毛玉、ねむる

 リィンは石を探しながら、ちらちらとキアの方を見た。キアは座り込んでじっとしている。


「むぅぅ」


 キアが術を使ったときには、いつもリィンの見つけられない石を探してくれる。たくさん魔力を渡したので、すごい石を見つけてくれるはずなのだ。エルシェラ姫がすごい剣を見つけたみたいに。

 不満げに頬を膨らませて、キアの方へ寄ろうと数歩。はっとして首を振る。


「だめだめ。じゅつが、とまっちゃう」


 何度かキアに怒られたのでリィンも知っている。まだまだ頼りないキアの術は、ちょっとした集中力の乱れで切れてしまうのだ。


「けだまちゃん! さくせんかいぎしよ」

「もっ!」

 

 毛玉の前に戻るとリィンはしゃがみ込んだ。両手で口元を隠してコソコソとする。それから、ちょっぴり自慢げな笑みを浮かべて作戦を説明した。


「けだまちゃんもいっしょにさがすんだよ。まりょくはまだあるしー。ふふん」

「もっ、もー」


 リィンは毛玉のヒレをとった。

 リィンのさくせんは完璧だ。毛玉にも魔力を渡してすごいことをしてもらうのだ。もちろん毛玉に術は使えない。だが、二人にとってそんなことは些細な問題だった。


「んっーー」

「も、も?」


 リィンはキアにそうしたように、魔力を譲渡しようと力んだ。毛玉は目をぱちぱちさせながら無い首を傾げてリィンを見ている。


「はいるのに、はいらない? キアとちがう?」

「も……」


 リィンは毛玉にしっかりと向き直り、忠誠を誓う騎士の如くひざまづいた。片膝が水に濡れる。目の前にあげた手のひらで毛玉のヒレの先を包み込み目を閉じて、感じられるものを拾い上げる。


「うううん……」


 ゲシュであれば呪術の基本となったえにしの感覚は力の行き場を探った。呪術が自他の境界を超えて他者を動かすように、時間をかければ何れ低きに水が流れるように。それは安全機構のわずかな隙間から滲み出た。


「もも、も、もきゅ?!」

「まって、まって、リィンできてる!」


 毛玉が細かく震え出す。次第に樽のような腹がぷくぷくと膨らみ始め、水の中でふわふわしていた毛はぶわりと広がった。毛玉は水に良く浮くので足がつかない。石で囲まれただけの生簀から、一回り大きくなった毛玉は溢れ出した。

 流れが毛玉をじわじわと押し出し、リィンの手からヒレの先が滑り落ちる。


「もきゅ、キュ、キュ」

「けだまちゃん!!」


 リィンは目を開けた。毛玉が流されかけている。同時に足が動いた。まだ浅い水面をしぶきをあげて蹴り、跳ねる。


「わっ」


 浅くても川底の厄介さは変わらない。苔むした石に足を取られ、リィンは大きく前に傾いた。


「もまももキューー!」


 切羽詰まる毛玉の声に、ただ一心に腕を伸ばす。リィンの全身は倒れ込むように投げ出された。指先が触れる。川の中のどんな物体とも異なる感触は間違いなく毛玉だ。


「やった!」


 すかさず毛を掴んで毛玉を引き寄せる。

 だが、川はもう深さを増している。リィンの足は確かに川底についていたが、引き寄せ――流されたのはリィンの方だった。

 川というのは少し場所を変えるだけで、深さも勢いも変わる。深さを増せば流れに抗うのは難しく、勢いが増せば浅くとも足をとられる。たった少しの距離が、明暗をわける。


「わわ、はやいっ」


 リィンは、毛を掴んで腕を回そうとした。だが、思ったよりも毛玉が大きい。毛玉のふわふわはかなりが毛だし、お風呂場で水に濡らした毛玉はあんなに細かったのに。

 がむしゃらに毛玉につかまり身をよじる。来た方を見ると、キアが向こう岸に立っていた。


「キアーー!」

「もももっ、もっ!」


 呼びかけは届かない。声をかける間にもキアの姿は小さくなる。


「ど、どうしよう」

「も、も……。もももっ!」


 リィンの焦りに応えたのか、毛玉は再びぶるぶると震えた。どんどん毛玉が膨れる。


「うわっ、けだまちゃん、すごい!」


 息つく間もなく、リィンと毛玉は真っ白なしぶきの塊を割った。轟音の中、上下に揉まれひとつふたつ波頭を越えると、空気を含んでターコイズに色づいた奔流が二人を飲み込んだ。


「むきゃ!」


 リィンは毛玉ごと沈んだ。視界は一瞬で別世界に切り替わる。初めに音が消え、空は青白く陽を透かす波打つ鏡となり、一つ一つが光を閉じ込めた無数の泡が群れをなす。それは渦を巻き、互いにもつれながらリィンを追い越しては空へと登ってゆく。水の力に抉られた底は青緑に沈み、澄み渡った色彩とは裏腹に透明な牙を潜めている。


 迫り来る恐怖に、リィンは全身を丸め毛玉をきつく抱き寄せた。耳がツンと詰まり、水の塊が次々に肌をなぶってゆく。目を閉じて圧力だけを感じながら、一瞬の時が過ぎるのをじっと耐える。

 毛玉の浮力が引き込む流れにじりじりと抵抗していた。徐々に感じる圧力が弱まると、リィンの元に音が戻ってくる。



「……ぷはっ、はぁ、はぁ」


 大きく膨らんだ毛玉の腹に乗るように、リィンはにじり寄った。余裕ができた足でバタついてみても、岸には一向に近づかない。そのうち、リィンは抗うことをやめて水に身を任せた。

 もう、凶暴な波はなかった。だんだんとリィンの目にも周囲の様子が見えてくる。


 この感じにリィンは覚えがあった。このあたりで、近所のだいがくせいがロープで括ったタイヤのチューブで遊んでくれるやつだ。

 チューブの真ん中のあなにおしりをすっぽりと入れて川の流れに乗ると、すごい勢いで流れるのでとても楽しい。でも、あっという間に終わってしまう。だから、身体強化の得意なだいがくせいたちがロープを引っ張って元の位置までチューブを戻してくれるのだ。

 肌に感じる風が、楽しい思い出と重なる。


「わーー」


 景色は変わってゆく。記憶ではこのへんでロープの長さはいっぱいいっぱいになった。けれど、流れは止まらない。それに、だんだんと川は広くなる。

 下流にゆくにつれ、岸には建物がぽつぽつと増えはじめる。家の近くの銭湯の煙突。通る時には息をとめないと幽霊が出ると噂のポプラの巨木。キアの通う小学校。知っている場所が次々と目に映る。


 毛玉を掴む指先に力がこもる。


「ど、どうしよう。とまらないよ、けだまちゃん!」

「もキュ……」


 リィンも何度か渡ったことのある橋が近づいてくる。いつもの時間には通学の小学生で賑わう橋も、夏休みに入ったばかりの土曜日となれば人通りは殆どなかった。犬の散歩をする老人が一人通りかかったが、老人は川を見て吠える犬を不思議に思うばかりで、橋の下に入りかけたリィンには気づかない。


 随分とゆっくりになった流れに乗って橋をくぐる。リィンは普段見ることのない橋の裏側を見上げた。薄い水色に塗られた、たくさんの鉄のかたまりが身を寄せ合ってそびえ、リィンの感嘆の声を何重にもこだまさせる。

 橋の影を抜けて、再び陽の下に出れば、水面に輪を描いていた水鳥達がリィンに驚いて飛び立った。


「わわわっ」


 何十羽もの羽ばたきの音が打ち鳴らされリィンの周りに響く。水鳥たちは全員で通じているみたいに空中で螺旋のひとかたまりとなって、あっという間に岸へと集合した。


「……すごいっ」


 くるくると変わるリィンの表情とは対照的に、二人を運ぶ流れは穏やかだ。

 また別の鳥が数羽、赤く長い足がとても目立ってリィンの気をひいた。


「じめんだ!」


 川の上を鳥が歩いているのだ。

 リィンは少しでもそこに近づこうと、水を蹴る足に力を込めた。だんだんと、周りの水が明るくなる。光に揺れる川底が見えてくる。


 石を集め中州を作った流れは、自然とリィンと毛玉を運んだ。中州はよくよく水に沈むのか草木は殆どなかった。鳥の足がつくくらいの、ほんの浅い水の下に砂利が積もっている。

 波に揺られてリィンは毛玉ごと砂利に乗り上げた。手をつき、力を込めれば肩が浮く。確かな手応えに迷いなく、けれど慎重にリィンは身を起こした。しばらくぶりの重力と水を吸った服の感触にぐっと全身が重くなる。


 毛玉は砂利に乗り上げたまま、動いていない。


「けだまちゃん?」


 返事がない。リィンは毛玉をゆさゆさと揺らした。小さくまんまるな目には瞼が下されて、大きくなった身体は水に濡れてぐったりとしている。


「ねてる?」


 ねているのなら、また流されてしまうかもしれない。リィンは手足を精一杯に使って、毛玉を引っ張った。水を吸った毛玉は、想像以上に重い。

 なんとか中州の真ん中あたりまできたリィンは、ぺたりと座り込んで岸を眺めた。緑一面の土手に、見慣れない色が混ざっている。


「……なんだろ?」


 みかん色のとても目立つ服を着た人たちが土手を越えてくる。


「ひとだ! いっぱいいるっ。けだまちゃん、ひとだよ。おきて! ひとがきたっ」


 毛むくじゃらの大きな塊を両手でゆする。声をかけて手を叩く。耳をそばだてる。返事がない。


「……けだまちゃん?」


 何かが変わっている。今少しの間にも。

 魔力のパスの感覚が少しずつ弱くなっている。この瞬間にも。弱くなる。小さくなる。また、弱くなる。

 残る魔力を渡そうとしても手応えがない。引っかかりさえなく、全てがすり抜けてゆく。


「だめ、けだまちゃん、だめ! おきて!」


 リィンは横たわる毛玉に覆いかぶさった。襲いくるものから守るように。抱きついて近くに触れてこの身から離さずに、ここから逃がさないように。


「けだまちゃん……けだまちゃんっ」


 ここまで一滴もこぼさなかった涙が、だくだくと溢れて止まらない。こぼれたしずくは濡れた茶色い毛に染み込んでは消えた。



 動かない毛玉、どこにも繋がらないじめん。

 止むことのない水の音。

 自分の息に、鳥と虫の声。

 毛玉は動かない。

 世界は――ずっと動いている。



「――――ン!」



「リィーーン!」



 遠く聞こえた声に、リィンはわずかに顔を上げた。初めて聞く、父の叫び声だった。


「あ、おとうさ……」


 ダレンが背の高い草が生い茂る土手を、ひとあしで飛び降りてきた。そのまま川に飛び込まんばかりの勢いで岸まで駆けると、服と同じ色のボートを川に浮かべていたみかん色の人たちに、三人がかりで取り押さえられる。


「おとーさん……、おとーさんっ。けだまちゃんが、けだまちゃんが!」


 再び聞こえたダレンの声はさっきよりも大きくなった。毛玉とのつながりは、もはや感じるのが難しいほどに小さい。


「おとうさ、もう……」


 呼びかけがまた聞こえる。

 川の水よりも冷たくなった毛玉にリィンは身を合わせた。ときおり中州をこえる波が、一人と一匹を優しくあらった。

 リィンは力なく、毛玉に全てを預けた。


「リィーーン!」

「リィンは、がんばったよ。でも、けだまちゃんはもう」


 低くうなる音が響いてくる。それがボートの音なのだと気がつくのに少しの時間がかかった。あのボートがここに着いたら、この冒険のおはなしはおわりなのだ。リィンは助かり、毛玉は助からない。


「起きるんだ、リィン! リィンは――!」

「おとーさん……」


 おまじないの力が、リィンの身体を巡った。少しの暖かさと、何でもできそうな感覚がじわりと湧いてくる。


 リィンは砂利に手をつき身を起こすと、毛玉の隣に寄り添うように座った。

 あれだけ膨らんでいた毛玉は少しずつ萎んでいるように見えた。撫でるたびに、束になった毛から水がじわりとこぼれる。何度も、何度も。どれだけリィンが水をのけても、新たな波が毛玉を濡らしてゆく。

 屈折が作る薄い薄い金色の光の網が幾重にも押し寄せて、草も木もない僅かなこのよすがを二度と同じ時はない一瞬の連なりに留めていた。


 波の元を辿れば、すぐそこまでボートが近づいている。毛玉をもう一度だけ撫でる。ぐっしょりと濡れたおさげを手で絞り、涙を振り払う。


「だいじょうぶ。リィンはつよいよ」


 みかん色のボートを迎えるべくリィンは立ち上がった。

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