遠すぎたから実際の会話は全然聞こえなかったけど、そこで何が行われているのかは一目で分かった。恒例の朝の狩りだ。梨々花の取り巻き達が、また朝の目覚ましがてら、新入社員の挙動不審な所作をからかって、遊んでいるのだ。

 新入社員といっても、大学出たての新卒じゃない。ぱっと見二十代後半位の、転職組の女の人。たぶん私や、梨々花とぎりぎり同世代。だから余計に哀れに思えた。確か数週間前に入社した人だ。朝礼の紹介中に宅配便が来たから名前はうろ覚え。顔も今初めてちゃんと見た。

 蛍光灯の光の下で、青白い顔で固まっている。遠目からでも垢抜けてないのが丸わかりだった。一度も染めたことがないような重苦しい黒髪を一つ結びにしている。どちらかと言うと痩せているけど、スタイルは良くない。身長がさほど高くないのと、髪の量も多いから、顔の大きさが目立つ。あのスタイル抜群の秘書集団と比べると特に。

 最も大きいと言っても、細かな顔の造作まではここからは分からない。分からないけど、目が細くて鼻の穴が目立つ顔だということは分かる。この距離でも分かる、ということは。

 ‥‥‥ああ損な顔してるな、と同情した。

 要するに言いやすい人が言われていた。梨々花が血統書付きに見えるを連れているから、身の程知らずをたしなめる構図に見えてしまう分、それはより残酷に見えた。


 理不尽。でもいつもの、ありふれた朝の狩り。

 周りの同類をけしかけつつ、猿みたいに手を叩いて笑っているのは、広報部長付きの秘書の花梨。花梨は五人いる梨々花のグループのナンバー2だ。梨々花に次いで華やかな容姿で、社内でも男性社員のファンが多い。女子社員達は花梨におべっかを使うか、遠巻きに見るかに二分されている。遠巻きに見ている人々も花梨のことは、嫌うというよりも恐れている、といった感じだ。梨々花の華やかさが本人の生まれと育ちから来るものだとすると、花梨の美しさは努力で作り上げたもの。はっきり言えばそれは主に化粧で作られたものだが、化粧の上からでも土台の良し悪しは透けて見える。顔のわずかな作りの差に、梨々花は越えられないだろうなというものがある。大多数の男性社員はそれでもいいと思っているのだけど、花梨と利害が対立してメンツを潰された男性社員の中には、男で化粧に疎い自分から見てもあんな風に土台のレベル差があからさまに分かるのが哀れだとせせら笑う者もいる。 

でも花梨はそのアンチの意見も全て承知の上で、生々しい道化クラウンを演じているように見える。

例えば、花梨は梨々花よりも顔が少しだけ大きいことを、明らかにおいしいネタとして考えている。霞がかった都庁が正面に望める休憩室で、梨々花と並んで自撮りをした後で、「もーりりちゃんと名前似てるのに、何でこうも違うのー」とスマホ片手に大げさに、でもうれしそうに嘆いている。花梨の上司の、ゲイを公表している広報部長がしたり顔で来て、「そーよあんたもう横に並ぶの止めなさい! 公開処刑よ! 何回死ぬ気なの!」と、彼女の自虐の演技をあからさまに盛り上げる。部下の即興インプロに気づいたら、すかさず演出してあげるのも上司の大事な務めだ。え、ちょっ、不死身よこの子! ほんっとあり得ない図太過ぎ!! なぜならこの自虐劇で彼女が熱演すればするほど、彼女の社内における傍若無人な振る舞いの罪は、和やかな追従の笑い声で中和されて、かき消されていくのだから。

 本当は、ここまで酷くないのかもしれない。私は花梨のようなタイプが大嫌いだから、そういう風に見えているだけかもしれない。でも、確実に言えるのは花梨にあって梨々花にはないものの一つが、がさつさなのだ。花梨は自分ががさつであることを恥だと思っていない、むしろ自分が空気を読める女であることを自然にアピール出来て、同時に周りを威圧してねじ伏せられる好都合な武器だと思っている。

 それに、梨々花の腰巾着のポジションは、常に梨々花とセットで見られる。楽なのだろう。女子のヒエラルキーを裏から効率良く操れるそのポジションのことも、花梨はおいしいと思っている。

 花梨は梨々花に容姿では勝てない。生まれ持ったオーラでも統率力でも勝てない。だから俗物的な賢さで勝ちたいと思っている。良い言い方をすれば世渡り上手と言われるその称号を、花梨は仕事では既に得ている。本人の弁によると、花梨は最初から秘書ではなかった。元々は広報アシスタントの契約社員だったそうだ。

 私が入社した時には花梨はもう秘書だったし、このオネエの広報部長も既にいたから誰が花梨を引き上げたのかは知らない。独善的な仕事の進め方を他部署から指摘されると、すぐマイノリティ差別に結び付けて騒ぐこの部長は、花梨のことは猫かわいがりしている。この子の美的感覚の鋭さには時々しびれるのよ、すごい悔しいけど。同類だから確かに仕事はしやすそうだ。

 この二人は、今のビルに越してからはオープンスペースのリフレッシュエリアを牙城にしている。社内定点ファッションチェックと称して、通路側にあるカウンター席に飲み物片手に陣取って、目の前を通る人達のファッションを、業界のご意見番気取りでクスクス笑いながら腐しているのをよく見る。

 それで、と言うべきか、でもだから、と言うべきか、花梨が身に着けているブランドは梨々花に負けず劣らず派手だ。花梨は自分のイメージをグッチのモノグラムのそれと同一視しているらしい。特にグッチのモノグラムコラボのものは、新作が出るとすぐに会社に持ってきて、見せびらかしている。梨々花は一見ブランド品を身に着けていないようだが、たまに近くで見る限りでは、身に着けているのはロゴが目立たないデザインなだけでエルメス一色だ。梨々花と花梨以外のメンバーも気に入りのブランドがあるようで、皆シャネルや、ディオールや、バレンシアガや、ボッテガで固めている。面白いのは、全員が自分の担当ブランドを意識していること。周りに気を遣ってブランドの浮気をしていないことだ。特に梨々花のエルメスは、仲間内はおろか、社内ではあからさまに身に着けている人を見たことがない。ここの女子社員の間では絶対不可侵のブランドなのだろう。

 成り上がった輩のような花梨に対して梨々花は‥‥‥こういう時はいつもターゲットをただ見つめるだけだ。見つめている間も瞬きはしているから唖然としている訳でもなさそうだ。何が起こっていても、ただ悠然とそこにいるだけ。ああいう時の梨々花を間近で見た、総務の男性社員の証言では、肯定も否定もせずに、小首を傾げて不思議そうな顔で、当事者達を交互に見つめているのだという。自分が手を下すまでもないと思っているのか、口を利く価値もないと思っているのか、どっちだろうね。結婚相談所に最近登録したというその男は、脳内でその瞬間の梨々花の心とセックスした気にでもなったのか、下卑た笑い声を立てた。でもさあ、そういう時の顔もかわいんだからすごいよな。

 下世話な噂話も、最後は梨々花の容姿賛美になる。

 でもそれも当然なのだった。梨々花はうちの会社の社長の一人娘。社員にとっては一番身近な上流階級のご令嬢で、文字通り高嶺の花なのだ。歳は私と同い年で、入社した時からずっと自分の父親である社長の秘書をしているという。噂では社長がとても心配症だから、梨々花を間近に置いておきたくてそういう働かせ方になっているらしい。下賤の者からすると息が詰まりそうな働き方。そういう囚われの姫のような状況もまた、あの梨々花の、何かを諦めたような、おとぎ話の天女や、かぐや姫の眼差しを形作っている一因なのか。期末の全社ミーティングでしか顔を合わせない社長は、もう六十過ぎになるはずだが、お金と暇があるからか、ロマンスグレーの髪は、三十代の社員と並んでも遜色ないほどふさふさと生え揃っているし、健康的に日焼けして引き締まった顔には無駄な脂肪も皺もない。昔のトレンディ俳優が、スポットライトを浴び続けながら自然に歳を重ねたような容姿をしている。ミーティング動画での話しぶりから推測するに、性格も温厚で、少なくとも一時の感情で怒鳴り散らすタイプではないように思う。でもそれが社長という生き物のスタンダードな生き方、言わばそういう振る舞いの保険なのだろうとも思う。常に会話を録音されているという意識で行動していれば、何かの拍子に社員から訴えられたとしても、余裕で勝てるんじゃないか。むしろ日頃の振る舞いを最高にしておけば、訴えられた方に精神疾患の疑いがあるように仕向けられるから、自分の名誉は傷つかないし、あまつさえ正当防衛の名の下で相手を攻撃して、物笑いの種にして復讐することすら出来るんじゃないのか。

 考えすぎだろうか。でも、どんな人間にも見えない底はあるし、ことに職場では、その底を知る義務も権利もないと思う。たまたま見えてしまうことはあるにせよ、そんな裏を見せられて平静を取り繕えと命令されて従うほどの給料も貰っていない。そういうからくりなんだという、うがった見方をする癖が、もうついている。そうなった自分に対する悲愴感はなくて、これはもう職業病のようなものだ、と割り切っている。

 社長よりは距離は近いが、梨々花とも直接話したことはない。彼女のことも眺めたことしかない。あの艶のある黒髪はいつ見ても繊細なウェーブが掛かっていて、涼し気な目元は、いつも静かに瞬きを繰り返すだけだ。


 二葉ちゃんは私の横で、ずっと顔を顰めていた。三分の一が眠い、もう三分の一が朝礼がだるかった、最後の三分の一が目の前の光景が癪、という所だろうか。二葉ちゃんが女の人に近づいた時には、梨々花達はもう背中を向けて去っていく所だった。嫌な予感がした。こういう時の二葉ちゃんは何かやらかすのだ。今日は一体何をするつもりなのか。私は慌てて二葉ちゃんの後を追った。

「ねえ気になるから寝ぐせちゃんと直して」

 二葉ちゃんは女の人の目をじっと見据えて事務的に言った。心の声だだ洩れ。その口を塞ぎたかった。そんなことわざわざ言わなくてもいいじゃん、と、耳打ちしたかった。

 ‥‥‥せめて言うならもう少し優しい口調で言うべきだよ。あとたぶん年上なんだから敬語使おうよ。‥‥‥かわいそうじゃん。

 確かに寝ぐせは付いていたのだった。髪が多いから、直しても元に戻ってしまうのかもしれない。たぶん。

 女の人は案の定、唖然とした顔で二葉ちゃんを見据えていた。さすがに泣きそうではなかったが、腫れぼったい一重の目の奥にはあからさまな怯えがあった。至近距離で顔をよく見ると、今度はこっちの方がぎょっとした。全く整えられていないぼさぼさの眉。吹き出物と毛穴が目立つべたついた肌。血色の悪すぎるたらこ唇。彼女は、スーツなのに、全く化粧をしていなかった。

 遠目では文字通り普通の女の人に見えた。普通の生真面目そうな女の人。なら、なぜこんなことになったのだろうか。ロリータをやっている子や、オタサーの姫と呼ばれる子の中には、どんなに着飾ってもメイクだけはしないと決めている子がいる。自分は土台からかわいいと拗らせて、頑なにすっぴんを貫く彼女達の病名は自尊心肥大症だと思う。なら、この人もそうなのか。

 明らかに年下の、メイクが完璧な二葉ちゃんに、こんな風にタメ口を使われてどんな気分だろうか。聞く方が失礼と言うものだ。女の人は顔を上げた。一重の細い目は睨んでいるように見えるけど、その奥にあるのは怯えの混じったぬるい光。中途半端すぎるがゆえに哀れなけん制のポーズ。それを求める方が酷だ。さっきまで他人の集団に怯えていた人に、別の他人を無視出来る度胸など、ある訳ない。女の人は条件反射的に二葉ちゃんを見返した。二葉ちゃんは、全くひるまずに、悪気はないのだろう、こう続けた。

「前から気になってたんだけど、もう少しきちんとした方がいいですよ? 身だしなみとか、もっとちゃんと」

 憐れむような声を出した。今度はわざと敬語で話していた。二葉ちゃんは呆れているのだ。心の底から。

 それにしてもあからさまにめんどくさそうな顔で忠告するなんて。やっぱりこの子悪魔みたいな性格をしていると思った。せめて花梨みたいにあからさまに悪人面をしてくれていればまだ憎みがいがあるだろうに、こんな顔をされては、怒りのはけ口すらなくなる。

 女の人は今度は本当に惨めになったのか、眼を丸くして、唇を噛み締めた。無表情を装いつつ、泣くのを我慢している顔。東南アジアの石像で、こういうのがあった、と私の残酷な本能が思ったのを自覚するやいなや、二葉ちゃんの右裾を強く掴んでいた。私の無言の静止を物ともせずに、二葉ちゃんはだって気になるじゃんねえ、と言いたげな、キョトンとした顔で私を見た。だが、興味はすぐに目覚ましのコーヒーに移ったようで、言うだけ言うとふらふらと廊下に向かって歩いていった。彼女の後を慌てて追いつつ、女の人と目を合わせた。心の底から申し訳なさそうな顔を作って、すいませんね、と謝った。女の人は、油断していたのか涙目のまま、私を見た。アスペの友達に翻弄される友人になり切って、生意気な子ですみませんという、困惑の笑みを浮かべた。絶対に真意を見抜かれない自信があったから、上手く演じられた。現に少なからず慰められたと思ったのだろう。女の人は涙目のまま、文字通り石のように固まって、引いた。申し訳ないけど、ずっとそのままでいて欲しい。かわいそうだけど梨々花達のことも、縋られても私には助けられない。ただ、あの子には二度とこんなことを言わせないように友達として言い聞かせることは出来ますから。

 だからこれについては、事故にでも遭ったと思ってくれればいいんで、そう目で訴えた。ついでに私のことも忘れてくれるとなお良いと、思っていた。


 個性的な友達のフォローは疲れる。

 二葉ちゃんに聞いてみたい。

 本当は賢いんでしょう? なら、なんでこんなことするの?

 どうせまともな答えは返ってこない。だってやってることがおかしいんだから、答えることで、自分が不利になること位分かるはず。だからちゃんと答えるなんてバカな真似、しない。

 エレベーターホールで追いついた二葉ちゃんの肩を叩いて、言った。「ああいうの、もう止めよ?」二葉ちゃんは上目遣いで私を見た後で、「別に私は悪いと思ってないけど‥‥芙由が嫌ならもう止めるよ」と言った。卑怯な答え方だ。だが、二葉ちゃんがそれでいいと思ってるならいい。

 二葉ちゃんは、自身の言動が引き起こす効果を全て自覚していると思う。効果は自覚しているけど、人を傷つけている自覚はない。自分の言動で傷つくも傷つかないも相手の勝手だと思っている。ある意味自他を同一視している彼女は、言わばチートで、彼女が自ら傷つくことを選択しない限り、誰かに傷つけられることはないのだろう。梨々花が表のチートだとすれば、二葉ちゃんは裏のチートだ。花梨じゃないが、裏には裏の戦い方があるということだ。

 現に彼女は、自分が本当は誰の味方でもないことに、誇りを持っているようだ。その誇りで、身を滅ぼすことにならなければいいと思うが、そんなの余計なお世話だろうし。自分の敵や敵になりそうな相手は、本能で警戒して、戦うし。野性の勘に忠実に動いているようなものだろう。不利な状況でも常に上から目線を保ち、警戒対象の相手に付け入る隙を与えない所はすごいと思う。

 結局、引っ越しをしても何も変わらなかった。こんなことで何か変わると思っていた方がおかしかったのだと思う。私達は総務の都合のいい便利屋のままだし、二葉ちゃんも小型の猛禽獣だ。隠れファンに育てられている気ままな野良猫とも言えるか。

 引越して、会社の最寄り駅が変わったことで二葉ちゃんの通勤時間は更に伸びたらしい。今は会社に一時間半かけて通っているはずなのに、二葉ちゃんの身なりは相変わらず隙がない。彼氏募集中と言っているから、あえて聞かないけど、本当に毎日家に帰っているのかと思う。こういうのを会社だけが人生じゃないタイプと言うのだろうか。

 社内で浮いても、社外で居場所を作れればいいと言うかのように、友達がたくさんいる。二葉ちゃんのメイン世界の入り口はインスタの中にあるのだ。彼女の特別な交友関係を彩るのは、現役のモデルや、売り出し中の若手俳優、有名大のミスコンファイナリスト、など。属している界隈では実力派として知られているけど、まだ世間の認知は低い有望株の芸能人や芸能人予備軍とも繋がっているからそこは羨ましい。水商売や風俗をやっている素振りもないから、こういう人達とどこで知り合うんだろうと思うけど、聞いたら今の関係が崩れる気がするから聞かない。ラインのやり取りや、仲間内で撮った、本人曰く芙由には場所バレするかもしれない写真や動画も見せてもらった。原宿ファッションの象徴みたいな、ラメ入りのパステルカラーで彩られた撮影スタジオや、大手レコード会社のロゴがあからさまに映り込んだライブフェスのバックヤードで、バービー人形のような子達と仲の良い姉妹のようにポーズを取り合う二葉ちゃんがいた。こういうスペックの高い子達と繋がると、それなりに人脈も広がるし、普通なら絶対行けない所にも行けるから勉強になっていいよ、と二葉ちゃんは涼しい顔で言う。よく分からない。よく分からないけどお互いおいしいってやつだろう。こういうの芙由だって何気に好きでしょ、と何度も誘われたけど用事があると言って行かなかった。断る度にまた今度誘うから、と言って実際に誘ってくれる。今でも誘ってくれる。けど意地でも行きたくない。

 好きと、好きだからその輪の中に入りたい、は全然違う。皆が皆、そんなに短絡的に動ける訳じゃないし動きたい訳でもない。写真の中の子達のことも紹介すると言われているけど、一人も会ったことがない。二葉ちゃんの誘いをまだ断り続けることが出来る今の状況に、内心ほっとしている。だって実際に会っても、そんなあからさまに住む世界が違う人達と、何を話せばいいのか分からない。ノリが悪いと笑われる。でも笑われても、彼らが属する世界で起こっていることを全肯定して持ち上げることも性格的に出来ないと思う。もし全てが奇跡的に上手く運んで、その場では取り繕えても、無理だろう。

 あの世界の水に本質的に馴染めないと思う。あそこが本当は全然違う世界だったとしても、それでも無理なのだ。一度か二度なら、上手くやればお客さん扱いしてもらえる。でもそれ以上は無理。もし全てが上手く行ったとしても、彼らと別れて、二葉ちゃんとも別れて、一人で孤独になる頃には、自分が戻ってきた世界の狭さを嫌でも痛感しだすに決まってる。そうなったらもう無理。その場では友達ごっこが出来ても、同世代の共感覚のドーピングで無理やり広げた世界の壁は、必ず崩れてくる。嘘吐きの心を身体ごと叩き潰す勢いで崩れてくるだろう。


 資料室に寄ってから総務課に戻ると、二葉ちゃんは、課のメンバーがまだ全然帰って来ていないのを良いことに、コーヒー片手に堂々とネットを見ていた。

戻ってきた私を一瞥すると、右手をひらひらと振って、「何深刻そうな顔してんの?」という顔をした。だが理解不能な思考の渦はゴミ箱に速攻で叩き捨てたようで、「眠ーい」とあくび交じりに続けた。

「昨日も合コン行ったの?」

「‥‥‥うん」

「収穫あった?」

「まーね」

「よかったね」

「‥‥‥」

 今度は仏頂面でスマホをいじりだした。芙由は聞き上手だね、と前に言われた。それが誉め言葉かどうかは分からないが、言った後も普通に話しかけてくれるのだからどっちでもいいと思う。確かに私は饒舌な方じゃないし、二葉ちゃんが持っているような派手な人脈もない。そんなに自分のプライベートを話したい方でもないし。それに、二葉ちゃんのキラキラした世界の話の方が実際面白い。二葉ちゃんの中の私のイメージは気持ち奥手の清楚系みたいだから、下ネタも適度にぼかしてくれる。だからそのままだと生々しすぎる話も、ほどほどのエンタメとして聞ける。

 二葉ちゃんはいつの間にかスマホをいじるのを止めて、窓の外を眺めていた。

「なんかここ、空港みたいだよね。いっつも宙に浮いてるみたい。まあきれいだからいいけどね。二日酔いの時とかはなんか‥‥‥この例え分かる?」 

「分かんない、何が言いたいの?」と思って目を合わせると、珍しく気弱な表情で、口角を無理やり上げるようにして微笑んだ。お酒はほとんど抜けているけれど二日酔いはまだしているのか。二葉ちゃんもお酒が強くない。本当はウーロン茶ばっか飲んで誤魔化したいけど、場の空気もあるからそうもいかないと言う。前に仕事中に今にも消え入りそうな声でしんどいしんどい、と漏らしていたことがあったから、現役の薬剤師の人が勧めていたサプリで下の薬局でも買えるものを教えた。あの漢方のサプリは神だから箱買いしたと言っていたけど。

 ルーチンの稟議書チェック二枚と顧客データベースの新規追加七件は、二葉ちゃんと話しながら終えた。本当に我慢出来ないほどしんどいのなら、昼から有休を取って帰ってもいいと言おうか。今週は比較的暇で、私は差し込みで入るに違いない雑用の他は、前倒しの仕事ばかりをする予定だ。二葉ちゃんが担当している仕事には急ぎの仕事はない。だから余裕でこっちで巻き取れる。

「大丈夫? 下にお昼買いに行くついでに、薬局でドリンク買ってこようか?」

「うん、ごめんお願い。助かる。お金いくら?」

「ちょっと待って」

 スマホ画面を開いてツイッターのブクマを見せると、二葉ちゃんはほっとしたように笑った。伏し目がちになった後で、効きそう、と色付きグロスでナチュラルにぽってりさせた唇が力なく呟いた。こんな状態の主人をも醜く見せない、二重幅の艶と睫毛の長さの忠誠を想った。‥‥‥さっきまでは気づかなかったけれど、顔色も悪い。青白くはかなげで、ちょっと幽霊みたいだ。

 待ってて、と言って席を立った。下りのエレベーターに乗る寸前にはすみさんと会って、事情を説明がてら中抜けの詫びを言った。

 新しいエレベーターは鏡張りだ。一人で乗っている時には、落ち着かない。四方八方から見張られている気がする。誰かと相乗りしている時は特に。乗り合わせた人と視線が合うのも気まずいから、スマホを取り出して適当な画面を出して、見るともなく見る。大抵SNS。混んでる時は覗き見されるのが嫌だからスマホはいじらない。ホーム画面に戻して、他事ほかごとを考えるために異次元に思考を飛ばす。

 SNSは暇つぶしがてらチェックすることにしている。おじさん達にとっては、私達世代は皆、SNSなら何でも好きだと思われているかもしれないけど、そんなのケースバイケース。仮にそうだとしても人によって好みだったり得意なSNSは如実に違っていると思う。現に私の彼氏の樹はラインを連絡手段に使う位で、その他は全くやらない。

 個性があるんだから当たり前なんだけど、私達世代は、好き嫌いがはっきりしているように思う。物心ついた時から、自分用にカスタマイズされた音楽や、動画が身近にあったからか。他の世代よりもほんのわずかに個性を尊重されて、多様性を学ばされる教育を受けてきたからか。好きこそものの上手なれ、で得意なことは頑張るけど、苦手なことはそれが得意な人からのシェアで乗り切る。そんな生き方をしてきたように思う。何でもそう。上の世代にはそれが頑張らなく見えて、ずるく映ることもあるようだけど、上の世代が私達と同じ行動をほとんど取らないからそう見えるだけであって、シェアの本質って元々そういうことだよね、と思う。得意なことは人一倍頑張れるから実際ずるくないし。

 私は、SNSの中ではツイッターを一番見る。だから二葉ちゃんとはすみさんのグループの中ではツイッター担当だと思う。前はインスタもやってたけど、ファッションや王道のエンタメの流行をいち早く掴んで実践するスキルは二葉ちゃんには敵わないから今は付き合い程度でしか見てない。たまにインスタライブでオンラインフェスを観る位。今のツイッターでの私の守備範囲、もとい得意範囲は、ライトなサブカルとインテリアとアートだと思う。そんなに大変なことでもないのだ。ツイッターを頻繁にやっている比較的穏やかな性格の人達をフォローするだけ。もっと言えば攻撃的なツイートをしない、クリエイター系のライトインフルエンサーの人達を気になる順にフォローして、その人達がいいねしたツイートの内容を空き時間に掘り下げれば、世間でまだ知られていない、ブレイクする確率が高いものの情報は、嫌な思いをすることなしに効率的に拾える。

 タイムラインで流れて来るものの中には、英語のツイートも多いけど翻訳機能で意味は分かる。海外限定のブランド品でも、コツさえ覚えれば簡単に円貨の適正価格で本物が買える。ブランドは好きだけどブランドだから何でもいい訳じゃない。ロゴビジネスはミーハー丸出しだから好きじゃないし、似合わないブランドはもらっても持ちたくない。偽物を持つのは自分がすり減る気がするから一番嫌だ。私達みたいなセレブでもない若い世代がブランドを持つのに陰口を叩く人もいる。はすみさんはそんなこと言わないけど。好きなブランドの歴史は頭に入れているし、ブランド同士を合わせる時は、気も遣っている。でもそれらを説明して歩くのはバカらしいし、誤解したい人は勝手に誤解すればいいと思う。そんなことに時間使ってと言われても、あなた達の噂話よりも静かだし、掛けている時間も短い。それに、一連の作業は楽しみながら、自分だけのためにやれてるわけだから、こういうのはあざといとは言わないと思う。

 二葉ちゃんがインスタで流行を教えてくれて、私がブレイク前のカルチャーを秘境の果樹園から果物をもぐみたいに取ってくる。親世代からはいつもスマホばっかり見てと揶揄される私達だけど、ツールのスマホで何を見ているかの方が重要だと思うから相手にしない。サブカル沼に完全にはまって沼の中から周囲を見下して生きるのが私達のコミュニティではとてつもなくダサいことは分かるから、闇落ちしないぎりぎりのラインを攻めていたい。そういう縛りで楽しむこと自体が快感でもある。音楽と映画と小説は、詳しい人はものすごく詳しいから、そういう人のツイートは本当にありがたい。ほんとに無料でいいのかな、って思う位。

 二葉ちゃんがいる時は、仕入れた情報を二葉ちゃんに、はすみさんがいる時は、はすみさんに教える。はすみさんはいつもにこにこ笑って聞いている。はすみさんは私よりも聞き上手だ。仕事も、私達よりも断然できる。だって先輩だから、当然と言えば当然だけど。私達はいつもフォローしてもらっている。

はすみさんをお局だと思ったことは、一度もない。はすみさんは、私達のお姉さんみたいな人だ。手先が器用で、料理も上手。よく私と二葉ちゃんにお菓子を持ってきてくれる。

 はすみさんのお菓子はおいしい。特に焼き菓子が。手作り特有のべちゃっとした単調な味じゃなくて、素材の味がちゃんと、焼かれても層になって残っている。プロ並みとはいかないけれど丁寧に作られていることがよく分かる味で、味にうるさい二葉ちゃんもそれは認めている。

はすみさんも自分の腕には自信があるみたいで、そういう系のサイト、つまりアマチュアクリエイターが集まって得意なスキルを提供するサイトで活動しているのだという。

 最近は幼稚園のバザーや赤ちゃんにプレゼントする用の編み物の依頼があるの、とはすみさんははにかんで言っていた。この前の連休は手編みのカップソーサーの注文が五十枚分来て、ずっとネットフリックスで映画を観ながら編み物をしていたそうだ。

「それを自分のものとしてバザーに出しちゃったら、その人編み物得意キャラにされちゃうから困りません?」

「そうね。だから必然的にお得意様になっちゃうの」

「え、すごーい。なんか現代の縮図みたいな感じしますね」

 棒読みの「え、すごーい」で賞賛する二葉ちゃん。こういう褒め方だからバカにしているように聞こえるけど、これでも本気で褒めている。はすみさんは商売上手とおだてられて照れている。二葉ちゃんは頬杖を突いてそれを見つめている。見つめられてもはすみさんは視線を逸らさずに二葉ちゃんの視界の中で照れている。それが当然みたいに。褒められたら得意げな顔をするのではなく照れる。そういう人なのだ。

 あの時私は話題を逸らした。「そんなにたくさんあるなら手伝ってあげられたら良かったんですが、編み物出来ないので」と言うと、はすみさんは「いい、いい。好きでやってることだから」と笑った。二葉ちゃんは、「私も不器用だからなー。ふふ、そういうの、気が遠くなりそう」といつもの調子だった。

 はすみさんは二葉ちゃんを聖母のような笑みで見つめた。はすみさんがこの時に何を思っていたのか、想像するとちょっと怖い。でももしはすみさんの心の読みが当たっていたとしたら、私も心のどこかで救われるのではないかと思う。だがもしそうだとしても、二葉ちゃんは、逆に自分からカミングアウトして堂々とするのではないかとも思う。そうすることが潔いと思っている節があるから。

 今のままでずっといたいと思う。八方美人だと指摘されたことはないし、二人とも何だかんだ言ってこの均衡を愛しているようだから、こんな心配は杞憂に違いないとも思う。でもたまに考えてしまうのだ。最終的にはどっちに付くのが利口か。任された仕事はプロなんだから効率良くきちんとやりたいしやるべきだと思う。が、この会社の総務の仕事に人生を捧げる価値はないと思う。だからどっちに付いた方が自分の人生が豊かになるか、自分の人生のためになるかという観点で考える。防災の備えと一緒で、定期的に考える。

 二葉ちゃんが夢見がちな友達なら、はすみさんは私達の職場のお母さんだ。まだ三十にもなっていないのに、こんなことを思うなんて失礼だと思うけれど、精神的なお母さんという意味で、そうなのだ。はすみさんは他のお局さん達とは決定的に違う。他のお局さんは若い女の延長で、女を拗らせているか、腐らせているかのどちらか。歳を取ったらああなると思ったら、実害を被っている子供世代の感想としては、絶望しかない。

 そんな中で、きれいで、穏やかで、おしとやかなのに、仕事が抜群に出来る。そんな先輩、好きにならない方がおかしいじゃないって、思うのだ。


 下りゆくエレベーターの中で、エンパイヤステートビルの建設作業員の談笑写真を想った。あんな風に屈託なく笑えてランチを囲める宮崎アニメのキャラみたいな大人になりたかった。あそこでどんな悲劇が起こっていたとしても、そうなりたかった。

 でもそれが叶わないのなら、もう誰も乗ってこないエレベーター最高、と思い直した。それに遅れて答えるように、画面の上部にラインの「新着メッセ―ジがあります。」という黄緑色のテロップが流れた。

 SNSの通知は最低限にしている。特にラインは、覗かれたくないメッセージの宝庫だから。でもメッセージが見えない設定にしていても、この通知が届く度にドキッとする。テロップをタップしてラインを開くと、案の定一番ヤバいやつだった。

 柴犬のアイコンはセフレの颯真そうま。内容は「次の待ち合わせいつにしようか」





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