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「芙由、昨日前にチケットもらったライブ行ってきたよ」

「ああ、どうだった?」

「うーん、それなりに楽しかった。曲はつまんなかったけど、セットはすごいかわいかったよ。エモいサーカスみたいな感じで」

「そっか、良かった」

 ある男性シンガーソングライターのライブのチケットを二葉ちゃんに譲っていた。インディーズでの活動歴が長い人で、R&Bテイストの曲をずっと歌っていたけど、CMで提供した曲が話題になったのを機に大手レーベルに移ってメジャーデビューした。今回のライブは移籍後の初ライブだった。彼はアーティストプロデュース業も手掛ける個人事務所に所属している。まだメジャーの色が薄いライブが大掛かりなセットで見られただろうから、急な仕事で行けなかったのは悔やまれたけど、チケットが無駄になるのももったいないから一応話してみたのだ。こういうことははすみさんじゃなくて新しもの好きの二葉ちゃんに話すに限る。でも酷だったかなとも思う。メジャーに行ってからの曲はまだ少ない。セトリもいわゆる売れ線の曲じゃなくて、インディーズ時代の、何でもありの洋楽っぽい作りの曲がほとんどだったはずだ。

「残念だったね、行けなくて」

「別にいいの。ネットでライブレポ見れるし」

 もしこれがオンラインライブだったらアーカイブもあったかもしれない。コロナ禍で話題になったラインやインスタの動画投稿機能を応用したオンラインのライブやフェスは、秒で廃れたクラブハウスの盛り上がりもあって一時期は定番化の兆しをみせたものの、コロナが収束したらファン主導の「やっぱライブは生じゃないと」の要求の下で、流行遅れの遺物にされた感があった。

 私はコロナ禍でインディーズの音楽にハマった口だから、古参のファンに対する嫉妬のようなものはない。ツイッターでフォローしているクリエイター系のインフルエンサーの人達のツイートで興味を持って、たまたまオンラインフェスをやっていたから見た。創造力を駆使する仕事をしている人達はまだ世の中に知られていない新しい音楽が好きで、常に自分とは違うジャンルの新しいものにインスピレーションをもらいながら、唯一無二の作品を創造することを夢見て仕事をしているように思えるから、眩しい。

 彼らとは違って創造力を駆使しない仕事をしている私が、なぜ彼らの真似をして新しいものを追いかけるのか。聞かれてもはっきりとは答えられない。確実に言えるのは、追う楽しさだけではなく、焦燥感がそれに連なるようにある。そしてその後を、重苦しい諦めの車輪のようなものが追う。最初は直感で何となくいいと思える獣道のようなものしかなかった。車輪が通った後の道は、色々なものがぺしゃんこになった、ちょっとだけきれいな轍が出来たと思う。でもきれいだきれいだとその轍をいつまでも眺めて、いたくない。ノスタルジーは嫌いだし、影響されやすい自分を無防備に晒している感じが嫌。そもそも見た目が自分の皮膚がえぐられたみたいで痛々しいから、すぐに前を向いて新しいものを摂取したい。でも周りにそれを悟られたくないし、冷たい人だと言われるのも嫌だから、もしこれについて聞かれたらエモいの一言で片づけるけど。

 インディーズのアーティストはメジャーのアーティストよりも距離が近いから好きだと言う人もいるけど、私はそうは思わない。でもそう信じられたら幸せだろうな、とは思う。

 私は華やかで新しいエンタメに救われているようで救われてないのだと思う。でも距離感の近すぎるファンは怖い、自己の理想像を押し付けるファンはきつい、と顔を顰めながら言うアーティスト達の気持ちは想像出来る。本音では自分達が与えるものをありがたがって享受し続ける扱いやすいファンの存在を望んでいるだろうし、アーティストも人間なのだと思う。有象無象のファンは本来そういうもんだと思うし、それが則を超えないという意味だとも。本当は鳥頭の異形にしか見えてなかったとしても別にいい。何者にもなれなかった奴らが、退屈という言葉の盾に隠れて囀る感想の価値などその程度だと思われていたとしても。ルーツを突き詰めるとそれは同族嫌悪で、単に忘れてるんだな、と思うから。

 これを前に颯真にオブラートに包んで話したら、何となく分かると言われた。音楽に限らずエンタメって、諦観した上で楽しむもんだよね、と。

 一時期殴る快感に囚われていた颯真は、今では私との関係を割り切って、殴る時だけそれ用の別人格を演じられるようになった。これは新しく出来た理知的な彼女の影響のようだった。

 あれは初めて颯真の部屋に行った日のことだったか。本命の彼女が出来た記念に部屋に招待された。颯真の部屋は、笹塚にある彼の部屋は、コンクリート打ちっぱなしの壁にモノトーンの家具が並ぶワンルームだった。仮面浪人していた頃に入っていた大学寮の良い所だけを模したそうで、特に壁際の背の低いラックには、医大に受かった後に実家から救出してきたという、音楽マニアの颯真のコレクションが大量のカルテのように詰まっていた。

 コンクリートの壁に手を付くと、無機物の容赦ない冷たさが手のひらに染みた。私は自分に罰を与えたかった。人肌で防ぎきれない絶対的な冷たさに、全身を押し付けたら目が覚めるか、と思った。

「今日は脱いでしてみない?」といつもの笑みで誘ったら、颯真は片頬を上げて頷いた。

 ゆっくりと服を脱ぐと、颯真の眼鏡を掛けていない顔が眼前にあった。彼は眼鏡を完全に止めるまでには至らず、時折コンタクトと併用していたが、セックスをする時には自分から眼鏡を取るようになった。裸眼になった颯真にとってはもうそうでなくても、私にとってここは、セックスを楽しむための牢獄に違いなかった。ここで行われるべきことは、甘く過酷な拷問だと決まっているのだった。

 殴ってる時にこう言われた。芙由を殴る時に、数学の方程式がちらつくんだと。受験時代に覚えた公式が視界を飛び回るみたいにちらつくんだと。私も知っている公式だったら嫌だと思ったから、「その公式忘れないの?」とだけ聞いたら、絶対に忘れないんだと。

「なんなら問題解いてる時に殴ってる感触と一緒に思い出すよ」と言って、颯真はへこんだ缶のようになった私の身体を四つん這いにさせて、後ろから髪の毛を掴んで、射精した。

 心がPTSDを気取っているのか、それ以外は全ての物事が断片的にしか思い出せない。突然起動したエアコンの音。小型のバイブの断続的な唸り。「ここの壁厚いから、もっと叫んでも大丈夫だよ」と後ろから、得意げに言う颯真の声。彼が枕元を探ってゴムを付ける音。耳元で意味深に振られるピルケースの乾いた音。彼の手が私の肌に伸びてくる寸前の風切り音と、果てる寸前の、瀕死の動物じみた喘ぎ声。

追い立てられた後は、逆に追いかけるために息継ぎを繰り返していた。

 一秒も声を出さずにはいられなかった。互いの名前は一度も呼ばなかった。行為の間中、ずっと喉の渇きを感じていた。口の中が砂漠のようにひりついて痛かったが、どれだけの量の水を飲めばこの喉の渇きが癒されるのか分からなかった。闇雲に飲んだら吐くに違いない。それ自体が拷問になりそうだった。

全てが終わった後で、眼前に薄い血の赤の幻を見た。いつかの生首がもう斬られた状態で血まみれになっている。視線を左に逸らすと、彼の影がその下に重なった。

 衣擦れの音がした。暗闇の中で目が合った気がした。颯真は寝ているようで寝ていなかった。

 先週彼女とここでしたんだ、という呟きを、薄靄の中で聞いた。

 「気持ち良かった?」とは聞けなかった。


 あの時のしつこい生理痛と筋肉痛が混ざったような、血まみれの臓物を引きずるような痛みは、かなり後を引いた。少なくとも一週間は収まる気配は無かった。身体が甘えているのか。死ぬほど激しいこともしていないのになぜだろう。が、有休を使って休むのもばからしいから連日出社していた。私がやっているのは娯楽目的のDVだと思っていた。今はまだマイナーだけど、そのうち首絞めプレイのようにメジャーになる遊び。遊びに行ってるのか骨折しに行ってるのか分からないスポーツみたいなもの。これは娯楽。こんな生ぬるいDVで女は死なない。ひょっとしたら妊娠出来なくなるかも知れないが、私は初めから子供など産むつもりはなかった。



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