毛玉、いい夢を見る

「ただいー……?」


 ダレンが玄関から居間に入ると、かつてはミィのトイレが置いてあった場所に樹脂のケースが置かれていた。中に砂はないが臭くもない。甘い香りのする球形のつやつやした何かが何個か転がっている。


「……なんだ?」


 かがみ込んでよく見ようとしたダレンの横から、リィンが走り込んできた。


「わーー! それけだまちゃんのうんこ!」

「ああ、なるほど」

「ゴーレムはうんこするんだよっ」

「へぇー。驚きの新情報だな」


 大袈裟に驚いてみせた後、居間を見回すと、当の毛玉はお腹を上にしてソファーに転がっていた。腹の毛が微妙に上下して、こころなしかぷっくりしている。


「けだまちゃんが、おとーさんのごはん食べちゃった」

「全部?」

「半分くらい」


 いわゆる、へそ天と呼ばれる姿勢だ。

 毛玉をそっとソファーの端に寄せ、週刊誌を読んでいるリーシャの隣に腰を下ろした。


「おかえり」

「すまん、どうしても会っておきたい人だった」

「命の恩人なんてフレーズ、現実で初めて聞いたし。どんな人?」


 一枚の名刺を取り出してリーシャに見せる。厚さ1ミリを超えるコットン紙に、しっかりとデボスされて刻まれた文字。側面は孔雀貝のような箔で加工されている。


「すっご。これ、一枚150ベルはかかってそう。学生の時、古臭い印刷屋でバイトしたんだけど、たまにこういう名刺を作る人が来るの」

「ああ。先生はすごい人だ」

「執事って名刺あるんだ……」


 貴重品を扱うかのように、リーシャの指が名刺を裏返した。裏面には連絡先などが印刷されている。


「わくわくステーキ。先生って?」

「先生はNGOで人道支援やってたんだ」

「お医者様なのね」

「……ダナティだ。太古の血筋の」


 リーシャは驚きで声を上げて顔を合わせた。


「はぁっ? なんでそんな人がダレンの知り合いなの?」

「命の恩人だって言ったろ?」

「それはそう、なんだけど……」


 リィンはいつのまにか、毛玉とソファーの背もたれの間に挟まって寝ている。


「寝かせてくる」




 リィンの次に毛玉も運ぶ。

 毛玉を引っ張りながら寝言を言うリィンを見下ろしつつ、常夜灯を切り替えた。

 ベットサイドには小ぶりな皿。上にはリィンのお気に入りの石が並んでいる。真ん中に置かれた人工魂魄の核は、常夜灯の光で淡く輝いていた。

 夏用の布団は薄く、リィンによく蹴飛ばされてしまうが、毛玉がいれば寝冷えしないで済むかもしれないと若干の期待をかける。

 居間に戻ると、リーシャが週刊誌を広げてこちらに向けた。


「ほら、こういうやつ」


 リーシャが指差した記事を覗く。たまに名を聞く某国の独裁者が神術で蘇生を受けたのではないかという内容だ。教会は関与を否定している。替え玉説もあるらしい。


「それを記事にするセンスはともかく、神術については然程間違ってもいねぇな。蘇生が使えるほど古い血のダナティは限られてる」

「ちょっと考えればわかる。飼い殺しにされそう」

「ああ。教会も血の維持のために必死だ。だから、先生は世俗を離れてあちこち飛び回っていたんだ」


 医師団のようなNGO団体は中立を謳っているし、実際に限りなくそのように運営されている。手出しをしたとなれば批判は免れない。活躍の場の多くは渡航制限がかかるような土地だ。追いかけるにも難儀するだろう。

 ゆったりとソファーに身を任せて瞼を閉じる。今日のこと、ジャスパーのことを思えば言葉にするのは難しいが、穏やかにはなれる。


「先生はさ、今の雇い主には顔がいいって理由だけでスカウトされたらしい。神術を求められたことさえ無いんだと」

「わくわくステーキの社長?」

「そうそう。知ってるのか?」

「たまに週刊誌に出てる。好き嫌いのはっきり分かれる人物ね。募金が趣味で気持ちがいいから募金すると公言してる。ちなみに私は好きな方。やらない善よりやる偽善でしょ」


 言い切ったリーシャは席を立って台所に向かった。

 わくわくステーキの社長についてジャスパーは多くを語らなかったが、教会の追っかけを弾く後ろ盾になっているのだ。大した人物に違いない。


「来年にはメルジアに行くらしい。しばらく戻らないそうだから、何の導きか二十年ぶりに逢えたのは運が良かった。また近いうちに会う約束をしたから、そのときは遅くなる」


 台所の方から、レモンとミントの香りが弾けて、カラカラと氷を混ぜる音がした。


「別に、朝帰りくらいしてもいいのに」

「マジっすか」

「そういうので、ダレンを縛ったことはないはずだけど? ダレンが勝手に出不精なだけじゃない」


 言われてみればその通りで、全く反論できない。自嘲が漏れる。

 台所の電気が消えて、グラスを持ったリーシャが戻ってきた。


「先生の話をするダレンは本当に楽しそうだし、気にならないといえば嘘だけど。妬くというよりは仲間になりたいって感じ」


 微かな笑みと共に差し出されたグラスの、周囲に張り付いた水滴に指が吸い付く感触と、手のひらまで登ってくるレモネードの冷たさ。空気だらけの氷と安っぽい照明が作り出すコースティクス――リーシャとの少しの距離はグラス一つで接続されて、すぐに離れた。


 家族全員がこれ以上ごちゃごちゃと家具が増えるのを嫌ったため、ソファーの前にテーブルはない。つまり、ここで飲み物を飲むには手で持っておく他ない。どうしても必要な時にはスツールがテーブル代わりだ。

 リーシャがこめかみに指を当てている。冷えたレモネードを一気に飲みすぎたらしい。


「神術って庶民には縁がないじゃない」

「俺はあったが」

「一般的な話。まあだから、あまり詳しくないわけ。蘇生と治療って何か違うの?」

「何も違わない。魂なんてないからな。物理的に生存可能な状態に修復できるなら蘇生したことになる」

「それって……」


 リーシャは軽く怯えを浮かべて、視線をグラスに落とした。


「遺伝子を参照できる外科みてぇなものだ。脳を再生しても積み重ねたものは戻らねぇし、使い手の美意識で結果が変わることもある。生命活動を止めた肉体は急速に劣化する――蘇生と周りが騒ぐ程の大規模な修復ができるかは、単に対価が払えるかどうかだ」

「グヴァタ王の伝説って割と本当だったり」

「今もどこかにグヴァタ王はいる。かもしれない。例の独裁者とか」


 グヴァタ王は多くのダナティを死に追いやったことで知られる古代の人物だ。若返りを繰り返したために最後は蠢く肉塊になったとも言われ、古典的ホラーの題材としても根強い人気がある。

 対価が払える神術の使い手を捕まえられるなら、理屈としては若返りを繰り返すことで永遠の命を得られる。だが、神術で再生された肉体は神術を受けにくくなる。繰り返せば、癌のようにエラーも増え、対価は跳ね上がる。対価は使い手の寿命であるから、どこかで限界は来る。


「普通のダナティは腕一本の再生だって、そうそうやらない。自身に欠損があるのに、金の為に他人に神術を使ったなんて話もあるくらいだ」

「ダナティに生まれただけで勝ち組とか言うヒュムは多いけど。実際は……」

「勝ち組と言いたい奴の気持ちはわからなくもねぇが、先生のような生き方は俺には到底無理だな」


 古い血筋のダナティの寿命は千年を超える。何もしなければ。同じ先民でも、エイヴィは長くとも百七十年かそこらだ。

 グラスの中身を口に含む。ミントが香るレモネードは、ジャスパーと食った肉を収めた腹にすっと染み渡った。

 重くなりかけた空気を仕切り直すように、リーシャが問いかける。


「ダレンの話も聞かせて。先生とはどこで?」


 少しの逡巡。

 気づけばイヤーカフに指が触れる。

 いつか、話すことか。


「ルガリア。国としては、分割されてもう無い」


 ちりちりと、思い出したかのように虫が鈴を奏で、溶け始めた氷が呼応する。


「ごめんなさい。授業で少し触れたくらいしか知らない」

「そんなものだ。俺も、あまり覚えていない」


 リーシャの瞳が揺れた。淡い緑の虹彩に、空の青と地の色が混ざる。ほんの限られた空間に広がる光の振る舞いは、無数の生命が息づく浅瀬を思わせた。


「――南の、澄んだ海のある所だ」

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