毛玉、真実を聞く

 深夜一時。


 小さな白熱灯ひとつに灯された室内は薄暗く、けれど柔らかく。平明な光の道筋は、天井に複雑な影を映している。

 ダレンはポットから湯を注ぎ茶を淹れた。置かれたカップは二つ。二つ目を前に手を止めた所で扉が開いた。そのまま、カップは茶で満たされた。


 ――無言。

 リーシャは、何の用なのか問うことも毒を吐くこともなかった。両の手のひらでカップを包んで、揺れる水面を見つめている。


「――俺は、ゲシュだ」


 リーシャの手元で、カップが音を立てた。続けて、小さなうめきが漏れる。淹れたての茶を指先に溢したのだ。


「もう一度、言う必要はあるか?」

「……いえ」

「聞きたいことは?」

「なにもかも」


 ダレンから手渡された布巾で溢した茶を拭きとると、リーシャは顔を上げた。互いに窺いつつ、視線が交わる。


「騙していたことを責めはしないんだな」

「それをして、何かの役に立つの?」


 数秒。ふっとほどけるようにダレンは苦笑した。


「全くだ。何から聞きたい?」

「何故、今日なの。あの毛玉と関係ある?」

「ある。毛玉はリィンの魔力で動いているんだ。それもかなりの」

「リィンの? 先民との子は魔力が強くなるって聞いてたから、驚きはしないけど。でも、ゲシュって……」


 口元に手を当て眉を寄せて、リーシャは思考に固まった。ちょっと待ってと茶を一口。口を潤して、ふうと諦めを含んだ息を吐く。


「悔しいけど、わからないことが多すぎる。リィンは大丈夫なの? ゲシュについても世間のイメージと違いすぎて。そこから説明して」

「ゲシュは、先民の一種族だ。エイヴィに似ているが巫力ではなく呪力を持つ。両親共に因子がなければ呪力は受け継がれないが、片親がゲシュなら魔力は強くなりやすい」

「……続けて」

「毛玉はイニティウム製の規格品で、危険性はない。魔力のパスも正常だ。ゲシュはその手のやつに敏感なんだ。パスとか呪とか。俺が見る限り、リィンに呪力はない。間違いなく人間だ」

「その言い方だと、ゲシュは人間ではないと聞こえるけど? ドワーフやエルフはもちろん、先民――エイヴィやダナティも人間よね」


 ダレンはその疑問にすぐに答えることはせず、俯きがちに左耳のイヤーカフにかりかりと触れた。ヒュムより気持ち尖った耳介にかかるそれは、透かし彫りが施された筒状のものだ。その様子は、傍目に見れば狩を失敗したあとの猫のようでもある。

 一瞬、リーシャはダレンを険しく睨んだが、すぐに視線を外して短いため息と共に肘をついた。


「リィンに何もないならそれでいい。それに今更、新しい事実が増えても、ダレンはダレンだし。エイヴィにしちゃ歌を歌わないと思ってた。ただ、馬鹿にしないで。はぐらかされてると思うと、イライラする」

「……そうか。なら、ゲシュの歌を理解してみるか?」


 ダレンは目を伏せて、深く息を吸って吐いた。イヤーカフを徐に外して、リーシャに向き直る。んっ、と一つ咳払いをし、腹の底から低く途切れ途切れにった。



 リーシャは口を半開きにきょとんとして、疑問と呆れを露わにしていた。だが、ダレンの言葉が終わると変化は急激に現れた。

 瞳孔は黒々と開き、鼓動は早く強く。腹の中がきゅうと締められる感触に震え、汗がじわりと滲んだ。突然、椅子が倒れ、リーシャは身を固くした。それが自分が立ったからだと理解した時には、既に三歩歩いていた。

 動悸が止まらない。胸に手を当て背を丸めて呼吸を荒くする。その間、何秒か。言いようのない感覚に叫びかけた時、背後から救いの声が訪れた。


「もういいぞ」


 言われるなり、リーシャは肩で息をしながら席に戻った。動悸は急速に収まりつつあった。椅子に座り、やけに乾いた喉を潤すために茶をあおる。


「……今のが呪?」

「ああ。俺とリーシャは縁が強いし、無理のない内容だから、相当強めに出たんじゃねぇか」

「さあ? 大したことないし」

「正直じゃねぇなぁ」

「うるさい」

「話を戻すと、人間かどうかはさ、人間の都合次第だ。ゲシュは長い間、討伐対象だった。多数派にとっては。僅かな生き残りは自治区という名の収容所で一生を終えるか、エイヴィに同化して息を潜めてる。まぁ、あとはお察しだ」


 イヤーカフを付け直しながら自嘲気味にダレンが言えば、リーシャは目元を歪ませて強く吐き捨てる。


「ばっかみたい。これしきのことで人間だとか人間じゃないとか。下らない。くっだらない。ほんと、もう……」


 切れ切れに、掠れて。最後は、聞き取れないほど小さな声。溶けるように、リーシャは腕に顔をうずめた。

 網戸の向こうから、蛙の声が響く。一匹が鳴くと、追うように二匹三匹と続き、一気に合唱が始まった。夜中とは思えない騒がしさの中で、今この部屋にだけは歌も言葉も無い。


 白熱灯の温かな光に透かされたリーシャの橙の髪は、リィンのそれよりも少し落ち着いた色だ。髪の色も目の色も、顔の作りも。リィンは母親似でダレンに少しも似ていない。

 金に透き通る橙を、ダレンはただ眺めている。


 俯くリーシャの向こう、部屋の隅で、寝室に繋がる扉がかすかに鳴った。はたとダレンが目を向ければ、空いた隙間から毛むくじゃらのヒレが飛び出した。次に頭がはみ出し、最後は腹で押しに押し、毛玉は居間へと転がり出た。

 とてとてと歩いてきた毛玉はダレンの手によって抵抗虚しく捕獲され、膝の上に乗せられた。よくよく洗った毛玉は、初めとは比べ物にならないほど密で柔らかだ。大きな手に撫でられて眠そうに鳴いている。


 二人と一匹は、夕食のあの時と等しい位置関係を作った。リーシャはいつのまにか顔を上げて、ダレンと毛玉が戯れる様を眩しそうに見ている。

 毛玉を撫でる手をふと止めて、独り言のようにダレンは呟いた。


「ゲシュはさ、人として生きようとするなら心を削るしかねぇんだ。強い言葉は使えない。命令や怒りは当然、褒めることさえも、何かの間違いで呪力が乗れば人を縛る」


 リーシャの瞳が、見開かれた。


 ずっと、晴れることのなかった霧が晴れたように。けれど、それは一瞬のことで、すぐに渾然たる衝動がリーシャを深く俯かせた。

 真夏だというのに、肩は震え、肌がざわつき、自分の腕が自分を抱きしめる。鎖となった両腕が何もかもを押し固め、拒絶の防御壁を作り上げて、ただ呻めき声だけが、そこから逃げ出すのだ。

 

 泥のような時間が過ぎて、リーシャはようやく、鎖と壁の内側から言葉を拾い上げた。


「最初は、随分と寛容な男だと思った。でも、時が経てば屈辱だった。何をやっても、上から目線で流された気がして。きっと、包丁で刺したって、この人は私に興味も持たない。私はダレンに傷ひとつ残せない。傷を残したくて、求めたわけじゃないのに」


 ひとしずくが溢れて、リーシャの頬を伝った。


「本当に何の興味もないのなら、心を削って人のふりをしてまで、リーシャと一緒になろうと思わねぇよ。ただ、俺も足りなかったよな。育児も家事も、もう色々と。いつも思ってる。リーシャはすげぇって」

「思ってるなら、もう少し行動で示して」

「……努力する」


 リーシャの言い方はいつもの調子を取り戻して、ほんのりときつい。けれど、自信なく答えたダレンに顔をしかめるでもなく、口元を僅かに緩めた。


「ねぇ」

「何だ?」

「ゲシュはどうやって子育てするわけ? ダレンの生みの親はゲシュだったんでしょ」


 ダレンは視線を逸らしてイヤーカフにかりかりと触れる。リーシャは、じっと答えを待った。


「ゲシュは呪に対する耐性がある。それに、強く叱ったり、強く褒めたりしなくても、子は育つ。対話をして、理を教える。そんな感じじゃねぇか? それだけじゃ足りないだろうし、あまり覚えてねぇが」

「そう。ゲシュが少し羨ましいかも」

「羨ましい?」


 怪訝な眼差しを向けるダレンに、リーシャは低く冷めた声で溢した。


「呪力がなくても、強い言葉を繰り返せば人は縛られる――」


 声は、積み重ねるたび、火の粉を散らして焼けてゆく。


「口を開けば、なぜできないの、いつやるの、いつできるの、そればかり。いざ答えれば、言い訳するな。ルールと確認。価値観の刷り込み。気づけば私も同じ。親の言葉は――今も私を縛ってる」


 天板に乗せられたリーシャの拳は、きつく握られていた。ダレンは押し黙った。口の裡で、何かになるはずだったものは混ざりあって消えて、少しの苦さだけが残っていた。

 毛玉が窮屈そうに鳴く。知らずと強く締め付けていたことに気づいて、ダレンは毛玉を抱く腕から力を抜いた。


「もっ、ももっ」

 

 目が覚めたのか、もごもごと動き出す毛玉を柔らかく抱き直す。席を立って一歩。突然の行為に戸惑うリーシャの膝の上に、毛玉を置いた。


「何のつもり?」

「……癒し?」

「ふざけないで」


 今にも泣き出しそうな声で言い返したリーシャに、ダレンはぎこちなく微かに笑った。

 何も言わず、リーシャは何度も何度も、毛玉を子供をあやすように撫でていた。

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