毛玉、電車に乗る

「リィンが、けだまちゃんの手ぇつなぐー」

「もっ?」

「この辺は人が多いからなぁ。悪い人が毛玉を引っ張っていったらどうする?」

「おとーさんが戦う」

「えぇ〜?」

「おとーさんが役に立たないなら、リィンが戦う!」

「そりゃ、勇敢なことで」


 ダレンはリィンの手をしっかりと握り直した。リィンの成長は目覚ましく、道路に突然飛び出すような時期はとうに過ぎているが、それでも街というのは神経をすり減らすものである。

 路面電車の停留所。通りのど真ん中に設けられた細い安全地帯で、二人と一匹は電車を待っていた。抱っこ紐でダレンに括られている毛玉に、道路を渡る人々は時々奇妙なものを見る視線を投げかけてゆく。毛玉は毛玉で、あるのかないのかわからない首をしきりに回している。

 何度目になるか、ダレンが時計を見直した時、駆動音を唸らせて電車が走ってきた。


「乗るっ」

「も、もっ!」


 耳に残る甲高い音を上げ、深緑色とクリーム色のツートンカラーの電車が止まる。扉が開くと、リィンが乗車口のステップを軽快に駆け上った。ふわりとワンピースの裾が舞う。

 深いブルーのベルベットの座席に、年季の入った板張りの床。出勤で混む時間帯は過ぎて車内は空いている。

 端に座ったリィンの隣、ダレンも腰を下ろす。よく通るベルが二度鳴り、電動機が唸りを上げて電車は再び走り出した。


 ダレンは暑さにうなだれた。座席に上がって窓に張りつこうとしているリィンのサンダルを脱がせ、抱っこ紐を外して自分とリィンの間に毛玉を座らせた。


 電車が速度を変えるたび、毛玉は前後左右にかっくんかっくんと揺れている。開いた窓から風が流れ込んで、ダレンの汗を冷やし、リィンの橙の髪がそよいだ。

 リィンのワンピースの多くは祖母が仕立てたものだ。今日のそれは、いかにも年配の女性が選びそうな大きな花柄だったが、リィンの小さな身体というキャンバスに嵌め込まれると、ダレンの目には不思議と洒落て見えた。


「おおー」

「どした?」

「しらないお店いっぱい」

「もっも、も!」

「リィンはこっち方面には乗ったこと無かったんだっけか」

「うん。みちのせかい」

「……お、おう。そうだな、世界は広いぞ」


 毛玉は大人しく座っている。リィンは流れる風景に夢中になっている。釣りがないように小銭は用意した。全てが上手く行っている事を確認して、ダレンは一息ついて天井を仰いだ。

 停留所を四つほど過ぎて、席はかなり埋まってきた。終点には市役所や多目的ホールがある。今乗っている乗客の殆どは終点まで行くのだろう。


「リィン。次の次で降りるから、座ってサンダルを履いてくれると、とーさんがハラハラしなくて嬉しいな……ほら、ハラハラハラハラ」

「わー、たいへんだ! リィン座るっ」

「っし。終点のひとつ前で降りるからな」

「わかった!」

「も、もっ」


 椅子に座ってから、リィンはじっと運転席を見つめていた。運転士は大きなレバーのようなものを動かしたりしている。がらがらと音をたてる運賃箱にリィンが気を取られているとベルが鳴った。停留所をひとつ越えたのだ。

 リィンがそわそわと腰を浮かしつつ尋ねる。


「おりるの次?」

「そうだぞ」


 ダレンが答えるなり、リィンは立ち上がって手を上げた。


「はーい! 次、おります!」

「もーっ! もっ!」


 毛玉も真似して手を上げる。両のヒレをぱたぱたとして、バンザイをしているようにしか見えない。降りる客がいることを確認したベルが鳴らされ、ダレンは上げかけた手を引っ込めた。

 いよいよ次の停留所が見えて来る。相変わらずうるさいブレーキ音を立てて電車は止まった。ダレンは毛玉を抱き、リィンを立たせて降り口へと急ぐ。運賃箱に運賃を入れ、あとは降りれば任務完了、とその時。リィンが声を上げた。


「リィンもやるっ」

「え? あ、いやリィンは五歳だから払わなくていいんだぞ?」

「六歳だもん」


 ダレンは冷や汗が出るのを感じながら、後ろを振り返った。終点で降りるのだろう乗客の、ちらちらとした視線が自分達に突き刺さる。


「……っ。六歳なら80ベルか」


 急いで財布から小銭を出して小さな手に握らせる。リィンは眉根を寄せて、真剣な顔で運賃箱に硬貨を投げ入れた。ガラガラガラ。音を立てて硬貨が消える。満足したリィンが降り口に向かった時、運転士が脇から手を出しつつダレンに声をかけた。


「かわいいですねー」

「あっ、はい。それはもう。お待たせしてすみません……」


 差し出された手の上には80ベル。運転士と待たせた乗客に頭を下げて、ダレンはリィンの後を追った。





 停留所を降りて電車通りから一本入ると、途端に人通りは少なくなる。ダレンは毛玉を下ろしてリィンの好きにさせた。毛玉と手を繋ぐリィンの後ろを、見守るように歩く。

 

「のどかわいたー」

「確かに」

「おとーさんも、のんだ方がいいよ。おかーさん言ってた。けだまちゃんものむ?」

「もっ?」

「ああ、日射病対策か。そこの商店で何か買うか」

「アイスのはこ、ある!」


 毛玉を引っ張って、リィンが駆けた先。アイスの箱とリィンが呼んだのは、上が空いている業務用のクーラーボックスだ。季節柄か、商店の入り口近くに出してあるそれには、透き通った不揃いの氷がぎっしりと詰め込まれ、サイダーやジュースの瓶が何本も刺してある。

 リィンは爪先立ちでクーラーボックスに身を乗り出すように覗き込むと、手を入れて掻き回した。


「リィン、これすき!」

「氷の方は売り物じゃねぇだろ……」

「もっっ」


 クーラーボックスに夢中になる二人と一匹。その後ろから、不意に男の声がかかった。


「こんにちは。ちょっとお時間宜しいですか」

「はい、俺っすか?」


 ダレンが振り返る。そこにいたのは二人組の警官だった。年配の方がダレンに問う。疑わしいものを見る目を隠そうともしていない。


「その子とは、どのようなご関係ですか?」

「父です」

「おとーさんは、おとーさんだよ!」

「ももーっ、もっ!」


 リィンはダレンの後ろに隠れつつ警官を睨みつけた。そのリィンの後ろからは毛玉がはみ出して、ひょこひょこしている。


「娘も、こう言っていますが?」

「子供の言うことですからねぇ。あなたが脅迫してそうさせている、という可能性もあります」

「……何を馬鹿な」


 若干の感情を乗せてダレンが反応したのを見て、警官は嫌らしく口角を上げた。リィンがぎゅっとダレンの足にしがみつく。


「失礼ですが、お仕事は? こんな時間に何をされているんです?」

「娘の魔力が急に発覚したので、休みを取って検査に来たんです。あとはこのゴーレムの登録も」

「もっ!」

「おとーさんだよっ」

「どうとでも言えますからねぇ。それに娘さん? とは全然似ていらっしゃらない。その格好もねぇ、全く男がじゃらじゃらとアクセサリーを着けて――」


 リィンは二度三度ダレンを呼んだが、まくし立てる警官の声に掻き消される。

 雰囲気が限界まで険悪になりかけたその時、ずっと黙っていた若い警官が一歩前に踏み出した。制しようとした年配警官を無視してダレンに会釈する。


「何か娘さんとの関係を証明できるものはお持ちですか?」

「保険証で良ければ……」


 ダレンが保険証を取り出して見せると、年配警官は舌打ちしながら手帳を開き、ペンを走らせた。

 その間、若手の方はダレンにちらちらと好奇の視線を向けている。気づいたダレンが薄く笑い返すと、若手警官ははっとして顔を背けた。


「この目が気になりますか?」

「……はい。すみません」

「南洋のエイヴィには、カロテノイドを変換する酵素を持つ種族がいて、彼らの血が入ると現れることのある形質なのだそうです」


 ダレンの微笑みは、そのぎこちなさとヒュムにはない鮮やかな朱の瞳のせいもあって、何かと警戒心を抱かせがちだ。

 だが、そのちょっと邪悪な雰囲気で知的な話を口にすると、妙にそれっぽく聞こえるところがある。


「お詳しいのですね」

「まぁ、自分のルーツが気になって、調べたもので。娘は全く似なかったのですが」

「おとーさんは似てないけど、おとーさんなんだよ!」


 ダレンの後ろに隠れるのをやめ、むんずと立って胸を張って堂々と似てないと言うリィンに、若手警官の目尻は下がった。

 年配警官の方は終始険悪な雰囲気だ。保険証は返してもらったが、一体何を手帳に書き込んでいたのか。ダレンには知る由もない。


「ご協力、ありがとうございました」

「見回り、ご苦労様です」


 ダレンが頭を下げると、リィンは口をへの字にしてますます不機嫌そうにする。二人と一匹は、なんとか何事もなく警官が立ち去るのを見送った。





「おまわりさん、きらい!」

「まぁ、彼らも仕事だからな。リィンが外で安心して遊べるのも彼らのおかげだ。それに――炙り出すなら、怒らせるのは手っ取り早い」

「ふーん?」


 リィンはわかったようなわかってないような顔をして、蛍光ピンクの透明なストローをくわえた。

 小さな口を窄ませて、ぷうと吸い込む。途中でハート型に曲げられたストローの中を、サイダーが勢いよく駆け登った。ストローはリィンを見て商店のおばちゃんがサービスしてくれたものだ。


「サイダーうまい」

「切り替えが早ぇえ。ついたぞ、ここだここ」

「おおー?」


 ――ライノット工房・指定一種魔系検査技師 6010号。そう記された控えめな看板が蔦に埋もれかけている。

 緑に囲まれた白い家。新しい冒険が待ちきれないとばかりに、生垣に沿ってリィンが駆け出した。

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