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 二葉ちゃんとは週明けに普通に顔を合わせていた。向こうとしては会社を休む理由もないし、気まずいとも思ってないのだった。帰り何気に一緒だったよね、と断定形で言うと、ああそうみたいね、としらばっくれる。問い詰めたら尾行してたことは認めるけど、言われるセリフはもう分かってる。だってあの人が芙由のこと、どうしても気になるって言うから、断れなくて。もし問いただしたりしたら、二葉ちゃんは最後は目に涙を浮かべてそう言うだろう。当事者が悪気は無かったの、と言ったら、多かれ少なかれ、それが真実になる。それは当事者が二葉ちゃんだから、という理由ではない。

 こうなったら、それ以上は私は責めたくない。二葉ちゃんのためじゃなくて、自分の美学のために。それはただの負け戦になるからだ。

 前にはすみさんも似たようなことをされていて、はすみさんはその時にはっきりと言った。それはマナーの問題、親しき中にも礼儀ありだよ、と。二葉ちゃんははすみさんの目を見たままきょとんとした顔をしていた。はすみさんは凪いだ海のような悲し気な目で二葉ちゃんをじっと見返していた。そんな目で見たら逆効果だと思った。

 ただ見返すだけでなければいけない。間違っても得意げになってはいけない。もしその目に何らかのエゴを映してしまったら、二葉ちゃんはそれにすぐに気づいて、それを自分の味方にしてしまうから。だから一番いいのは、スルーすること、そもそも喧嘩をしないことなのだ。それでもはすみさんは二葉ちゃんに、教えようとした。はすみさんの言う所のしつけをしようとした。それは自分の仕事ではないが、自分が教えないとこの子は駄目になると思って。

 今まで全く怒らなかった先輩が、こんなことを言ったという事実を、二葉ちゃんはどう捉えるのか。彼女にとっては、ある日突然言われた、という具合だろう。結論から言うと、二葉ちゃんはその事実を捉えはしたが、それを基に自分の行動を変えるということはしなかった。あの時はすみさんに言ったことから察するに、今までも同じようなことを言われたことは、あるようだ。でも直さなかった。十中八九本人がその必要性を感じて無かったからだ。

 あの時もはすみさんは二葉ちゃんの反応を見た。一瞬間が空いた後で、困ったように笑うと、じゃあもう仕事に戻ろうか、と言った。二葉ちゃんは何も言われてなかったみたいに、はいと元気よく返事をすると、私の隣の席に戻ってきた。そして何食わぬ顔で座って、中断していたアスクルの発注作業に戻った。

 二葉ちゃんははすみさんが好きだ。はすみさんと対峙する時の、あの無邪気な笑顔が演技の訳がない。あの笑顔が嘘だったら、世の中の全てを疑わなければならなくなるだろう。はすみさんも二葉ちゃんに好かれていることは理解している。

私はその日の定時後に、はすみさんを差し飲みに誘った。「悪気が無かった、と言われたら、何も言えないね。こっちは」とはすみさんは言った。主語を付けずに独り言みたいに。

「言いたくないですよね。だからそれでいいと思います、私も」と同調したら、ほっとしたような顔をされた。これが正解の対応なのだ。私ははすみさんとも、二葉ちゃんとも仲良くしていたい。だって社内で気が合うのは、この二人だけだし、二人のことが好きだから。だから正解のことを言っているけど嫌味な言い方に聞こえなかったか、だけが気がかりだった。だってはすみさんは私よりも先輩だから。

 樹には翌週の水曜の昼休みに何気ない風を装ってラインを送った。彼も私に嘘を吐いていなかった。樹も嘘を吐けない人だった。初めての対戦は楽しく、ゲーム後にラインでずいぶん話した。一回仕事帰りにお茶した後で、その週の週末に豊洲市場の中にある寿司屋に連れて行ってもらった。朝すんごい早起きしなきゃいけないんですけど、大丈夫っすか? でもそれさえクリア出来れば、味はほんと保障しますよ。寿司の味を思い出しているのか、目はきりっとしているのに、口元がほころんでいるのがおかしかった。彼に甘える形で、朝が弱いから前日から一緒にいたいという趣旨のことを言った。

 金曜の夜に新宿駅で待ち合わせて、そのまま豊洲駅近くのビジネスホテルに前乗りした。樹はスーツの上に、ノースフェイスの黒い柱みたいなリュックを背負っていた。リュックの中には、ビールやつまみやお菓子を詰め込んでいた。ホテルの近くで買うと高いから、家の近所の酒のカクヤスとドンキで買ってきました。遠足みたいですね、と言ったら、これが営業の出張のデフォなんすよ、と言われた。リュックじゃなくて中身をスーツケースにしたら、まんまですよ。でもビールだけはノンアルコールにしとくかな、俺は。一応そこは会社に気を遣います。でもどうせ現地で調達はしますけどね。

 私も好きな本やマンガを詰め込んだiPadを持ってきていた。思えば持ち運んだのはこれが初めてだった。Airは軽い軽いというけど、普段持ち歩かない人間にとってはやはり重い。最も、これが重いのは質量だけではないとも思う。彼に見せるためにぐちゃぐちゃだったホーム画面を初めて整理して、分かりやすくタイトルまで付けた。要は私が好きなものを好きになってもらうための罠を張ったのだけど、全部やり終えた後でらしくない、と思った。でも、今さら戻す気にもなれなかった。

 金曜の夜のホテルで深夜まで子供みたいにはしゃいで、翌朝は四時起きで豊洲市場に行った。移転後の豊洲市場は見事に近代化されていて、背の低い長方形のビルの中にあった。 

お寿司はおいしかったけど、胃もたれと寝不足でちゃんと味わえてはいなかったと思う。でも不快では無かった。寝不足の朝は、何かを食べたら戻してしまうかもしれないという恐怖に真っ先に囚われるはずなのに、あの時はそれが無く、私にとってはその事実の方が重要だった。

 目的と行為が逆転した、無重力空間のような朝をふわふわと泳いでいた。あの時の私は本当にあのお寿司を食べたかったのかすら怪しかったが、とりあえず食べられたから良かった。

 その後でビル内で人工的に生かされている市場をガラス窓から見学した。樹はここが移転する前から知っていて、有休を取ってよく海鮮丼やお寿司を食べに行っていたらしい。暇つぶしみたいなもんです、と彼は独り言のように言った。優雅な暇つぶしですね、と言うと、「別にそんなんじゃないすけど、優雅っすかこれ?」とちょっと不服そうな顔で首を傾げる。

 樹はこの豊洲市場が、もう観光地になってしまっていると嘆いた。店を入れ替えたら、八重洲の地下街って言われても成立する。だから、昔の築地の方が良かったと零した。

「今も築地場外市場としてありますけどね」

 樹のノスタルジーは最もだと思った。ここが西新宿の地下街でも、きっと成立する。私は頭の中で、見知った西新宿駅地下の光景をいくつか思い浮かべた。ここと一番近かったのは、奇しくもこれから引っ越すことになる高層ビルだった。西新宿駅黒光りする大理石の壁と白みがかった通路の色も、天井から通路をシェルターライクに照らす蛍光灯の配置も、ほぼ同じ。スマホで写真を撮ってそれっぽいコメントを付けて、インスタにアップすれば、きっと皆信じるだろう。

ガラス窓から採取した光景は、みるみるうちに鮮度を失って、色あせていった。

 本来なら見学した後で解散だった。でも、「物足りないから、俺帰りに築地場外市場に寄って帰りますけどどうします?」と言われたら、ついて行かない訳にはいかなかった。

 結局、夕方まで一緒にいた。夕方の段階で、互いにほろ酔いだった。夕焼けが終わって、夜目が利き始める暗がり屋台脇の細道を駅の方角に向かって、いつかのように並んで歩いていた。日常的に飲酒している樹は気持ち良く酔っていたようだった。私は慣れないお酒の酔いを持て余しつつも、この酩酊特有の浮遊するような感じが嫌では無かった。心を許した人と一緒に呑むお酒はおいしいから酔いやすいことを知らないはずなかったのに。

 彼は千鳥足の私を心配したのか、さり気なく肩を貸してくれていた。調子に乗って、「今日もどっかに泊まりましょうよ、明日も休みですよね?」と言った。「俺もう金ないんですよねー」と樹ははぐらかす。視界の左に細い路地が見えた。てかそういうキャラだったんすね。訳知り顔で言う彼の表情が、堪らなく憎らしくて、許せなかった。


 私は触れるかふれないかの距離にあった彼の左手を思いっきり引っぱった。不意の攻撃に重心を失った彼は、驚いたように目を見開いて、荒く短い息を吐きながら私の方に倒れて来た。この時になぜかざまあみろと思ったのだった。思う理由なんて何もないのに。一人でに思ってしまった。自分の性格を悪いとすら思わなかった。

 彼のちょうど背中側には、白みがかった古びたビルの壁らしきものがあった。右手側に倒れ掛かって来た樹の重い身体を、斜めに逸らしてやり過ごすと、そのまま右手に重心を移して、跳ね除けた。彼は背後の壁にバウンドするようにぶつかった。見知らぬ暗がりの中で、うっ、と小声の呻き声がした。私だけが見ることの出来る彼の影が暗闇の中で痛がっている。リュックを背負っていたはずだが、斜めにぶつかって打ち所が悪かったのか。樹の影は暗がりの中で静止したまま動かない。その状況が堪らなく嬉しかった。彼の苦しむ声も、自分をこんな目に遭わせた女の前で食いしばって痛みを耐える姿も、何もかもが愛しい。この声を聞いた時に、私は彼のこんな声を一番聞きたかったのだということに気づいた。

 私はとっくに知っていた。彼がこんなことをしても、むやみに怒らない男だっていうことを。勝算のある戦いしかしない私が、卑怯なのかずる賢いのか、あるいは本当に賢いのかは周りが決める。でも今は私達以外は誰もいない。つまりここで私の評価を決められるのは私しかいない。

 私は手探りで彼の手を掴んだ。最初は左手、続いて右手。両手を取って向かい合った後で、彼の唇を唇で探って、キスをした。彼のリュックを背負った背中が壁に擦れてずりずりと鈍い音を立てた。まるで第二の皮膚が引き裂かれるような音だった。このリュックの擦り傷を見る度に、彼は私とのこの瞬間を思い出すことだろう。私の勝手な予言は翌日に現実のものとなった。気まぐれに水を向けたら彼が自分からそう言ったのだ。

 気持ち良いキスなんかじゃなかった。痛かった。お互いに唇を感覚だけでまさぐって、いろんな所を噛んでいたから当然だった。痛い、痛い。痺れるような痛みが背骨のように私の身体を貫いていた。痛みの核の部分が唇と、あと膝下にもあるようで、なぜだろうと思ったらずっとつま先立ちをしていたのだった。

 お互いに気が済むまで顔は見なかった。そんなものを確認するよりも、私達は暗闇の中でお互いの唇に付いている肉に夢中になる方を選んだからだった。互いの唇の感触を確かめながら、そこから放射状に広がる全身の身体の感触を想像する。私は服の上から彼に身を任せながら、無情な思いと言うべきものに浸っていた。言うなれば、彼に抱きしめられているものは、もう私じゃなく、ただの私の抜け殻だという感覚。私の首は身体を貫く細長い痛みの先に、晒し者みたいに刺さっているようだった。私の首をそこに刺したのは私自身に違いないから悲愴感は無かった。ただ私は首の皮一枚で自分の身体と繋がっている。でもそんな抜け殻をも愛してくれるこの目の前の彼とは何だろう、とずっと考えていた。私がこの時に感じていたのは、意外なことに愛じゃなく、恩のようなものだったと思う。初対面から親身に接してくれて今もこんな私を愛してくれているその事実には感謝しなければならない。事実、今の今までよく我慢してくれたものだ、と私は彼に対して思っていた。

 ぬるい風が吹いていた。私達は今日、本当の恋人同士になると確信した。名実共に、暗闇と縁がある恋人同士になると思った。だとしたら、この恋もまた最後は暗闇で終わるのか、そんな不吉とも言える予感が頭を過った。そんなものは迷信だとすぐに打ち消した後でこんなことを考えること自体がおかしいと思った。そもそも、迷信を迷信と意識する行為自体が、人のエゴの神髄みたいなもので、何の根拠の無いものなのに。

 舌を入れる寸前のキスを繰り返しながら、彼の様子を膝で探っていたら、路地の向こう側で車が通り過ぎる音がした。私達の足元を数センチずれて、ヘッドライトの残光が私達の暗闇の足場を鋭角に切り取った。私は彼から唇を離すと、ふう、っと息をついた。こういう時に映画みたいにタバコの煙を吹き付けられたら、様になるのに、と思った。でもああいうのはファンタジーとして想い続けるからいいのか。暗闇の中で「このまま続きしますか?」と冗談で聞いたら、彼は立て続けに通ったヘッドライトの光をもろに浴びながら、笑顔で首を振った。


 私達は当然のように恋人になった。しばらくして同棲も始めた。そこまでの流れはスムーズだった。そこから今に至るまでは、正直あまりよく覚えていない。意識して覚える必要がない位、自然で幸せな毎日だったのだと思う。

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