宇宙〈そら〉に届く歌
あたりに仲間はいなかった。
彼はひとり羽ばたいた。ひとたび、ふたたび。地も空も、とめどなく過ぎてゆく。
山裾には低い木々が生い茂る。雪が消え去り全ての緑が我先にと息づいて日が長くなる頃、ここは紅色に染まり、騒がしい二本足が沢山やってくる。
小さい空の仲間は花の蜜を吸うが、彼は蜜よりも花に寄ってくる虫の方が好きだ。夏を迎えた今はその花も終わり、二本足もいない。
気流に乗り、勢いを増す。
春に花を咲かせる木々は途切れ、代わって地べたを這いつくばる緑が一面に広がる。そのちくちくとした細かい葉の間には、黒く艶やかな粒がたわわと実っていて、悪くない味がするのを彼は知っていた。小さな四本足や二本足も時々この実を集めにくる。
両の翼で宙を掴めば、全ては流れてゆく。
密に敷き詰められていた緑に黒く尖った岩が入り混じり、徐々に緑は押しやられ、食べる実のない草だけとなり、それも石と石の隙間に水溜りのように縮こまり、乾いた土に飲み込まれてゆく。
翼あるものに見える道筋は、今も彼を手招いていた。見やれば、地は土と岩に覆われ、生きるものの気配はない。険しさは増し、乾いた白い岩肌がそこかしこに覗く。その壁面からは、刺激的な匂いの蒸気が噴き出ていて、ときおり海側からの冷気が運ぶ霞に混ざる。
彼は注意深く、風の示す道筋に抗った。ここに迷い込んだ生きるものは、やがて動かなくなる。彼は自分のなすことをよくわかっていた。
斜め前方を見上げ、同じ側の翼を僅かに弛ませれば、くるりと地と空が入れ替わる。そのまま横滑りするように背で風を受けて勢いよく舞い上がる。
高く、高く。
新たな道筋に乗り、翼を広げる。
眼下に広がる山は、その身の半分を失った片割れのようだった。
抉れた斜面に赤茶と白の血肉をさらけ出し、今も癒えることのない傷から噴煙を上げ続けている。
風を切る音が増した。
火口原を越え、切り立つ尾根を越え、広がるのは一面の海。翼をすぼめ、ねじれた振り子のように宙を滑る。海食崖を駆け上る風に
左の翼でブルーグレイに凪ぐ海を、右の翼で荒々しく息づく山を。抱えながら尾根を縫う。海から吹く風が毒を押し流すのだ。尾根を境に蘇った緑が山肌を鮮やかに塗り分けて、所々にかかる霞を越えるたび、視界の端で波に散らされた日差しが弾けては瞬く。
海岸線を辿れば、湾に抱かれた向こうに半島の端が見える。遠く白く揺らめくのは無数にある二本足の巣だ。仲間は今日もあそこに行くのだろう。
高度を落とし、頂上に降り立つ。
二本足が積み上げた石の上、周囲全てを見張らせるこの場所は、彼に安堵と心地よさを与えてくれる。
くちばしで尾羽の付け根を手入れしていると土を踏む音が聞こえ、彼はくりくりと首を回した。
三匹の二本足が尾根の上を歩いてくる。子持ちのつがいだ。幼いのと雌は花の色の毛をしていて、雄は自分の羽根とよく似た毛をしている。もう一匹、初めて見る茶色いもの。これはよくわからない。
すぐに飛び立てる距離を保ちながら、彼のよく動く首は好奇心に抗えず茶色いふさふさを追いかけた。
「もっ! もっ」
「おかーさん、がんばって」
尾根には細く踏み固められた登山道があった。リィンは道を無視して四肢を縦横に使い岩をひょいと乗り越えると、リーシャの前に回って跳ねながら手を振る。
「悔しい。リィンでも登れる山を選んだはずなのに」
汗を拭いながら愚痴るリーシャの後ろを、毛玉がちょこちょことついてゆく。
「毛玉と同レベルってワケ?」
「もっ?」
リーシャは赤茶けた土に荒れた息を吐いた。買ったばかりの靴とのコントラストが眩しい。時間をかけて選んだ靴は街中で履き慣らしておいたのもあって痛みはない。お気に入りの色と確かなグリップが足裏から伝える感触に、気持ち身が軽くなる。
ひとつ大きく腕を振り、毛玉の前に一歩踏み出す。
「もっ、ももも!」
ペースをあげたリーシャを、左右に身体を揺らしながら毛玉が追いかける。一体あと何メートルか。リーシャは頂上を見上げた。
おさげを揺らすリィンの後ろ姿。その先には岩に浅く腰掛けて、片足が膝の上に乗るよう乱暴に足を組んでいるダレンが目に入る。視線は彼方の山々にあるようだ。
「そういうとこ……」
ぶつぶつと溢しながらサコッシュをまさぐり、使い捨てカメラを取り出して構えた。リィンを、立ち止まったリーシャを追い越す毛玉を、左手に広がる山々を、右手に見おろす海を。それからダレンを捉える。
リーシャが構図に気を利かせてフレームに収めたダレンは無駄に
ダレンは記録を残すことにまるで興味がないかのようだ。この山の麓で五月にあったアザレア祭りの時も、写真の殆どはリーシャが撮っている。かと思えば、ダレンはそれをこっそり焼き増ししてタイグの所に送っていたのだが。
頂上についたリィンから歓声があがり、リーシャはしまいかけていたカメラを戻した。更に一枚。
最後の一歩を踏みしめると、硫黄にまみれた灰の世界からは想像できなかった穏やかな台地が、遮るもののない空の下、控えめに広がっていた。数億年の火山活動で積み重ねられた奇岩がそこかしこに転がり、隙間に積もる灰の上には高山植物がせめぎ合う。
噴気噴き上げる火口原を見下ろし、その先へと見渡せば、外輪山が青々として連なる。
標高おおよそ六百メートル。決して高くはない。栄養に乏しい険しい環境が多様性を生み、健気に生きる彼らに安住の地を与えている。
「ふぅーーー」
達成感と開放感に、リーシャはただただ息を漏らした。ダレンの声が聞こえ、差し出されたお茶を受け取り、浴びるように飲む。
結局手にしたままだったカメラを岩場に置いてギターケースを下ろす。このままでは自分の写真がない。ダレンもリーシャの意図に気付いたのか目が合った。
カメラを渡そうとしたリーシャはふと思い留まった。毛玉と一緒になって、あちこち触れて見ているリィンを呼び止める。
「リィン、写真とってみる?」
「やるっ、リィンやる!」
やる気満々のリィンにカメラを手渡し、シャッターの位置を教えると、小さな手は思いの外しっかりと構造を確かめた。使い捨てカメラはまだある。多少の失敗は問題ない。全天から注ぐ光と澄んだ空気。固定されたシャッタースピードでも、感度にはありあまる余裕があるはずだ。
距離を取るリィンの後を毛玉が追う。それでは毛玉が写真に入らない。リーシャは毛玉を呼んで捕まえた。
ようやく場所を決めたらしいリィンは、カメラをぎゅうと顔におしつけてファインダーを覗いた。横にしてみて縦にしてみて、やっぱりやめて横にする。
掛け声もなにもなく、唐突にシャッターが切られ、二人と一匹の像はフィルムに焼き付けられた。
「おいしー!」
「もっ、もっ!」
「ダレンに任せたポテサラ、案外普通の味じゃない」
「素直に旨いって言えよ」
ポテサラを挟んだパンを選り好みして次々と摘むリーシャに思わず苦笑する。スレンダーな見た目からは想像が付きにくいが、リーシャは食べ応えのあるものを好む。リィンのお気に入りの具はたまごサラダのようだ。
ちょこんと座ってピクルスを器用にカリカリしている毛玉の後ろには、何か黒い影が見え隠れしている。一羽の――カラスが毛玉の毛を突いていた。
「おい、そいつ」
「ももっ!?」
ワンテンポ遅れて驚いた毛玉から、カラスは付かず離れずの距離を取った。くちばしの先に茶色い毛をつけたまま、首を傾げてつぶらな目で様子を伺っている。
両手をついて前のめりになったリィンとカラスが向かい合う。
「かわいー」
「近くで見ると意外と大きいのよね」
食べ物よりも毛玉に興味があるらしい。リーシャの言う通り、街中でこれほど近くでカラスを見ることはあまりない。ありふれた鳥だが、無警戒な個体は少ない。そのくせ、ずうずうしい。
硬質な色彩に支配された風景の中で、角度を変えるたび艶やかに青く光るこの一羽は、そんな連中とはまるで別種の鳥に見える。
いつの間にか、あれだけあったランチボックスの中身はもう空だ。リーシャは片付けを始め、リィンは最後に残ったミニトマトをカラスに与えている。カラスとはいえ、野生動物に餌を与えるのは褒められた行為ではないのだが。無邪気なリィンと毛玉を見ているうちに、注意するタイミングを逃してしまったことに気づく。
満足したのかカラスは飛び立ち、上空で大きな輪を描いた。
穏やかな時間が過ぎる。
海側からの少し湿った風は八月とは思えないほどに涼しい。
無意識のうちに触れていたイヤーカフを緩め、外した。鳥や鹿に熊やらと命溢れる山は遠く、海は遥か下、街は海岸線のずっと先だ。
リミッターを全て外してみても生きるものの気配は俺たちの他には微かで、肌を撫でる風の感触に、噴気の音さえ聞こえるのではないかと錯覚する。
僅かな霞もなく、感覚が晴れ渡る。
空気が震え、初めて聞く音で、聴き慣れたコードが響いた。
数千年の昔から続いていたと思えるかのようなイントロは、リィンの好きなエンディングの曲だ。
初めは探るように、すぐに羽ばたくように。リーシャは奏で、歌った。
さめ
こえ
こう
じくう
あても
とび つづ
とき
いま
かがや
いく せん
はてし
とび つづ
リィンの歌声も重なり、リーシャのストロークは激しさを増した。強く、純粋なコードの繰り返しが、この身を湧き立たせる。
俺は、彼方に向かって吠えた。
「
「
追いかけて、リィンと毛玉が叫ぶ。
孤独な山の頂から、声は飛び立つ。
「もーもー、もーもーー」
「うぉーおー、うぉーおーー」
気づけば、リーシャの演奏は止まっていた。
立ち上がり、瞬きすら忘れた眼差しで俺を見ている。少しだけ
「――ダレン」
一歩、近づいてきたそれに触れたなら、弾けてしまいそうな――
「あっ、そうじゃなくて。その、そこでシャウトが入るのはエンディングのは短いからで、本当は一回Bメロが入って……」
「そうなのか」
「もっ?」
「えっー、それリィンも知らない!」
落ち着きなく俯いて、リーシャは本を取り出した。ひどく折り癖がついたページを迷いなく開き、譜面を指差してこちらに向ける。
「だから、ここからもう一回」
リィンが譜面を覗き込んで、知ったばかりの歌詞を辿々しく読み上げれば、毛玉は歌が聞こえてるかのように身体を揺らし始める。
頷けば、リーシャはいっそう滑らかに音を響かせた。
見渡す限りの空を、俺たちの声は飛んだ。
リィンと毛玉ゴーレム 八軒 @neko-nyan-nyan
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