毛玉、ダレンの帰りを待つ
「――!」
キャスターのついた椅子が勢いよく弾き出され、後ろの机に当たる。ダレンは知らずと立ち上がっていた。
「オライリーさん?」
同僚に呼ばれてダレンは思い出した。ここは職場で、目の前にあるのは大きな机で広げられているのは第二原図で奥には製図用のインクが置かれている。
幸い、インクは溢れてはいなかった。去年、インクを溢してショックで倒れて救急車を呼ばれた奴がいたので、第二原図とはいえ洒落にならない。思わず、心臓の位置に手を当てて文字通り胸を撫で下ろした。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ……」
同僚が疑いの目で見上げてくる。
視線から逃げるように壁の時計に目をやった。終業五分前だ。
「ルー建設に忘れ物したの思い出した。こっそり、タイムカード、押しておいて。すまん、頼んだ」
「――えっ、はい。いいですよ。そんなこと頼むなんて珍しいですね」
忘れ物なら五分待ってから取りに行ってもいいのに、と同僚が気づいた時にはもうダレンは外に出ていた。
階段を殆ど飛び降り、通りに駆け出したダレンは強烈な違和感の源流を追った。近づくほどに確信は増した。もう一人の自分がいるかのような感覚。繋がりのパスを辿ると、その背中が見えた。
――絹鼠の長い髪。
背はこんなもんだったろうか。違う。俺の方が高くなったのだ。
「……っ、ジャスパー先生!」
振り返ったその姿は、薄らと残る二十二年前の記憶と重なり合った。
ダレンの様子を見て、ジャスパーはすぐそこに腰を下ろさせた。公園のベンチですらない、資材置き場の切り石の上だ。
先日は雨。ジャスパーの肩にかかる、裾の長い透けるような織物のジレが泥で汚れる。
「辛そうですね。私の方で何かできれば良いのですが」
「ゲシュは、神術で蘇生すると……気が狂う、悪魔に違いないとは、昔の連中も上手いことを……」
ダレンの口元が自虐的な強がりに歪んだ。背を丸め、眉間に指をあてる。筋肉質で骨張った長い指が、ジャスパーの視線から目元を隠した。
冷淡にも聞こえる声が隣で事実を述べる。
「呪を繋ぐための知覚が誤認識で暴走するからだと聞いています」
ジャスパーはそれ以上何も言わず、ただ待った。二度、深呼吸を繰り返したダレンが身を起こす。
再会して初めてはっきりと顔を見せたダレンに、ジャスパーは殆ど表情を変えず黙って頷いた。
「自分の外に自分がいて、繋がっているような感覚です。気を緩めると自己が曖昧になるんです。俺の命は、殆ど先生に分けてもらったものなので」
沈みかけた日差しが横合いからジャスパーの長い睫毛を照らして、繊細な影を肌に映した。無色に近い髪も波長の長い光に透かされ、輪郭だけが燃えるように色づいている。
死ぬ前に話したあの頃と変わらないジャスパーの佇まいは、過去から現在までのダレンの連続性を少しだけ確かなものにした。
「呪の応用で軽減できますが、俺がこう混同して認識しているのと耐性のある自分にかける都合、先生にも……ちょっと離れてやってきますんで」
「ここで、かまいませんよ。呪には慣れています」
「マジっすか……」
口調を崩したダレンへと溢れるように浮かんだジャスパーの笑みは、過去の記憶の中には見つからないものだった。
驚きは、上手くいく確信となって染み渡った。イヤーカフを緩めて、自然体で
「ジャスパー先生はジャスパー先生で、俺は俺だ」
澄んだスープを味わうかのように、ジャスパーは目を閉じた。
一匹の虫の囀りが、静寂を追いかけ塗り替えてゆく。
「素晴らしい。心地良ささえ感じます。エイヴィの鼓舞だと言われても違和感がないくらいです」
積み上げられた石材、雑草の生い茂る空き地、古くからの家。家庭菜園というには広過ぎる畑。そのいくつか向こうには街へと向かう光が流れている。
藤色に滲んだ雲に沿って振り返れば、いち早く影の中に沈んだ山の麓へと鳥の群れが飛び立つ。天頂は既に青く暗く。山に近いここからは、灯りで縁取られた街が弧を描いて海と接しているのが見渡せる。
これまで感じたことがない程に穏やかで、けれど力強い呪は、狭窄していたダレンの知覚を解き放した。
「二、三時間持つかと。まぁ、二十年以上、エイヴィとしてやってきたので。歌は呪が乗り過ぎて暴れるので無理ですが」
「二十年。ダレンもこんなに大きくなるわけですね」
「今じゃ、ヒュムの女性と結ばれて、五歳の娘がいます」
若干のこそばゆさに冗談めかして言ったにも関わらず、ジャスパーは淡々と相槌を打っただけだった。
「もっと驚くと思ったのですが……」
「ええ。驚き過ぎて、固まってしまいました」
元々表情に乏しいジャスパーがそう言うのなら、その通りなのだろう。
ダレンは姿勢を崩して、遠く群青に沈みかけている街の灯りを眺めた。
「先生は、今でも医師団の活動を?」
「十年以上前に退きました。ライノットが残した縁でこの国に居着いて、今は執事の真似事をしています」
「しつ……? 執事、ですか?」
「ええ」
突拍子もない単語が飛び出してきたせいで、ダレンは辿々しく聞き返した。帰ってきた肯定にジャスパーの顔を二度見する。真顔だ。
「太古の血筋のダナティを執事に雇うなんて、とんだ道楽じゃないですか」
「だからですよ。道楽に助けられているのです。採用の理由は見た目だそうです。政治的意図は絡んでおらず、血筋を問われたこともありません」
「そりゃ、すごい」
「独立し中立である、という意味では医師団は完璧でした。ですが、ダレンも覚えているはずです。医師団の赴く土地では、選ぶことから逃れられません」
ダレンは目を見開いた。
夜はここまで訪れて、ジャスパーの絹鼠の髪をも群青に溶かそうとしている。
腰掛けている切り石の感触と砂と泥に汚れた地面、なによりもジャスパーの姿と声は、覚えているはずだという記憶を掘り起こした。
「一日に何十人と助けられる科学の医者でも、精神を病む者がいます。どんなに助けても外には何十人、何百人と選ばれなかった者が並ぶ。そして死ぬ。私たちは助ける為に、医学の価値を信じて、彼らを追い出さなければならない。数を救うのなら、神術の出る幕はありません」
青い影の中で、ジャスパーは空を仰いだ。
緯度こそ違えど、見える星の殆どは変わらない。
「私の心が耐えられなかったから、逃げたと言った方が早いですね」
天に向かって放たれたその声は虫の歌に、その身は薄暮に溶けてゆく。
遠くまばらに立つ裸電球の街灯が通電して、消えかけていたジャスパーを仄かに照らした。
「逃げてなどいるものか。若いゲシュ一人を蘇生するのに、どれだけ削ったのか。似たような真似を何度繰り返したのか。その覚悟を思えば――」
「まだ、あなたの倍は生きるつもりです」
ダレンの声は震え、そこからは音にもならなかった。
草に棲む虫のざわめきがうねりとなって、幾重にも重ねて潮騒をひろげてゆく。海は街の灯の向こう、曖昧となった空とこの星の境目に浮かぶ
「ダレン、目が赤いですよ」
「俺は元々――」
「そうではなくて、拭いてください。こんなでは、何かあったのかと思われてしまいます。どこか食事に行きませんか?」
立ち上がったジャスパーは、ダレンにハンカチーフを差し出した。控えめな艶のある、リネンの柔らかさが指に触れた。
「それは是非。ああ、でも家に電話しねぇとやべぇな」
「ヒュムの女性と結ばれるのは、どのような感じなのでしょう。その辺の話も詳しく訊きたいですしね」
二人は、人の営みの灯りが集う方へと歩き始めた。
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