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 地下鉄に隣接する一階のエントランスは、今日も行き交う人で賑わっていた。多言語のアナウンスはないものの、階数ごとに区切られたエレベーターに向かって交差するこの場所は、国際空港のミニチュア劣化版のような靴音の連なりと、人いきれのノイズにまみれている。

 停止階ごとに区分けされて並ぶエレベーター群と垂直に向かい合う形で、形ばかりの受付がある。巨大な入居テナントの一覧表を背負う形でぽつんと座る受付嬢は、恐らく派遣社員で、いつも暇そうにしている。

 受付の左奥にはカフェがある。曇り一つなく磨かれた巨大な窓を持つタリーズの前で、モーニングメニューの立看板を眺めるスーツケースを持った人々は、このビルに入居する企業の社員で、これから出張に向かう人々か、近隣のビルで主催されるネットワークビジネスの新規講習会に参加するために地方から出てきた人々だ。

 さっき、私の異動辞令が全社メールで流れた。秘書課総合窓口のメールで他の人と一緒の発表なのに、私だけが変に注目されて他の人は空気にされていた。

 はすみさんと目が合ったら、般若のような細い目で睨みつけられた。どうせこれも事前に知らされていたのだろう。さながら親切にした恩を仇で返したクソガキ、という所か。この目をしたのは奈緒ちゃんの結婚報告の時以来。最後の最後に利用された女としての当然の反応が見られたことにほっとした。はすみさんがまだ人の心を残している頃に、私はここを去れる。その方が憧れていた量産型みたいで似合いますよ、と心の中で呟いた後で二葉ちゃんを見た。二葉ちゃんは、PCの前で頬杖を付いて無表情だった。こっちは人以外のものに自ら擬態しようとしていた。目を細めて、やたらと口元を隠している。その仕草は梨々花の方が得意なのに。梨々花はあの人が二葉ちゃんの同僚になるかもしれない、とも言っていた。これも梨々花の差し金なのか。あるいは。自分のこれからの運命に今から不安を抱くべきだよと、テレパシーで最後の忠告をした。

 二人のありのままの反応を噛み締めた後で、私は梨々花を内線でタリーズに呼び出した。内線では言葉の節々で、この電話の相手が梨々花なのだと言うことを強調した。二葉ちゃんが隣でスマホをいじりながら聞き耳を立てていたのを見た時、私の向かいで身をよじったはすみさんの姿を見た時、勝ったと思った。梨々花は理由を聞かず、電話口でいいわ、とだけ言った。

 だが私はタリーズの入り口のはるか手前で梨々花を待った。梨々花と一緒に店内に入るつもりはない。離席中の旨を伝える自動返信メールの本文にサプライズを仕掛けたから、もうそんな必要はないのだ。

 もうすぐ、経理総務部の総合窓口から定例報告のメールが流れる。迷惑メールの転送設定をしていたとしても、今回だけはちゃんと見た方がいいと思う。私はあれに爆弾を仕掛けた。今までお世話になりました、に続くリンク先はファイヤーストレージの画像だ。次のTOEICの試験で満点を目指している梨々花曰く、花梨のオープンマインドでフックアップな性癖は誇れこそすれ、恥ずべきものではないそうだから。

 カフェの向かい。今私が立っている場所の傍には、細長い黒石のベンチがあった。背もたれの無い冷たく硬いベンチに向かい合う形で店内が見える。この時間のタリーズはガラガラなのに、ベンチは全て埋まっていた。

 タリーズに入るお金が惜しい人々の定席だとは思うまいとした。今思ったのは不可抗力だから仕方ないが、これからは思うまいと。なぜなら私もすぐにこうなるから。言霊の呪いで地味に殺されるなんてまっぴらだ。

 さっきからとっくに気づいていた。私は尾行されている。斜め後ろの柱の陰に二人いる。一人は花梨の取り巻きの社労士のおばさん。もう一人は、その腰巾着か。下に行くついでに尾行するというその神経が、私はやっぱり分からない。世間的に価値がある仕事をしているという事実に、自らの人間性の担保までべったり委ねる輩。張り付いた全身の境目から自己愛の粘着質な糸が見える。こんな奴らに私達は踏みにじられていたんだと思うと、こっちの方が情けなくなるが、もう関わりたくないので、「仕事にプライド持つっていいですね、そして、仲良きことは美しきかな」で片付ける。

 まだ樹と付き合っていた頃、二葉ちゃんが酔っぱらって、こんなことを言った。

「芙由、私達いろんな所に旅行に行ったね。でも、私達どんな出会い方すればもっと仲良くなれたんだろうね」

 あれは酔いに任せた懺悔なんだと思っている。でも私が答える前に二葉ちゃんは潰れてしまった。だから酔っ払いの戯言って嫌いなのだ。だからあの言葉の答えはもう考える必要なんかないんだけど、それでも言うならば。

 どんな出会い方をしても、こうなる運命だった。だってお互いに悪いと思ってないんだから、こうなるよ。もうそれでいいじゃない。私はいいと思うんだけど、二葉ちゃんの方は、だめなの? だめなら、何でもっと本気で来なかったのよ。どうせ嫌いなんだから死ぬほど嫌い合って殺し合った方が生産的だったでしょう?

 これを言ったら、二葉ちゃんはまた笑うだろうか。そしたらまた元に戻れるだろうか。最初に挨拶をしたあの頃に戻って、何でそんなこと言うのよ、と言って。

 二葉ちゃんの上位互換に思える梨々花に聞いてみようか。自分が嘘を吐いていることを自覚して、それでも周りを騙そうと苦しみながら頑張ってるように見える梨々花に。ねえ梨々花、私はその頑張りが演技でないのか確認したい。これは社員の権利だと思う。言うなれば、これは嘘を吐かれている可能性が極めて高い状況下における、自衛ですね。

 忘れないで欲しい。会社組織に属している以上、最終出社日に後ろ手でドアを閉めるその瞬間まで、私はあなた方の作り上げた論理の名の下で、保護されているということを。

 私は首を回した。颯真には一部始終の撮影を頼んでいた。時間通り来てくれた颯真に、先程自分のスマホを渡した。梨々花の武器が花梨とあの人なら、私の武器は颯真だった。最初は「そんなことしたらヤバいんじゃない?」と言われたが、あの日以来私をもう殴れなくなった、その事実を気に病んでいるのか。そう言われた時に私が寂しくて泣いたからか。

「そのうち野次馬が集まって同じことをし出すから、顔なんて目立たなくなるよ。ヤバくなったら走って逃げればいい。知り合いなんて西新宿にはいない、よね?」そんな趣旨のことを言った。なぜこんなことをするのかは詳しくは話さなかった。話さず颯真の性欲だけを煽った。だって身内の恥を話すみたいで恥ずかしい。結局颯真は、ただの撮影だけならと協力してくれた。

 これに協力してくれたら、また殴れるようになるかもしれないよ、と言ったのも効いたか。現にあの時、颯真は心なしか嬉しそうな顔をした。

本当はそんな日など、来ない。もうとっくに私達の人生が交わり合う期間など過ぎている。現実に帰るべき人なのに、私が引き留めているせいで帰れずにいる。だから引導を渡すためにこれをやる。雲の上に行った後で、あんなバカな女もいたなあ、と笑って欲しい。けして理解しようとしないで欲しい。理解した先に何があるのか、私は全然分からないし、分かりたくもないから。でもそれでも分かりたい。絶対に理解出来ると言うのなら。

 死んで。

 難しいことはもう考えたから、これ以上考えると本当に病んでしまう。今日はもう行動するだけにしたい。現にもう、梨々花がやって来た。

 私に向かって手を振っている。「元気だった?」と笑いかける声が、エコーのように響く。思えばさっきからずっと耳鳴りがしていた。これは止めろということなのか。本当はこんなことやりたくないと身体が言っているのか。

 やりたくない訳ないでしょう、と私は笑う。これは演技ではなかった。もし本当に秘書になったなら、私はこれを演技にしなくてはいけないけど、私はそんなものにはならないからやらなくていい。こんなこと、誰もやらなくていいことだと思うけど、そう思うには私はもう歳をとり過ぎた。

 梨々花に一歩近づき、笑って、唇を奪った。左目で颯真を流し見る。股間の膨らみを確認した後で、右目で仲良し二人組を流し見た。こっちも下卑た笑いでちゃんと仕事をしていた。どんな扱いをどの位受けてくればそういう笑い方がデフォルトで出来るようになるのか、分かりすぎるほど分かるからかわいそうだと思う。随分ひどい扱いを、周りにされて来たのだ。でも自分が加害者側に行ってしまったら、もう誰も責められないから本末転倒。一度でも加害者の快感に屈したら、華々しく転職を決めて会社を去っても、新しい職場でどんなに猫を被っても、腐った人間性の発露の時限爆弾を抱えているようなもの。だからこそ慰めたい。自分のためにも。歪んだ承認欲求を満たすための餌をあげることで、慰めてあげたい。

 をすることで、これまでに何が行われてきたのかが、嫌でも分かる。花梨の画像は必ず拡散されるだろう。花梨が泣き喚けば喚くほど拡散の速度は増す。この動画も同じように広めて欲しい。普通の人が普通に生きてたら一生出会えないレア映像なんだからちゃんと広めて欲しい。そんなことを思いながら、私は梨々花の背中に手を回した。

 梨々花は固い唇を閉じたまま、私を受け入れも拒みもしなかった。

 梨々花に身体を押し付けると、颯真に付けられた傷が少し疼いた。もう完治したはずの傷が、また開き出すみたいに、傷んだ。身体を動かす度に、その痛みは脈打つように激しくなっていった。それは、私の中の最期の身体の疼きだった。その疼きを祝福するように、大衆のざわめきが耳元を優しく撫で始めた。ただただ動揺するだけの群像のどよめき。だが、それ自体は耳に優しい。やがてどこからともなくささやきが始まる。聞きようによっては鳥の大群の挙動にも思えるそれらが私達の行為を効果的に演出するように放射状に広がり始めた。東京で働き始めた頃に初めて行った新宿御苑で聞いた鳥のさえずりが耳元に蘇った。東京に来て最初に行った場所。まだ何も知らなかった私のこれからの生活を祝福するかのように、快晴の空の下で、名も知らぬ鳥達は無垢な声で鳴いた。あの時に浴びた真っ白な光が、今、強烈に懐かしい。そして、新宿御苑に行ったのはあれっきりだったから、あの時の鳥達にはもう会えない。その事実に私は、救われる気がする。

周りの景色を舐めるように、私は視線を動かした。

 スマホをレフ版のように掲げる颯真の真横に、あの人がいた。

 例にもれずスマホ用にカスタムされた無機質な眼で私達を一瞥した後で、そのまま歩いていく。私はあの人に逆餞別を渡していた。私達がもういらないスマートドラッグをラッピングして、袖机の中にはすみさんのお菓子のおすそ分けみたいにして置いておいた。どんな風にお使いになっても構いません、という匿名のメモを中に添えて。自分で飲んでも、福利厚生としての理由を作るために、会社のウォーターサーバーに溶かしてもいい。

 地縛霊の真似をするのが趣味な人。最後位は本音で親切にしたいわ、と思った。


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キャズム 明日見 慧 @bacd

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