毛玉、家に入る
リィンの後ろを、毛玉がとことことついてゆく。短い足に見合わず、その走りは軽快だ。
通りから祖父の家の敷地に入り、狭い砂利道を小走りに。最後の角を曲がると、夕食の魚を焼く香りが漂ってきた。玄関まであとひと駆けというそこまで来て、リィンは思い出したように足を止めた。
息を整えながらあたりを窺うリィンの背中に、勢い余った毛玉がぽふんとぶつかって跳ねる。
「どうしよう。けだまちゃん」
「も?」
「ど、どうしよう。きっと、おかあさんが怒るの。けだまちゃん、ぬいぐるみになれる?」
「もっ、もっ!」
リィンは、自分よりも大きな毛玉へと腕をいっぱいに回した。背を反らせて持ち上げてみるも、毛玉は微妙に縦に伸びるばかりだ。
毛玉は毛玉で、羽ばたきのつもりか両手をバタつかせる。だが、ペンギンのようなヒレでは、一寸たりとも宙には浮かない。
「んっー、んっー」
「ももっ、ももっ!」
とうとうリィンは砂利道に座り込んでしまった。毛玉はバタついている。砂利の鳴る音に気づいて振り返れば、角を曲がってくる人影が見えた。着崩したシャツに青みを帯びた黒髪――リィンの父、ダレンだ。
「なぁにやってんだ、リィン」
「あ おとーさん!」
「もっも」
「おとーさんは、あおとーさんじゃねぇ。転んだのか? 大丈夫か」
「もっ!」
ダレンは、我が子を起こそうと屈み込んで、そのまま固まった。見てはならない物を見た顔をしてから、いやいやいやと首を振る。さらに目を細めて、目の前のバタつく毛玉に人差し指を二度、三度と突き刺した。
もふん、もふん。ぼふっ。
身長180センチはある成人男性の長い指が深く毛玉に潜り込んだ。
父親が毛玉に気を取られている間に、リィンはもそもそと起き上がった。辺りは暗くなりかけて、家のドアという審判の門の先には母の怒りが待ち受ける。リィンは勇者ゴールデンファントムの如く、今こそ決意の時と地に両の足をついた。
だが、勇者リィンには剣がない。選択を間違えれば、けだまちゃんの明日はないのだ。リィンの小さな頭はフル回転し、口を一文字に顎にシワシワの干しプラムを作り、両手に握った拳をふるふると震わせた。
「あ、あのね、けだまちゃんはね、えっと……」
「ん? けだまちゃん、毛玉ちゃんね。どっから来たんだ? こいつは」
早速の危機である。スクラップ置き場にはしばらく行かないと、リィンは父と母と約束しているのだ。ぷいっと横を向きながらリィンは答えた。
「わ、わかんないっ」
「そっかー。わかんないかぁ。んー、リィンも、毛玉ちゃんがどこから来たのか知りたくないか?」
「……しりたいっ」
毛玉ちゃんはスクラップの山から来た。けれど、あそこはものが捨てられる場所だ。帰る家は別にあるのかもしれない。
じっとしててくれよー、と語りかけつつ、ダレンは毛玉の脇に両手を入れてひょいと持ち上げた。
「けだまちゃん!」
「うぉっ。軽いな。コレ、殆ど毛か?」
宙に浮かされた毛玉は抵抗を諦め脱力している。リィンの頭上で毛玉の尻がぐるりと回された。真下から見た毛玉は殆どまん丸だ。ダレンは毛玉の胴体を改め終わると、次にヒレの裏を覗き込んだ。
「おっ、あったあった。んー、イニティウム魔工業製。型番もある、量産ゴーレムか。こんな奴いたっけか?」
「けだまちゃんっ!」
リィンが毛玉に両手を伸ばして、ぴょんぴょん跳ねる。
「おっと。すまんすまん。よし、もういいぞ」
「もっー、もっ!」
地面にそっと下ろされた毛玉は、不満げに声を上げると、すぐにリィンに寄り添った。
リィンと毛玉の背丈はさほど変わらない。リィンの緑みを帯びた瞳と、毛玉の黒々とした瞳。四つの瞳がダレンを見上げた。
「けだまちゃんのお家、わかった?」
「毛玉ちゃんはなぁ。お家はないんじゃねぇかな」
「ないの? どうしよう」
ダレンは、フッと笑ってリィンを見た。意地悪な大人の顔だ。
「どうしたら、いいと思う?」
「あのね、お家でね……」
そこまで言って、リィンは言葉を詰まらせる。視線を向けたその先は明らかに自宅のドアだ。黙りこくり、身を固くして怯えを露わにするリィンに、ダレンは屈んで目線を合わせた。
「大丈夫だ。とーさんは毛玉ちゃんの味方だぞ。かーさんもなぁ。ペットをもう飼わないって言ったのもミィが――」
「ミィちゃが……」
ダレンの手の中で、小さな肩が震えている。うつむいたリィンの表情は窺い知れない。
「リィンはさ、ずっとミィのことを、気にしてるのか?」
「ミィちゃ……、うん。ミィちゃは、うぇぇ……」
「ちょっ、おぃ!」
「うぇっ、うっ、ぅあ……」
ずびずびずびー。地雷を踏まれて涙腺を決壊させたリィンは、父のリネンのシャツを手繰り寄せて鼻水を拭った。そのままぴたりとくっついて離れないリィンを、長い腕が抱き寄せる。腕の中には毛玉も一緒だ。
「リィン、野良猫がたくさんいるだろう? 」
「……うん」
「ミィは、あんな風に生きたんだ」
「ミィちゃ、さむかったり、おなかすいたりしない?」
素朴な、けれど厳しい指摘に、少し間を置いてからダレンは答えた。
「寒い日もあるだろうな。でも、ミィは強くて賢いだろ? 車の上が暖かいのを知っているし、ケンカだって勝てる。鳥だって捕まえられる」
「……うんっ」
大きな手に背中をやさしくぽんぽんと叩かれて、リィンは頷く。我慢せず、泣いて吐き出したお陰で、涙の洪水はあっさりと止まりそうだ。
毛玉が落ち着きなくもごもごと動き、リィンは父の胸から少しだけ離れて顔を上げた。
「どした、リィン?」
泣き腫らした目で、リィンはダレンの朱色の瞳を見上げている。シャツをくしゃくしゃに握りしめて何かを言い淀むリィンを、ダレンはじっと見守った。
「リィン、わかんない」
「何かな。おとーさんに聞いてみ?」
「ミィちゃ、死んじゃう? 死んじゃってる?」
「もっ、もっ?」
リィンの問いに、ダレンは目を見開いた。隣で毛玉が頭を傾げる。ゴーレムは死なないが、故障はする。リィンの肩に置いた指に、僅かに力が込められた。
「ミィがいなくなってから、もうすぐ半年か。リィンもさ、その間にちょっとおねえさんになったよな」
「ごさいになった」
「うん。おねえさんになって、色々考えられるようになった。だから、リィンは今ミィがどうしているか考えたりできるし、生き物はいつか死ぬということも知っている」
リィンは毛玉に身を寄せて、難しい顔をしながら黙って父の話を聞いている。
ダレンは立ち上がり、シャツの裾を掴むリィンの手を優しく握った。砂利道に影を落とす栗の木の向こう、殆ど沈みかけた夕日に目を細める。
「とーさんもな、リィンと同じだ。ミィはどうしているだろうか。ミィもいつか死ぬ。でも、ミィは最後までミィらしく、生きるはずだ。そうやって、考えるんだ」
「……ほんと?」
「ああ。とーさんも、かーさんもミィのことを覚えている。かーさんは、正直じゃないからあまり口にしないが」
かーさんと聞いて、リィンはぷうとほおを膨らませた。
「おかーさん、すぐ怒ってばっかり」
「大体、リーシャは……あっ、いや、これは、リィンに言っても仕方ないか」
と、その時、台所の窓がガラガラと開いて、リィンの母親が身を乗り出した。視界の端に二人を見つけるなり、大声で叫ぶ。
「あんたたち、何やってるの! 帰って来てるなら早くして。冷めたご飯がいいって嫌がらせ?」
ダレンは苦い顔になり、リィンは耳に手のひらを当てて目をつぶった。幸い、毛玉は見つからなかったらしい。
「もっ?」
「けだまちゃん、お家に入れるかな?」
「とーさんに任せろ。多分、なんとかなる。ほら、急げ急げ。これ以上待たせると、かーさんにオーガのツノが生える。毛玉ちゃんはとーさんが抱っこな。風呂に入れる前に歩かせると汚れるし……」
ダレンがドアを開ける。リィンの腹が鳴る。一歩、二歩、三歩。今やリィンは審判の門をくぐった。
振り向けば、父に抱かれた毛玉が一声鳴く。片手にそっとドアが閉められて、狭い玄関はいつもより少しだけ窮屈になった。
リィンは足取りを軽くする。土間でぐちゃぐちゃに靴を脱ぐと、夕食の匂い漂う居間へと急いだ。
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