毛玉、洗われる
「ミィのトイレ掃除も餌もブラッシングも誰がやってた? 誰がかわいがってたと思ってるの。あんなに……」
「おかーさん、あのね、」
「リーシャ、聞いてくれ。こいつはゴーレムだ。しつけもいらない。検査はフィンが格安でやってくれる。届出も俺がやる。餌代も……殆どかからない」
「も、もも、もっ!」
「けだまちゃんは、ゴーレムだからうんこしないの!」
「食べてる時にうんことかやめなさい! 届出に行く? そんなの一日で終わるじゃない。そういう表面的なことだけやって、家事手伝ってまーすみたいなのが本当ムカつく。何も、わかってないっ」
リィンの母、リーシャは乱暴にカップをテーブルに置いた。耳をつく音が響き、カップの水面がぐるぐるんと揺れて水が溢れる。
びくん、とリィンは肩をすぼめた。
「必要なことは当然やると言っただけで、そんなつもりでは……」
「考えの浅さが見え見えだ、つってんの。で、この毛玉は何が出来るわけ? そこまで言うなら役に立つゴーレムなんでしょうね」
あまりの剣幕に、ダレンは思わず食べる手を止めて目を逸らす。
「……い、癒し?」
「ふざけないで! こんなに人をイラつかせておいて何が癒し?」
「……すまん」
「もっ……」
リィンの「ごちそうさまでした」は誰にも聞こえていなかったらしい。毛玉はダレンの膝の上でちょこんと座って、心なしかうつむいている。
「大体ね、そこにその毛玉がいるだけでホコリが出るわ、カビ臭いわ、ノミやダニだっているかもしれないじゃない。何も考えてないのがわかるわけ。どーすんのよ」
「いや、ゴーレムにノミはつかねぇだろ。ダニは……」
ダレンは毛玉の毛を何束か掻き分けて確認した。とりあえず、目に見えるような虫は見当たらない。
頭を掻かれた毛玉は、気持ちよさそうに、目を閉じた。
「それが人の話聞く態度? 質問に答えろ。どーするのかって聞いてんだよ」
「飯を食い終わったら、いつも通り父さんの所へ行ってリィンを風呂に入れる。ついでに毛玉を洗う。戻ってきたら部屋も掃除する。初めからそのつもりだった」
「なんで、そこまでわかってるなら、その毛玉を外に置いておかないわけ?」
「それは……」
ガチン!
リーシャがスプーンを空になった皿に投げつける。皿は割れはしなかったが、スプーンは甲高い音を立てて跳ね返り、低い放物線を描いてテーブルとダレンの横を飛び越すと、床に落ちて回転しながら部屋の隅まで滑ってようやく止まった。
リィンは椅子の上で膝を立て、腕で頭を抱えて守りを固めている。
ダレンが無言で席を立つ。飛んでいったスプーンを拾い、何事もなかったかのように戻る。
「怒るのはいい。俺に当たるのもまだいい。リィンの前でモノに当たらないでくれ。頼む」
――怒りも、憐憫も何もない。酷く乾いた声だった。スプーンを置いた音だけが、固く部屋に響く。
リーシャは置かれたスプーンをひったくるように奪い取った。その先が小刻みに震える。うつむけば、リィンによく似た橙の髪が垂れて影を落とす。強く食いしばった口の端が歪み、掠れた声を滲ませた。
「そうやって、怒りもしない。心に波風一つたてやしない。ダレン、あんたの目は、誰も見ていない」
「リーシャ……」
「もういい。早くリィンを風呂に連れて行って。言ったことをやって。早く」
一人残された家で、亡霊のごとく立ち上がる。光映さぬ眼差しで、リーシャは食後の片付けを始めた。
♦︎
懐中電灯で砂利道を照らすダレンの後ろを、リィンと毛玉がくっついて歩いてゆく。
祖父宅の勝手口が開かれると、暖かい白熱灯の光が暗闇に溢れ出して、吸い込まれるようにリィンが駆け込んだ。ダレンは土間の段差に毛玉を座らせて、リィンが脱ぎ飛ばしていったサンダルを摘んで揃える。
「おじーちゃん、おばーちゃん! リィンお風呂きた!」
「リィン、走ると危ないよ。滑るからね」
「わかった!」
家での様子が嘘のように、祖父母を見たリィンは元気を取り戻した。
勝手口を入ると台所。風呂は台所の一角に入り口がある。今、廊下に行く意味は全く無いが、リィンは風呂の前を通り過ぎて廊下を走っていた。
ダレンはデレッキを片手に風呂釜の下の蓋を開けた。ロストルの溝を掻き出すとボロボロと灰が落ちる。新鮮な空気を得て火は息を吹き返し、古い炭を灼熱に染めてゆく。上から追加の石炭を入れ平らに均せば、黒く艶のある真新しい石炭の隙間に、炎はほんのりと青い先端を覗かせた。
少しの間、ダレンは火を眺めていた。肌に熱を感じながら一つ大きく息を吐き、風呂釜の蓋を閉め土間を上がる。座らせておいた毛玉はいない。
「おっきいぬいぐるみだねぇ」
「けだまちゃんは、ぬいぐるみじゃないよ、ゴーレムなの」
「ゴーレムいうからには魔石を食うんかね」
「うーん、わかんない」
居間を覗くと、すっかり馴染んだ毛玉がお行儀よく座っていた。
「おい、リィン早く風呂入るぞ。毛玉もな」
「はぁい。けだまちゃん!」
「もっ?」
リィンは勢いよく服を脱ぎ、洗い場へと向かった。毛玉は入り口で立ち往生している。
「ん、毛玉はお湯が怖いのか?」
「も……もっ」
しゃーねぇなーと、ダレンは毛玉を持ち上げて洗い場のスノコの上に置いた。ブラシで毛玉の全身をくまなくとく。犬猫ほどでは無いが、抜け毛はあった。
それが終われば桶で湯をかける。毛玉はわたわたとしたが、逃げる様子はない。とうとう、リィンも一緒になって毛玉にお湯をかけ始めた。ふさふさの茶色い毛が濡れるたび、ぺたりとしぼんでゆく。
毛玉の急激な変化に、リィンが目を丸くする。
「けだまちゃん、すっごい細くなった……」
「なんかこういうフクロウがいたよな」
「もっ? ももっ?」
二人で毛玉に石鹸をこするものの、一向に泡立たない。お湯で流し、石鹸をこすり、もみ洗い。それを三回ほど繰り返して、ようやくふかふかと泡立ってきた。
「どんだけ汚れてたんだ。毛玉はやっとくから、リィンも自分の体を洗おうな」
「はぁい」
体を洗い、頭を洗い。一仕事終えた二人と一匹は、湯船に浸かった。
ダレンの向かいにリィン。間に毛玉。ここの風呂は、大柄なダレンが足を伸ばせるほどに広い。毛玉一匹が増えたところで、大した問題はなかった。
お湯の中で、毛玉はふわりとほどけて膨らむ。抜け毛は殆ど浮いてこない。
「リィンもさ、もう少しおねえさんになったら、一人で風呂入れないとな」
「えー、なんで?」
「なんでって……、色々世間体とかやべぇんだよ。リィンは恥ずかしいとかないのか?」
「んー、よくわかんない!」
大して考えてなさそうな顔で、リィンはすぐに答えた。毛玉がヒレをバタつかせて、水中で揺れている。
「俺には水着履かせるのに?」
「ちんちんときんたまがイヤ!」
「……はぁ」
リィンの作ったタオルのクラゲから、ぶくりと空気が飛び出した。毛玉がそれに驚いてしぶきをあげる。
「ももっ!」
「ねこちゃのきんたまは、ふさふさ。おとーさんのは、なんかイヤ」
「さいですか」
ダレンは、いつまでも泳ぎたがる一人と一匹を湯船から上がらせた。風呂場を出る前に、しっかりと水気を切る。問題は毛玉だった。手や手拭いで絞るにも限度がある。
「どうしたもんかな。洗濯機の脱水槽には入らねぇし……」
「あのね、犬みたいに、ぶぶぶぶってやるの」
言いながら、リィンは水を切る犬の真似をして、全身を右に左にと捻った。だが、全く速さが足りず水は飛ばない。毛玉がヒレを開いてリィンの真似をし始める。
「おっ? いけるかもしれねぇ。毛玉、もっと早くだ、早く!」
「もっ、ももももっ」
ダレンは毛玉の肩らしきあたりを掴み、左右にできる限りの速さで捻った。ガグガクと毛玉が揺れる。スピードが乗ってきたのを見て手を離すと、すでに何の助けもなく毛玉は振動していた。その勢いは止まることなく重ねて増してゆく。
「もももっ、ももももももも――!」
「けだまちゃんっ!」
「うおっ」
高まった遠心力で風呂場中に水滴が飛び散る。リィンとダレンは反射的に背を向けて身を伏せた。その間、数秒。毛玉の水気は殆ど抜け切っていた。
やっとのことで毛玉とリィンを先に上がらせたダレンは、強要されていた水着を脱いでもう一度体を洗った。全てが終われば風呂を掃除する。浮いた毛をすくい、桶とスノコの垢をしっかりと洗い流す。湯はまだ落とさない。風呂釜の火は、あと数時間持つだろう。
服を着て脱衣所を出る。懐中電灯の光が窓越しに見え、勝手口が開いた。リーシャだ。古い板張りの床がキシキシと鳴く。台所の電気は消えたままで、互いの顔もろくに見えない。
背後で、衣擦れが鳴った。
「大事な話がある。リィンが寝た後、待っている」
答えはなかった。ただ、水の音だけが響いていた。
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