12

「芙由ちゃん、今日暇?」

「はい」

「いつもの場所、行かない?」

「いいですね。ぜひ」

 定時後にはすみさんに誘われた。二葉ちゃんが定時ぴったりにお疲れ、と言って上がったのを見計らって話しかけてきたようだった。はすみさんの席は私の斜め後ろだ。誰が悪いわけでもないけど、この席は少し息が詰まると思う時もある。今日も、二葉ちゃんと他愛もない雑談をしている時にも後ろからじっと観察されていたんだと思ったら、やましいことは何もしていないのに少し恥ずかしくなった。

 行き先はいつもの、会社から歩いて十分のダイニングバーだった。ダークブラウンの目隠しの壁に囲まれた半個室に二人で篭って話をする。女子会と呼べるほど浮ついた飲みではない。今頃二葉ちゃんは港区で盛り上がってるんだろうな、と思いながらお通しのスプーンに盛られたカプレーゼを口に入れる。思えばはすみさんとはここしか行ったことがなかった。はすみさんはいつも、スマホで席の予約をしてから私を誘っているようだ。

 テーブルの上に並ぶ料理は見た瞬間に味が想像出来るものばかりだ。だがそこがいいとはすみさんは言う。シンプルであるがゆえに安心出来るんだと。それははすみさんの人生哲学そのもののように思えた。私達はいつもスパークリングワインを飲みながら、ここで二時間ばかり寛ぐ。はすみさんはここでは料理の写真を撮らない。

 目隠しの壁の中に充満する、本当はそういうキャラじゃないよね、という暗黙知が、私達の心を緩やかに繋げる。

 女子会じゃないから話の内容はたわいない。最近見た映画や、ドラマの話、お互いの趣味の話など。私が最近、スケボーにハマっていると言ったら、はすみさんは意外そうな顔をして、ケガしないようにしてね、と言った。待ってましたとばかりに、もうしてるから無理です、と子供みたいに笑ってさり気なく予防線を張ったら、困ったような呆れたような笑みを浮かべて、それ以上は何も言わなかった。めったに会わない親戚の叔母さんに、それ芙由ちゃんには似合わないと思うけどな、とやんわり忠告されているみたいで心がこそばゆかった。

 はすみさんには、お気に入りの俳優がいる。私は中学の頃に、彼が高校教師役をやっていたドラマを毎週見ていた。教え子と恋に落ちて二人で逃避行するあの役は私も好きだったが、それ以外の役は記憶がない。あの役かっこ良かったですよね、と言ったら、はすみさんはほっとしたように笑った。はすみさんはあの人のファンをもう五年以上続けている。

 あの人のことを話す時のはすみさんの目は夢見がちに輝いている。並行眉の一重はどちらかというと洋服よりも着物が似合う。目の印象が薄いから目立つタイプではないけれど、どのパーツも大きな粗がないことは、こんな風に二人で至近距離で向き合ってみると良く分かる。色白だから、特に会社の蛍光灯の光の下だと、角度によっては丹念に磨き上げられた工芸品のような顔立ちに見えることもある。正反対の魅力を持つ毒舌の二葉ちゃんもはすみさんの肌質の良さは認めている。CMの受け売りじゃないけど、ほんとに陶器みたいな肌してるよね、あの人。誰にも損なわれることのない世界を想像している時のはすみさんは特にきれいだと思う。

 私ははすみさんとこんな風に飲むのが好きだ。歳を取ってもこんな風に目を輝かせて生きていけることもあるんだな、という事実に対する気づきが私を安心させるから。

 話題に出れば二葉ちゃんのことも話す。

「気の強い子だと思うけど、お願いした仕事はテキパキやってくれるから」

はすみさんはそれ以上は何も言わない。言わない代わりに懐紙に包んだような同調圧力のこもった目で、私をじっと見つめる。

「そうなんですね」

 この相槌は便利だと思う。こう言えば納得して目を逸らしてくれるのが分かっているから。私は曖昧な笑顔を浮かべていつもそうする。言わんとしていることが直観出来る時は特に。私の笑顔ははすみさんのプライドを丁寧に包むような笑顔になってる、はずだ。

 こういう時のはすみさんは、二葉ちゃんよりもしたたかだ。自分の意志で薄氷の上を恐る恐る歩いている感じがする。あからさまに割ってもいけないし割りたくもないけど、そのまま無視出来るほど神経が太くもないから、恐る恐る爪先を延ばしてひびを入れずにはいられないのだ。一緒にやろうよ、と視線で訴える、はすみさんのその臆病さを嫌いになれない。

 私が男だったら、友達になるなら二葉ちゃん。付き合うならはすみさんだろう。樹にこれを話したら、お前の趣味は分からん、と笑われたのだけど。


 飲み始めて一時間半くらい経って、はすみさんの顔がほのかに赤くなって来た頃に、ちょっとした行事がある。アイスクリームを追加注文するのだ。これは私達の差し飲みの恒例行事であり、大事な儀式だ。

 注文の時には、スプーンを余分に一つずつ付けてもらうのを忘れない。しばらくすると、テーブルの中央に、向かい合う形で細長い黒皿に盛られたアイスが並ぶ。

 ここのアイスはツースクープ盛りで、組み合わせを選べる。一つは期間限定のアイス、もう一つは通年のアイスの中から選ぶ。私は一つは期間限定のものの中でも珍しくて、食べたら面白そうな味、もう一つは純粋に自分の好きな味を選ぶことにしていた。最初に選んだ時にはすみさんがそうしていたみたいだったから、私も真似してシェアすれば、一度で二度おいしいと気づいた。

「今日はメロン?」

「はい」

「こっちはね、マンゴーとライチ」

「ライチ?」

「うん。期間限定のやつ。ちょっとあげるね」

「ほんとですか。じゃあ私の方も」

 一応マナーとして驚く。はすみさんがこのシェアを毎回楽しみにしていることを私は知っている。

 私達は、予備のスプーンを手に取り、お互いの皿のアイスの端を掬って口に入れる。ここで面白いのが、お互いに口を入れるタイミングがほとんど同じだということだ。前にスプーンをもらうのを忘れた時に、もうこのままでいいよね、ということになって、お互いのスプーンで直接食べたことがある。その時にスプーンを口に入れるタイミングが合って、一瞬時が止まったみたいになって、あの女同士の気恥ずかしい空気が流れてしまった時があった。はすみさんも同じことを思ったのか、顔を見合わせて笑ってしまった。つまり、あのファンタジーは、信じられないね、ということ。自然な笑い話に出来たのは、お互いの認知が一致していたからで、信頼関係が正しく築けていたのも、あった。それからは必ずスプーンを付けてもらうようにしている。

 ここのアイスは生乳で作られているから味が濃い。私の期間限定のアイスは、ピスタチオだった。はすみさんは色の濃い方から順に取っていく。二葉ちゃんと三人で食事をした時のことを思い出す。二葉ちゃんのシェアとはすみさんのシェアは真逆だ。二葉ちゃんのシェアはつまみ食い。唐突にちょっとちょうだい、と言って、言ったそばからスプーンが伸びてくる。私が断る暇も無かったと思っている間に、もう食べ終わっている。それだけだと単に卑しいだけだけど、二葉ちゃんは気前がいい。もし食べたものがおいしかったら、同じものを追加注文して、自分が食べた倍の量をくれる。

 はすみさんのシェアはマナーであり、コミュニケーションそのものだ。礼儀をわきまえたおすそ分けであり、寡黙なはすみさんが編み出した、目の前の相手とより深く親交を深めるためのコミュニケーション、からのイニシエーションだ。

 現にはすみさんのシェアは誰に見られても恥ずかしくないと思う。でもマナーであり儀礼だから、断るという選択肢はないし、断ってはいけないのだ。

 三人でいる時は、必然的に二葉ちゃんのシェアになる。一番声が大きいからだ。はすみさんは二葉ちゃんのシェアを意地汚い、とここでは言っているけど、二葉ちゃんにはすみさんのシェアを話した時の感想は「みみっちい」だった。

 あの時は、「あの子一人っ子で天真爛漫みたいですから」とフォローしたと思う。

 私は、どっちのシェアも好きだし、どっちでも別に良かった。

 ただ、こんな風に二人の板挟みになった時は、時々無性に甘いものが食べたくなる日がある。そんな日には、有休を取った日にここに来て、自分が本当に食べたいものを全種類注文しちゃおうかと思うこともある。いざ有休の朝になったら、貴重な休みにそんなことやって何になる、と思うから、今の所実行はしていない。

 ダークブラウンの無垢材がふんだんに使われた内装と座り心地の良いアンティークソファ、程良くノイズマスキングが効いた空間で、口に合わない料理が一つも出て来ずに、思う存分飲み食いして三千円でお釣りがくるのは、新宿駅直結地下の立地から言うと破格に違いなかった。この店をはすみさんに紹介したのは、私だ。個人でやっている店だから潰れないで欲しいと思うけど、あのコロナ禍を乗り越えた実績もあった。時々レジで並んでいる時にオーナーの人が、自営業らしき風貌の常連客と雑談を交わしている。雑談の相手は毎回違っていた。

――最近うちも女性のお客さんが増えてきたから、小物に遊びの要素をもうちょい入れようかと思うんですよね。アビゲイル・アハーンみたいなキッチュな感じで。

――へえおもしろいじゃん。アビゲイル・アハーンのプロデュースしたホテル、最近都内に出来たよね。普通のホテルじゃなくてライフスタイルホテルとかいうやつ? あれどこだっけなあ。

――あ、知ってますそこ。南青山にあるんですよ。視察がてらこの前泊まってきました。

 こういう個人店は下手なチェーン店よりも生き残りの技術がありそうに思える。

 オーナーの人ははすみさんと同い年位のがっしりした体型の男性だった。茶髪で筋肉質で無精ひげもあるのに、白いシャツと腰に巻いた黒い給仕エプロンはいつもパリッと糊付けされていて清潔感がある。新しもの好きの二葉ちゃんが好きなタイプだ。「好きなんだけど、好きなんだけど、こういう系の人って大抵ゲイだから私の出番ないの」と、二葉ちゃんはしてやられた、みたいな顔で言う。はすみさんはこのオーナーの人と会計で向き合う時に、いつも少しおどおどしている。はすみさんも常連なのに、この人だけじゃなくて、ここの店員さんと接する時にいつも初めて来た人のように振舞う。オーナーの分身のような店員さん達は、お客さんがどんな態度を取っても程良くフランクで臨機応変な、そつの無い接客を続けていたけど、背伸びしてこの店に通っているんだな、という空気は、皮肉にも客側の態度に自然と滲み出る。

 今日もオーナーの人は、人懐っこそうな笑顔とともに野太い声で、毎度どうも、と言った。その挨拶が隠れ家ダイニングじゃなくて完全にチェーン店の居酒屋のそれだから最初に聞いた時は思わずつられて笑ってしまったのだけど、今日はそれがはすみさんを励ますような声に聞こえてしまった。はすみさんはいつものように無言でそそくさとお辞儀だけ返す。何で二葉ちゃんのことを話す時みたいに堂々とした態度を取らないんだろう、と思った後で、どうせ明日の朝になればこれがどこかでブーメランになるんだからこんなことを考えてはいけない、と思い直した。完全に闇と同化している、鉄骨の危ない階段を登り切って地上に出るまで、私達は無言だった。

「ごめんね、付き合わせちゃって」

「全然。色々話せて楽しかったです」

「本当? よかった。じゃあ、またね」

 はすみさんは丸ノ内線で私はJRだから、店の入り口で正反対の方向に別れる。飲み帰りの客待ちのタクシーが道路にはひしめいていた。はすみさんは婚活を始めたらしい。別れる寸前に「婚活頑張って下さいね」と言おうかと思ったが、止めた。その発想は二葉ちゃんと同じだし、あまりにも性格が悪すぎる。

 春と共に来て、やがて初夏へと消えていく生温かい風は私の心と似ていた。季節の移り変わりの風は、ともあれ、肌当たりが優しいから好きだ。考え事をするために遠回りして帰ることにした。軽やかな夜風と気ままに歩けば、頭も冷静になって自分の中のぽっと出の意地悪さが収まるように思った。こんなものを職場の人に向けてはいけないのだと私の良心は言っていた。厳密に言えば考えること自体は悪ではないのだ。私にはプライベートでそれを思う存分発散出来る相手がいる。だからTPOさえ間違えなければ何の問題もない。

 それに、せっかく脱捨離に目覚めもしたんだから、不要なものを捨てるためにもっとシニカルにならなければ、いけない。

 村上龍の『インザ・ミソスープ』の描写を思い浮かべて、タイム社のビルがないのにタイムズスクエアという名前を付けるセンスを便乗して見下した。誰も歩いていない歩道橋の上で現物を見上げると、自分が本当に偉くなれた気がした。


 最寄駅の吉祥寺で電車を降りると、本当のホームに帰って来た気がした。

駅前のコンビニでハーゲンダッツを衝動的に三個大人買いした。バニラとストロベリーとラムレーズン。家に帰ると、樹がベッドを背もたれにしてゲームをしていた。音からして、発売を楽しみにしていたメガテンの最新作。そのまま寝られるように、パジャマ兼部屋着の黒のスエットを上下着込んでいる。

 私達の部屋は、ものが少ない。同棲する時に、普通にテレビを置くんじゃなくてプロジェクターで映画やゲームを見るようにしようと決めて、お互いの荷物を合わせるタイミングで断捨離したのだ。互いに冗談半分できつめのダメ出しをしながら断捨離したお陰で1ⅮKの新居は、二人の荷物を合わせても広すぎるほどすっきりしたが、弊害として、新しいものを部屋に持ち込む時には一抹の緊張感を抱くようになった。

「いっくん、アイス買ってきたけど食べる?」

「は? いらない」

 静止画の連続で構成されているゲームだけど、樹の目は画面に向いたままだ。

 私は樹が甘いものが嫌いなことを知っている。知ってるけど、あえて聞いた。

 身内の気安さが出てきたのか、同棲してからの樹は、どんどん口が悪くなった。元々口に出さないだけで本質は毒舌家だと思っていたけど、初めて態度を変えられた時はやはり驚いた。根がまっすぐな所は今でも変わっていないから、柔らかいものに付いた棘のような個性だと思うことにしていた。

「じゃあ私全部食べちゃうね」

「ああ」

 私は白い大皿にアイスを半分ほど盛り付けた。

「悪魔」を射殺す効果音が、部屋中に響いた。顔を上げると、画面が電子の血で真っ赤に染まっていた。残酷だとは思わない。だって私もクリティカルで一回で殺せた時は、やった、って一抹の罪悪感を抱きながらも喜ぶし、それが本能だと思うから。肉をおいしいと思うのと同じ。嫌ならベジタリアンになればいい。それで本当に解決する問題なら。

 シンク脇で立ったまま、アイスを盛り付けた。盛り付けながら食べた。もう何スクープとか、数えてられなかった。全部食べ切ってやろうと思ったのに、半分ほど食べると味に飽きてきて、スプーンを持つ手が止まった。

「それ盛りすぎでしょ。腹壊すよ」と後ろから声がした。振り向くと、いつものように伸びをしながら樹が近づいてくる。ゲームはもう終わりにしたらしく、プロジェクターには何も映っていない。

「絶対壊すってそれ」

「じゃあ食べる?」

 樹は首を傾げて笑った。「意味わかんねえ。何で俺が食べなきゃいけないの。お前が食べたいから盛り付けたんだろ」と畳み掛ける。

「だったら言わないでよ」

「だって気になるし」

 私は樹に背を向けてアイスの山を口に入れた。かき氷みたいにこめかみがキーン、と痛んだ。

「ねえどこ行ってきたの?」

 樹が後ろから手を回してくる。樹は颯真よりも背が高いから、抱きしめられると普通の人よりも圧迫感がある。圧迫感というか、毛布みたいな包容力というか。最近メーカーを変えたばかりの柔軟剤の香りが背中から香った。

「仕事‥‥‥からの差し飲み」

「男?」

「女。はすみさん」

「‥‥‥あー、あのポテンシャルの高い人か」

「何それ」

「俺的には褒めてんだけど。違ったら悪いけど、お前と初めて会った時に合コンで一緒だった人だよね」

「そうだよ」

「あの人って、量産型に憧れてる地味清楚って感じの人だよね。あそこで会った時そう思った」

「‥‥‥ひどーい」

「別に本人の前で言ってる訳じゃないんだから酷くなくねえ? ほらもう一人いたあのヤバい奴。あいつとかもろ量産型だったじゃん? あいつにイメチェンのやり方教えてもらえばいいのにね」

「絶対無理‥‥‥いっくんだって無理だって分かってるよね?」

樹はふっ、と片頬で笑うと、満足したように手を離した。

 ごめんね、と耳元で声が、全くしなかった。私が振り向くと、「でも芙由ちゃんもさあ、酷いと思うんならもっとちゃんと怒んなきゃだめだよ」と澄まし顔で言う。

 今さら芙由ちゃん、なんてね。どこにもいない先生みたいな口調で、出会った頃の真似をしているのだった。



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