毛玉、川に浮く
慣れ親しんだ流れに、リィンはそろりと足を浸した。冷たさに身を固くしたのは一瞬。二歩目を踏み締めるときには服の裾が濡れるのもそのままに、足先は水を掻いで澄んだ水を跳ね上げた。次に手のひらで切るように。力強く。
無数のしぶきと薄膜が少年に向かって翼となって飛んでゆく。
リィンがあげた声を、キアが追いかける。
弧を描いている川のふちには、長い年月をかけて運ばれてきた石が積もりに積もる。穏やかな浅瀬はリィンの絶好の狩場だ。
止むことのないせせらぎの騒めきを映して水面は細かく波打つ。光は散らされ集められて、水底に揺らめく糸を幾重にも渡している。
白っぽいもの。えんじ色でなめらかなもの。リィンの視線は忙しなく水底の石たちを巡った。
一つを掴み、手のひらの中でころころと回してみる。よもぎを入れたお菓子によく似た深い緑色が艶めいた。
けれど、それはほんの一分も持たない。
容赦のない夏の日差しは、小石から水の膜という衣を剥がしてしまう。裸にされた石は途端にみずぼらしい色をリィンの前にさらけ出した。
「むー」
リィンは緑の小石をもう一度水に浸けてみたのち、ぽいっと落して川の中に返した。
次に目をつけたのは、橙色をした指の先ほどの粒だ。水の勢いで逃がさないよう、そうっと掬う。しゃがみ込んでさざなみの中で手のひらを揺らせば、地味な石たちの中から鮮やかな一粒が迷い出てきた。
二本の指でつまみ、陽の光に透かす。中にはほんのりと赤い縞が浮かんでいる。
「あっ」
すぐに、水は石の表面から干上がり始めた。リィンは息を止めて待つ。潤いと乾燥の作る境界線のこちらと向こうで、石の鮮やかさは少しだけ失われていたけれど、そこには蜂蜜色を帯びた夏の空の輝きが溢れている。
「とうめいだ!」
リィンの歓喜の声に駆け寄ってきたキアが、石を摘んだ指の先を覗き込む。
「めのうだな」
「めのうかー」
リィンの声のトーンはあからさまに一段落ちた。めのうはありふれた石なのだ。リィンでもその名を覚えてしまうほどに。キアはリィンの足元、揺れる川底を見つめた。そうそうレアな石は落ちてはいない。
「でも、キレーなやつだ。仲間に入れとけよ」
「……うん! とうめいは、とくべつ」
二人の声は川のせせらぎに溶けてゆく。
毛玉は、大きな石で囲われた一角にぷかぷかと浮いていた。子供たちが魚を追い込むのに作ったそこは、毛玉のためにあつらえたかのようだ。ときおり石を超えてくる穏やかな波に気ままに揺すられている。
初めてリィンの家にきたあの日、風呂の水にさえ恐る恐るだった毛玉も、今ではすっかり水のとりこだ。
「ねーな」
キアは水面から顔を上げ、投げやりにこぼした。リィンは変わらず石を探している。こういうときのリィンの集中力は自分には真似できそうもない。声をかけなければ一時間でもああしているだろう。
「……使うか」
軽く屈み込み、片手をそっと下ろす。手のひらはすぐに川底につき、捲り上げた服の裾が濡れる。どうせ乾く、そうは知っていても気は逸れる。「キアは細かい事気にしすぎ」とは姉の言だが、自分に言わせればオヤジとねぇちゃんがガサツすぎるのだ。
背中を立ち上る感覚に集中すれば、魔力はじわりと半身を巡った。目を閉じて、息を吐く。照りつける日差しと水の冷たさの対比が一層鋭く感じられ、はらはらと魔力が散る。逃げるそれを束ねるように。こよりをよじるように、水の底についた手のひらへ。
俗に言う探査系。内功系の身体強化とは対極にある形質ゆえに、この特性を持つものは身体強化が著しく苦手だ。
クラスの女子によれば、術の特性は性格とも関係しているらしい――この手の性格占いにキアはゾワっとくる。
術の発動には、物語のように詠唱や決め台詞は必要ない。
キアは知っている虫を何匹か脳裏に描いた。魔力が実際にその形をとるわけではない。魔力を道具や生き物にたとえるのは、感覚を身体に覚えさせたい初級者にとって定番のやり方だからだ。
「クモは泳げねぇか。ぇと、とにかく、はやくて、つよくて、目がいいやつ!」
獲物を追い力強く宙を切って飛ぶトンボを思い浮かべた瞬間、キアの術は発動した。音も、光も何もない。何かした事は本人にしかわからない。親にだってバレたことはないし、カンニングだってやろうと思えばできる。少なくともキアはそう思っている。
自分の延長となり飛び立った魔力が、脳をくすぐる。その感覚は例えキアでなくとも言葉にするのは難しいだろう。視覚を取り込むというのがどのような感触なのか、目が見えている者が盲人に説明するのは難しいように。
ノイズにまみれた情報をふるい分けるのは自分自身しかいない。探査の特性は、ありふれた少年を年齢よりも大人びたものに見せる。
術はことのほか上手くいったらしい。
魔力に導かれ、水を掻く足取りは軽くなる。
ここに来る前に、リィンとビデオを見たのもあって、キアはゴールデンファントムのワンシーンを思い出していた。エルシェラ姫は自分と同じ探査系の特性を持つ。キラキラした姫に自分を重ねるのは歯痒かったが、あの言葉そのものは心に響く。かっこいいし、大きな変化が自分にもいつか訪れる気がするから。
遠くをみすえれば、どうしてか鼻の奥がほんのりと熱くなる。術のもたらす認知の広がりは知らずと高揚に。高鳴りは声となる。
「――術は、神から答えを教わるんじゃない。自分の意思が世界をめぐる。わた――オレの想いが
ざばり。
天を差した指先から水滴がこぼれ落ちる。キメポーズを作ったキアの術は当然のように途切れ、言い淀むことなく放たれた台詞は川の騒めきに負けずとあたりに響いた。
「わー! キア、ひめの真似うまいっ」
リィンが小さく飛び跳ねて手を叩く。我に返ったキアは、目を輝かせる幼なじみから思わず顔を逸らした。
「こえも似てるー」
「ねぇよ。姫は女だろ」
「えー。じゃあ、ファントムごっこするかららキアはひめね」
「はぇ?」
間抜けな顔を浮かべたキアをよそに、ふんふんと鼻を鳴らしながらリィンは隣に並んだ。
「てをつなぐの」
片手を差し出して見上げたその目は真剣そのものだ。何のことかと固まるキアの許可を待つまでもなく、リィンはキアの右手を取って掴んだ。
「んで、リィンがファントムになってまりょくわたす」
「おおう。剣探しのヤツ?」
「うん」
「魔力わたすってなぁ……」
ツッコミかけたキアに返事はない。右手を握るリィンの指の力が一段と強くなる。件のシーンはキアの家のビデオで見返すほどリィンのお気に入りでもあるのだ。うーんとうなるリィンのなりきり具合にキアも覚悟を決める。とはいえ、手を繋いで黙っているだけだが。
何も起きるはずはない。キアも知っている。ゴーレムなどの魔道具とは違う。何の助けもなく他人に魔力を渡すというのはスゲー難しいことで、なんといってもファントムは魔力操作の達人なのだ。
自分と他人の境目がなんとかだっけ。暇つぶしに読んだ姉の生物の教科書に、確かそんな説明があったはず。
「……リィンはね」
「ん?」
「おとーさんとおかーさんと、けだまちゃんとね。おばーちゃんおじーちゃんと、キアのはわかるの」
何のことだろう。魔力探知のような術は探査ほどでなくとも、こっち側の特性だ。リィンに向いているとは思えない。姫になりきりまぶたを閉じて手を握り返したまま、キアは問い返した。
「わかるって魔力が?」
「うーん。おとーさんはえにしのかんかくって呼んでるー」
「え、にし……」
聞いたことのない古い響きの言葉だ。さっぱりわからないが、リィンの父が詳しいのなら魔力ではなさそうだ。先民に魔力は無い。
気のせいか、繋いだ指の先が溶けるような感触に襲われてキアは目を見開いた。流れる川は何も変わることなく、互いの手もそのままだ。何だったんだろう。
隣を見て確かめる。
リィンとは頭ひとつまでの身長差はないが、うつむき加減のリィンの表情はここからでは読み取れない。
「おとーさんのおおむかしのおじいちゃんのそのまたずっーとおじいちゃんはね、船で遠くからきたの。うたは、波にはきかないから、つよいからだと、えにしのかんかくをもったエイビィが、生き残ったんだって」
「船……キズナみてぇなものか?」
エイビィの乗る船と聞いて連想したのは海賊が活躍するアニメだ。正直あまり面白くなかったが、これも姉に言わせれば「キアはぼっち属性だから、距離感の近い陽キャが苦手なんでしょ。この主人公とか」らしい。えにしの感覚というのが、あのような陽キャを強いるものなら面倒かもしれない。
沸きかけた嫌な想像に、右手に触れているのがリィンの指なのだと思い直す。モヤモヤした何かはすぐに吹き飛んだ。
素朴な、けれど大人びた笑みがキアの口元に浮かぶ。
「リィンといっしょなら、船もおもしれーかもな」
「うん、リィンも――」
その声を聞き取れたのは途中までだった。
キアは息を止めた。
あの溶け合うような感触が再び指を襲っている。指だけじゃない。腕も。感じたことのない魔力の奔流が首筋まで昇ってくる。
膝から先の感覚は曖昧で、力任せに腕を振り解くこともできない。
「ちょ、おい、リィン!」
「……つながった。できた」
「つな? ぇ、ちょ」
慌てふためく姫を見上げて、小さな勇者は自信満々に棒読みに言った。
「おちついて、やってごらん。エルシェラ。いつもどおり、じゅつをつかうだけだ」
「そりゃ、ファントムのセリフで、クソッ」
術を使っていないというのに、今や魔力の奔流は眩しさと錯覚するほどだ。その最中にいるリィンは、ほのかに金色の勇者の輝きを纏っている。眩さに目を細め、訳の分からない悔しさに歯噛みする。
足首を洗う川の流れが、キアの朦朧としかけた感覚を辛うじて現実に引き戻した。
「わかったよ。やってやる。やるさ」
決意を言葉にして、いつも通り魔力を練ろうとするも、うまくいかない。多すぎる。纏めようとすれば、するすると逃げてゆく。
手を繋いだまま、キアはしゃがみ込んで膝をついた。あちこちびしょ濡れになるが気にする余裕はない。
抱えた焦りを振り払うよう、空いた左手で水をすくい顔に浴びる。冷たさに感覚は冴えた気がするが、未だ飛び回る魔力はキアを弄んでいるかのようだ。
立ち上がり空を見上げて、息を深くひとつふたつ。山の向こうから育ち始めた積乱雲が大雑把に塗り分けた青の中をトビ達が舞う。
キアは思考の中に一羽のトビをひきこんで吹き荒れる魔力の風に乗せた。優雅に、雄大に。遠くへ羽ばたくように。輪を描いて繰り返す。
風はトビと一つになり、トビは風と一つになり、ただ一対の眩い巨大な翼となって群青の天の果てまで舞い上がる。
音も光もなく、何の継ぎ目もなく、術は発動する。
――自分の意思が世界をめぐる
その意味を今、キアは身をもって知った。
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