毛玉、海を見る
「おとうさっ!」
ボートから降りたリィンは駆け出した。ダレンまであと三歩、大きく踏み切る。濡れたおさげを揺らし、両手をふり上げて宙をその身で掴まんばかりに飛んだ。
南中を過ぎてなお強い日差しが降り注ぎ、なぎわたる水面に幾千もの光を散らす。光はリィンを追いかけて、淡く透かすように跳ねてゆく。
緩やかな放物線の頂点で、リィンはダレンの胸に収まった。大きく温かなそれは少しも揺らぐことなくリィンを受け止めて、その長く強い腕でリィンを包み込んでぐっと上に抱き寄せた。
「……っ、全然、元気じゃないか」
「おとーさんっ」
勢い余ってリィンの両足が宙を掻く。ダレンは生きの良すぎる鮭を取り押さえるが如く、リィンをもう一度抱き直した。二人の頬が触れるほどに近くなる。
「リィン――」
リィンの無事をこれでもかと全身で確かめる。喉元まで昇って来たはずの言葉は、何も声にならなかった。
少しも待たず、腕の中でリィンが再びじたじたとし始める。見れば、リィンは小さな眉を寄せて、涙の跡が残るペリドットの瞳を歪ませている。ダレンはそろりとリィンを地上に下ろした。
「けだまちゃんが!」
リィンが振り返った先、岸に乗り上げたボートがあった。ボートは独特の平らな船底を持ち、上陸用舟艇に似ていた。無骨なロールケージ様の構造が、サスペンションを介してストレッチャーを取り付けるポートを支えている。救命用と思わしき機器もいくつか見える。
救助隊員の隙間から、ストレッチャーに乗せられた茶色い毛の塊がのぞいた。ダレンの記憶よりも気のせいか大きい。
「けだまちゃん、うごかないの。もう、つながってないの!」
「なんだって?」
ダレンの制止を待たず、リィンは毛玉の元に駆けた。ダレンは殆ど無意識にイヤーカフに触れようとして、あの固い感触がそこに無いことに気づいた。リィンを探して走ってくる途中で外したのだ。
慌てず、
走り寄ってきたリィンに気づいた一人の隊員がボートから離れ、両の手のひらを見せて二人の前に立ちはだかった。
「ストップ! ストップ! あのぉ、深刻な雰囲気の所、悪ぃんスけど、大丈夫っすよ」
予想外の軽薄な内容と口調に、ダレンはまじまじと隊員を見た。浅黒い肌に額には小さなツノ。トゥーラ――先民の一種族で、優れた五感を持つ高原の狩人だ。この国では滅多に見ない。都市生活に馴染みにくい彼らは傭兵となることも多く、ルガリアでは度々見かけた。
「けだまちゃん、たすかるの?」
初めて見るだろうトゥーラを、怯えるどころか迫るようにリィンが見上げる。若きトゥーラは破顔して牙を覗かせた。
「助かるっすよ。今はアレっす。ストーブにぶつかったら玉が落ちて火が消えるみたいな? あ、うん。バイタルも戻ってきてるし?」
「ばいたる?」
「体温とか鼓動――しんぞーのドキドキとかっスね」
心臓のあたりを指差してトゥーラが答えるのを、リィンは両手を握ってこくこくと頷きながら一言も聞き流すまいとしている。ダレンは一歩前に出て問いかけた。
「ああ、練力か?」
「そうっす。リィンちゃんも俺が練力で見つけたっす。もっと下流に流されてると目算してたんで、ちぃーと時間かかっちまったスね」
言って、額のツノに人差し指を当てて数秒。何かを確かめて頷く。練力を使ったのだろう。
「ん、もう大丈夫かな。ほら、行っといで」
「うん!」
とてとてとリィンが向かった先、隊員達に囲まれたストレッチャーの上で毛玉がゆっくりと起き上がった。
「けだまちゃん!」
「も、もっ……もっー!」
毛玉はふらつく上半身を精一杯にひねって力を込めると、左右のヒレを交互に振り回した。ストレッチャーの高さにちょうどあったリィンの頬は、ヒレの先でぺしぺしと叩かれる。
「わわっ、けだまちゃん、おこってる?」
「もっー! もっー!」
「むきゃー」
頬を叩かれて反射的に目を閉じたリィンの額は干しプラムみたいにしわくちゃになった。一方で口元からは喜びがあふれ出している。毛玉とリィンは互いに珍妙な声を上げながら、身を寄せ合った。
隊員達の空気もほぐれ、連鎖するようにいくつもの笑いが起きる。
いつのまにかブランケットを放り出されていたことに気づいた隊員が、新しいふわふわのタオルを取り出してリィンの頭にかける。それから術を使って、柔らかくあたたかな乾いた風を巡らせた。
リィンと毛玉の興味は瞬く間に移り変わった。子猫のように目を揃えて吹く風を追う。
「ドライヤーを使うより髪に優しいの。ほら、ちゃんと乾かして」
「うんっ」
乾きかけた毛玉の毛がなびく。リィンは隊員の手を借りながらおさげを解くと、不器用にタオルでわしわしと揉んだ。毛玉も一緒になって、タオルの中でもごもごと動く。
遠巻きに、一人と一匹を眺めていたダレンの目元が緩んだ。
「……良かったッス」
呟かれた声に、ダレンは隣を見た。救助隊の現代的な装備に身を包んだ恐ろしい生来の狩人は、当の父親のダレンよりも満面の笑みを浮かべている。
リィンの歓声と、鮮やかな橙のボート。その向こうに広がる水面に踊る光は、眩しさに滲む。
ダレンはただ敬意を込めて、この若きトゥーラに頭を下げた。
♦︎
フィンレイが検査結果をめくる音が静かな部屋に響く。キアの姉、キーラは緊張を隠せない面持ちで言葉を待った。気を紛らすのに視線を回してみるも、本棚に隙間なく詰められた重厚なハードカバーはなおのことキーラをおふざけとは程遠い気分にさせる。
ダレンから紹介された、このフィンレイ・ライノットという技師の少々だらしない白衣の着方と水っぽいアイスティーが、キーラの緊張を少しだけ解きほぐした。
エイヴィの寿命は長い。ヒュムに比べたら、だが。キーラはオライリー一家との関わりを思い返す。初めて見たダレンと昨日見た彼の姿はあまり変わってはいない。
オライリーのおばさんとおじさんの家には、野良猫を追いかけてという名目で庭に入ったり、勝手に栗を拾ったりしては、おやつをもらったのを覚えている。
キーラが高校生となった今では、そのおばさんもおばあちゃんといってもよい年齢に近くなった。時の経つのは早いと、まだ若いキーラでさえ思う。
あの家に時々いる大きな黒い野良猫――ダレンさんは異様な存在だった。まず、滅多に話さない。たまに話しても低く荒れた声と南訛りが耳に障る。おまけに無表情だし、ガラの悪そうなアクセを沢山つけてるし、朱色の目が怖い。
オライリーのおじさんおばさんを、父さん母さんと呼んでいるから親子であるはずだが、当時小学生だったキーラから見ても血が繋がっていないことは明白だった。何せ種族が違う。
あのダレンさんが、ヒュムの女の人と一緒にオライリーのおばさんちの隣の小さな家に住み始めた時には、あらぬ心配を抱いたものだ。
どこかからさらってきたのではないか、騙されてるのではないか。全てキーラが背伸びしてコッソリ読んでいたレディースコミックのもたらした妄想でしかなかったわけだが。
歳の離れた弟が生まれて母の手伝いが身に染み付いて、キーラがすっかりお姉さん気質になった頃に、リーシャさんのお腹が大きくなった。
父は祝いだ祝いだと能天気に騒いでいたが、キーラはとんでもなく驚いたのを覚えている。
一つは、あのダレンさんが父親になるというのが全く想像できなかったこと。もう一つは、先民と真民の間に子供ができたということ。
近所付き合い同士、歳の近いキアとリィンちゃんが遊び始めるのは自然な流れだった。小学校に入る頃になれば男子と女子で別々に遊び始める子も出てくるが、弟は少しズレている。読書を好み、リィンちゃんと遊ぶのを好む。
昨日――日曜の夕方、そのリィンちゃんと夫妻がウチに菓子折りを持って来て、頭を下げられた時は何事かと思ったのだ。
当のキアはロフトにあるカタログや本を好きに読んで良いと言われて、今はそれに夢中だ。
窓の向こうでは、やけに大きく育ったルピナスの花が、風を受けてゆっさゆさと揺れている。
無言の間に耐えきれず、キーラは口を開いた。
「あの、やはり母か父が同行した方がよかったでしょうか? ダレンさんには一日でも早く検査した方がいいと言われたので、週末を待たず私が弟を連れてきたのですけれど」
言い訳じみてしまったと、キーラは思う。父は大したことないという態度だったし、あれは仕事人間すぎる。あれはあれでダレンさんに気を遣っているつもりなんだろうけど。
母は家での仕事だから、休みが取れなかったというのは全くの嘘だ。正直、この夏のきつい日差しの下を、ここ数日の暑さで体調を崩している母を歩かせるのは気が引けたのだ。誕生日を迎えたら、すぐに免許を取りたい。
机の上でペンを動かしていたフィンレイは手を止めて背伸びすると「んー」と唸った。
「そんなことはないかな。キーラさんは高三?」
「はい」
「生物の成績はいい?」
「えっ。まぁ、中の上くらい、でしょうか」
「うん。なら、問題ないかな。むしろ、適任」
怪訝な顔をするキーラをよそに、フィンレイは席を立つと本棚から一冊を取り出してパラパラとめくった。
「この分野はさ、一世代も違うと学校で習う事が全然違う。最新の教育を受けている人間相手の方が、説明も捗る」
「なるほど。あの、それですと親相手の捗らない説明は私がするということに」
「うん、そうだね」
さらっと帰ってきた肯定に、フィンレイを見返す。振り回されるキーラを茶化すようにこのふわふわした雰囲気の検査技師は、亜麻色のおくれ毛を耳にかけながら悪戯っ子ぽく笑った。
「さて……」
フィンレイは本を一旦置き、書斎の重厚なドアを開けた。向こうは大きな窓とロフトがある工房だ。上にいるキアに向かって、フィンレイは声を上げた。
「キア君も来るんだ。どうせ、全部聞いてたんだろ?」
ガタガタと音がして、梯子のような階段をキアが降りてくる。
「えぇー、なんでわかったんだよ」
「僕がなにで食ってると思ってるんだ。あまり、大人を舐めない方がいい」
キーラの緊張はすっかり解けていた。渋々といった調子で書斎に入ってきたキアに、キーラは笑いを堪える。
「これは確かにキアには手に負えないかなー」
「ねぇちゃんまでなんだよ」
十も離れた
「ん、先客か」
「もっ?」
聞こえてきた会話にダレンが奥を覗いた。背中には抱っこ紐で毛玉が括られている。リーシャは日傘をたたみ、真っ先に工房に行こうとするリィンを引き止めた。
「あれっ? ダレンに、リーシャさん!」
「フィンおじさん、こにちはー」
「フィンレイさん、昨日はありがとうございました」
頭を下げたのはリーシャだ。昨日の今日でまた来たダレンに、フィンレイは何かあったのかと尋ねる。ダレンは気まずそうに視線を泳がせた。
「すまん、フィン。毛玉が昨日もらったゴーレム用栄養剤を全部食べちまってな……」
「あー。食べ過ぎて悪いことはないけど、美味しいから隠しておかないと。リィンちゃんは、ちゃんと病院に行った?」
「うんっ。でも、リィンどこも悪くないって!」
「よしよし。僕は検査するだけで人間に医療行為はできないからね。念のためさ」
リィンとフィンレイがやりとりする間、ダレンはイヤーカフを緩めてすぐに戻した。姉の方はともかく、弟の方はもはや間違えることはない。
工房の奥、書斎を気にするフィンレイに身を寄せて伝える。
「キア君が来てるんだろ? 俺らは先にライノットの所へ行ってくる」
ダレンの言葉にフィンレイは僅かに目を見開き、すぐにまぶたを伏せた。それからひといきの間を置いて、酷く優しげで微かな笑みを浮かべた。
ライノットはフィンレイのファミリーネームだが、ダレンがそう呼ぶ相手は一人しかいない。
「そうだね。父も、喜ぶと思う」
♦︎
フィンレイの工房から電車通りに戻り、終点とは別方向の路線に乗り換えて数駅。街の中心部からは離れ、古い家や倉庫が目立ってくる。この街の終端とも始点ともいえる陸繋島の麓を回り込むように、港よりもやや小高い位置を路面電車の軌道は巡る。
目的の電停を降りれば、南は陸繋島すなわち山、それ以外の三方向は坂、そんな場所だ。しかも南北の坂は目の錯覚を疑うほどの勾配だ。坂を下った先は、いずれも海へと辿り着く。ここはトンボロのくびれよりやや南にあたる。
北に坂を降りればくびれのふちに広がる港へ。西に降りれば、巨大なゴライアスクレーンのある造船所へ。東に行きトンボロを横切れば一転して穏やかな砂浜へ。
俺たちは花を買い、南へと向かった。
山だ。
「歩いて登るなんて、小学校の遠足以来……」
「リィンはロープウェイのった!」
「リィンが二歳の時か。良く覚えてるな」
左手を見上げれば、リィンが言うロープウェイのケーブルが山頂まで続く。それは山肌を沿うというよりは、宙を駆けて点と点を繋げている。
さらにその上空を、真っ直ぐな線が南へ向け伸びてゆく。飛行機雲だ。珍しくもない。150キロほど北にある街を飛び立った飛行機が上空をよく通るためだ。それでも、今日のこれはなかなかに鮮やかだ。リィンも足を止めて空を見上げている。
「先っこを見てみろ、雲が二本に分かれてるだろ? その先に飛行機がいる」
「もっ、もっ?」
「ちっちゃーーい」
リィンがしかめっ面を作る。リーシャはかざしていた手のひらで目の前を仰いだ。日傘は既に畳んでストック代わりだ。
「ダレンは目が良すぎ」
「トゥーラには勝てねぇな」
「何それ?」
思わず、フッと鼻で笑った。
あの若いトゥーラを思い出す。彼にとって救助隊員の仕事は天職なのだろう。味方であればなんと心強いものか。
山と言ってもそこまでは登らない。横道に入り数分も歩けば着く。
「ついたぞ、ここだ」
「おはかだ!」
「こんな所に?」
「もっ?」
海を見晴らす、小さな墓地。
緑鮮やかな自然の芝生へとリィンが軽やかに踏み出した。
抱っこ紐を外して毛玉を下ろすと、汗で濡れた背中に一気に風が通った。毛玉も満更でもないのか、リィンの隣に寄ってゆく。
少し登っただけで、随分と涼しい。リーシャの髪が横合いから吹く風に揺られて、リィンと同じ透き通る橙に色づいた。
狭い墓地だ。一周してきたリィンが戻ってくる。
「みんな、海を見てる」
「そうだな」
墓はみな、海を望んでいる。周囲は大小の木々に覆い隠されているが、断崖に面した南西側だけは遮るものはなく、見渡す限りの青が広がる。
言葉なく、リーシャは開けた方へ歩いていった。
この街で生まれ育ったリーシャは、この海を飽きるほど見ているはずだ。標高でここから200メートルは上、陸繋島の頂上には展望台があり人々が集う。
東側に覗くのは、港を抱く陸の曲線と俺たちの街。もっとも、街のほとんどは木々に遮られて見えない。街を見渡すなら、展望台に行けばいい。
アオジの繊細なさえずりがどこからか響く。答えるように、もう一羽が続いた。彼らは必死に縄張りを主張しているのかもしれないが、人の耳には心地よい。
「こっちだ」
リーシャを呼んだ。
リィンは墓への興味をとうに失い、毛玉と一緒に白詰草を詰んでいる。墓標にはまだ新しい花があった。ジャスパーもそうだが、ライノットの縁で、戦後この国に来た者は少なくない。
「ライノットはこの地の生まれだ。それがどうしてルガリアにいたのか俺は知らない。ただ、彼は戦った。言葉と知識と銃で。共に」
重なるように、花を添える。ふわりと、控えめな香りが風に混ざった。
「色々教わった。探知のやり過ごし方も、難しい言葉も。新しい土地で、人として生きるための縁も」
「――その言葉で救い、共に生きた。あなたの行いは
リーシャが墓碑銘を読み上げる。
天頂に近い日差しが、短い影を落とした。俺たちにも墓標にも、等しく。
「知るほど、遠くなる。ダレンの仲間になるのは、簡単なことじゃないって」
「……そうかもな」
片膝をつき、屈んだリーシャの顔は見えない。再び風が吹いて草木を波立たせた。
響くリィンの声に、海を見る。
――青い。
空は高くごく薄い雲で覆われ始めていた。少し白っぽい、北の夏の空だ。ひとたび一面の海に映されれば、それは鮮やかに映える。
港に出入りする船は、白い航跡を幾つも描いてゆく。空の船が作るものよりも、海のそれは短い間に消えてしまうが、薄く広がった波は規則的で複雑な足跡を水面に刻む。
ここからは殆ど平らに見える陸の向こうには、淡く群青に染まった山々が浮かぶ。
百里の彼方から意識を戻せば、木々の騒めきにリーシャの囁きが溶ける。
「ありがとう。ダレンを生かしてくれて。リィンに逢わせてくれて。あなたの行いは永遠に――」
祈りは風に乗り、遥か南へと海を渡った。
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