毛玉、噴水で遊ぶ

 封筒は音を立てて破かれた。破き方が雑すぎたために便箋が斜めによじれたが、リーシャは気にするそぶりもない。

 白い便箋を開き、目を通す。

 読み終わるまで、僅か三秒。


「なんだったんだ?」

「果たし状」


 首を傾げるダレンに、便箋が差し出される。そこには、サインの他に文章らしきものは一行しかなかった。


 ――日曜に行く。孫を見せろ。 タイグ


 ダレンは微妙に口を開けたまま固まった。壊れたように五回は読み直し、書かれた内容が全く変わっていない事実を確かめて、便箋を裏返す。白紙だ。紙のふちを指で引っかく。一枚しかない。ひっくり返す。一行しかない。


「……日曜って明日なんですが?」

「それは大した問題じゃないけど」

「ないのかよ」

「勘当しといて、今更どの面って話。ずっと連絡の一つもなかったのに?」


 リーシャに抱かれている毛玉が揺れる。小麦粉をこねるようにリーシャの手が動く。ぐりぐりぐり。毛玉が短く鳴く。さらに激しくこねる。


「もっ、ももっ、ももももっ!」

「おいおぃ。毛玉が乱れるッ!」

「ダレンは悔しくないの? 先民と結婚など許さない、世間に申し訳が立たない、口に出すのもおぞましい差別用語まで」


 ダレンはソファーの上で片膝を抱え、息を吐いた。

 庭の方から、リィンの声が響いてくる。キアと言ったか。ゲイリーの所の下の子と、栗の木に登っているらしい。

 

「そりゃ、悔しくないかで言ったら悔しいな」

「腹立つ。絶対、家には入れたくない。こんな家に住んでて恥ずかしくないのか、やっぱり無理じゃないか、金に困ってるんだろうとか。想像つくわけ」

「もっ……もっ、もももっ」

「ここが好きなのに。貯金だって出来てる。リィンがもう少し大きくなったら、また働けるし。そしたらダレンがやりたがってた増築して、庭だって綺麗にして……」


 苛立ちは物理エネルギーとなり、毛玉のやわらかな腹の毛に吸収された。

 弄りすぎたことにリーシャも気づいて、毛並みの方向に撫で直す。腹の毛はふわりと元に戻った。


「それにしても、なんで今なの……」


 リーシャは、片膝を立てたまま目も合わせずに黙っているダレンをじっと見た。膝の上に乗せた腕が邪魔をして、表情はよく見えない。


「ダレン?」


 呼びかけると、耳だけがぴくりと反応する。聞こえているのだ。突いてやろうかとリーシャは腕を伸ばしかけたが、すんでのところでダレンの口元が動いた。


「悔しいから、リィンの写真をこっそり焼き増しして、リーシャの親父さんに送ってたんだ。何度か。勝手にやってすまん」


 勢いよく身を起こして、リーシャはダレンに詰め寄った。弾き出された毛玉が床に滑り落ちる。


「……いつから?」

「最初はリィンが走り始めた頃で、最後は……アザレア祭りだから、二ヶ月前か」

「もももっ!」

「そう」


 あっさりとした返しに、ダレンは驚きを隠せずにリーシャを見た。

 リーシャは何もなかったかのように、毛玉を床から抱き起こした。脇の下に手を入れると、少しだけ縦に伸びる。


「死ぬまでこのままって訳にもいかないし。いい機会なのかも。……りがとう、ダレン」

「……ッ?!」

「でも、家に呼ぶのはまだ無し。ダレンが貰ってきた、わくわくステーキのタダ券があるじゃない。それで食べに行くなら。たまたまタダ券が人数分あるから誘うだけ、わかる?」

「あっ、はい……」


 ダレンはこくこくと頷いた。

 肉の力は偉大だ。きっと何とかなるに違いない。ジャスパーとの数奇な再会に感謝しつつ、たった今考えた肉の神にダレンは祈った。



♦︎



 市役所や多目的ホールを中心とした辺り一帯は人通りで賑わっていた。ショッピングセンターや植物園も近く、日曜ともなれば家族連れも多く見かける。

 噴水を囲む、石造りのベンチにダレンとリーシャは座っていた。水飛沫が霧となって西日に照らされた一面を程よく冷やしてゆく。リィンは水面を手のひらで回し、水をすくっては向こうに跳ね上げて甲高い声を上げ、ほんのりと濡れた毛玉は身体を震わせた。

 足元には、人馴れしすぎた鳩が寄ってたかって物欲しそうに歩いている。食わせるものもなく、リーシャは冷めた目をして足先で適当に鳩をあしらった。


「私はあまり話す気はないから。電話しただけで活力を全部使った気分」

「リーシャはよくやったさ。肉食って補充してればいい。正直、俺もそうしたい」

「……そうする。肉に罪はないし」


 ダレンは脚を組み直し、鳩を眺めた。鳩の首周りの緑と紫に揺れる色彩は、多くの鳥に見られるのと同じく構造色によるものだ。それはエイヴィの髪も同じで、彼らを――特に真民が「カラス」だの「ハト」だのと呼ぶのは、よほど親しい間柄でない限り侮蔑の意図が濃い。少し古い、言葉の感覚ではあるが。

 自嘲するのはいつも容易だった。青く光る黒髪も、低く荒れて甘さも艶やかさにも乏しい声も、歌を歌えないこの身も。カラスと呼ばれるのにこれ程ふさわしい男はそうそういるまい。しかもその子は光り物を集めるのが趣味ときている。この朱い目は、カラスではなくハトのものだが。

 もっとも、エイヴィの間には声や見目を褒める慣用句に鳥を擬えたものがいくつも残る。カラスの羽色は、控えめで秘めた美しさの喩えともなる。文化による解像度の違いだ。カラスの羽根が青く光ることなど、どれだけの真民が気づいているのか。

 見え方などそのようなものだ。エイヴィには四色型色覚の者が時々いて、彼らにはカラスはまた異なって見えるのだと聞く。



 時計を見る。待ち合わせより十五分前。視覚を遮断してえにしの感覚に集中する。


 少なくとも近くにジャスパーはいない。わくわくステーキの元祖一号店はこのすぐ近くにあるが、本社は首都に、ジャスパーの住む社長の別宅はここから汽車で二十分ほど先の町にある。ジャスパーは大抵の時間をそこで穏やかに過ごしているらしい。

 あのあたりには遠浅の浜がある。今頃は海水浴で賑わっていることだろう。


 耳に指をかけ、イヤーカフを緩める。

 行き交う人々の声は意味をなさない雑音となり、全てを溶かした水の音だけでこの場が満たされてゆく。すぐそばに、縁の強い二人。隣に毛玉の感触。更に小さな存在を拾い上げる。鳩が一、二、三――乱れる。

 縁はまだ薄いが、他人ではない感覚だ。一度会っている。


 ――覚えた。

 必要とあらば、いつでも繋げられる。

 瞼をあげて、イヤーカフを戻す。

 

 長い影が鳩の群れを割った。一羽、また一羽。次々と羽音を立てて飛び立つ。影の元を辿れば、岩の如き初老の男が立っていた。

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