毛玉、帰宅する
七年ぶりに触れたフレットの上で、指は窮屈さに悲鳴をあげた。使わない回路や筋肉を脳と身体は効率よく削ぎ落とす。記憶があるのと動かせるかはまた別だ。
教本をめくれば、いくつか覚えのあるページも見つかる。よくある、四つのコードで弾けるものだ。試しに挑戦してみるも、バレーコードで引っかかってしまう。
「……ッ」
指には弦の跡がこれでもかと付いている。必要のない力を入れている上に、指の皮はまだ柔らかい。
痛みに耐えられなくなれば、弦を適当にミュートして、ストロークに集中してみる。痛みが少しでも引けばコードチェンジを反復する。
指が余計な所に触れるたび、ペシっと情けない音が混ざる。
「クソッ。当たり前……」
しばらく水分を摂っていなかったことに気づいて、席を立ちコップに水を注ぐ。なりふり構わず一気に飲み干した。
ソファーに戻り、姿勢を正して座り直す。
「正しいフォーム、力の加減。反復、反復。編み物と同じ……」
できなければ、速度を落とす。それでもできなければ、できる部分に分解する。自分がやっていることの把握とフィードバック。それは、肉体を持ち生きている生物に備わった基本的な機能だ。重ねて繰り返す。自らを解析するように――
不意に心地の良い音が響き、リーシャは知らずと歌を口にしていた。だが、それはほんの数フレーズのことで、すぐに演奏はぎこちないものに戻る。
「バカ。調子に乗るな」
もう一度初めから。リーシャが構えたその時、ベランダから知った声がした。レースのカーテン越しにふくよかな女性のシルエットが見える。ダレンの養母、ジェマだ。
「リーシャさん?」
リーシャはそそくさとソファーのクッションにギターを隠した。
「お義母さん。すみません、こんな……」
こんな、何だろうか。暑いこの時期だ。何処の家も窓を開けている。トラベルギターの小さめの音とはいえ、外に聞こえていたという事実を今更認めないわけにもいかない。リーシャは言葉に詰まった。
「歌声が聞こえてねぇ。ふらふらーっとベランダから来ちゃったの」
「騒音でしたよね、すみません」
「いーやいやいやー。ぜーんぜん、全然。気づいたのそこまで来てからね。なんならもっと大声で歌っても。聞こえてもウチまででしょ。あ、これゼリーね」
ジェマは手にしていたホーローのバットをリーシャに手渡した。フチが水色に彩られた白く四角いバットは、サイコロ切りのフルーツが散りばめられた一面のゼリーで満たされている。
リーシャが家の中に上がるように薦めるより先に、っこいしょと口にしてジェマは窓際に腰を下ろした。
「かわいいギターね。リーシャさん楽器ができるの、すごいじゃない」
思わず振り返って見れば、隠したつもりのギターはクッションが転がったせいで全く隠れていない。リーシャは努めて平静に答えた。
「やっていたといっても二ヶ月くらいで、何年も触っていなかったので」
「音楽が好きなの?」
「そんな純粋な動機ではないので、お恥ずかしい限りで。若い頃、映画で見た山でギターを弾くシーンに憧れて。それに……」
ジェマと目を合わせないよう、リーシャはフルーツたゆたうゼリーの海を見つめた。積み重ねた澱みが刃物となって、七年前の記憶から拾い上げた想いを歪に尖らせる。その切っ先は社会性という薄膜を破ってリーシャの口から覗き出た。
「ダレンのことをエイヴィだと思っていたので、楽器をやれば歌好きで有名なエイヴィの気を引けると思ったんです」
リーシャは激しくなる鼓動を他人事のように感じた。追いかけるようにやって来た後悔が視線を彷徨わせる。暑さによるものとは異なる汗に手のひらが滲み、それも夏の日差しですぐに乾いてゆく。
当てつけがましい自分の大人げなさに居た堪れなくなり、自己中心的なままにリーシャは口走った。
「ごめんなさいっ」
「リーシャさん、ごめんなさいね」
声が重なる。気がつけば二人は向かい合わせに頭を下げていた。
テーブルの上にはジェマが作ってきたゼリーが置かれている。包丁を入れて皿に分けるでもなく、二人は手にしたスプーンでバットの中のゼリーを直接にザクザクとすくった。
ジェマはスプーンの上に大胆に削り出したゼリーの塊を乗せて、ぷるぷると揺らしてみせる。
「ダレンの事だから、どうせリィンちゃんにジュースとかアイスとか屋台の焼き鳥とか食べさせてるでしょ。このゼリーは私たちで食べちゃいましょ」
「なんだか、こういうのって、大人の特権という感じがします」
リィンに碌な昼食を食べさせていないダレンを想像したリーシャは苦い顔をしそうになる。けれど、バットからゼリーの塊を食べるという背徳的な行為に一度手を付けてしまえば、リーシャの顔の筋肉はあらゆる角度からゼリーを味わうのに手一杯になった。
久しぶりにギターを触って気付けば数時間。昼食を摂っていないからっぽの胃に、主張しすぎない味のゼリーはするすると滑り込んでゆく。
「優しい味……」
「リィンちゃんは、あんまり酸っぱいのは苦手じゃない」
「ええ」
ダレンから昨晩打ち明けられたことはジェマに話した。ダレンがゲシュだと知っていたのは、ダレンの養父母とフィンとフィンの両親。だが、それを謝罪されたところで何一つ得るものは無い。そう伝えたのが、どうしてか今、こんな流れになっている。
ゼリーを切り崩しながら、ジェマはリーシャを促した。
「リーシャさんが言いたいこと、叫びたいこと。色々あると思うの。もちろん、面倒なら言う必要もないのよ?」
ジェマの作ったゼリーの複雑な切り口がホーローの底に光を落としている。波打ち際にも似たそれをリーシャはじっと見つめた。
「私にとってダレンは、知り合った時も昨日も今もダレンで。強いて言えば、ちょっと変わったエイヴィでしかなくて」
恐る恐る顔をあげたリーシャの前で、ジェマは温かな笑みを浮かべていた。リーシャの言葉を正すことも止めることもなく、見守っている。
「ただ、腑に落ちたんです。あの独特の無関心さとか、奇妙な距離感とか。口で言えないなら態度で示してほしい。そうも思ったけれど、そうじゃないんです。ずっとそうしていたら、そういう心の動かし方になってしまう。だから、どれだけ酷い八つ当たりを私がしていたのかわかって。なのに、なのに――」
振り絞るように。リーシャは言い訳を、本音を、弱々しい叫びに変えた。
「私が好きになったのも、少し無関心で距離感のある、あのダレンなんです。なんて身勝手で、面倒な女……」
中途半端に開けたままのレースのカーテンが、風をはらんで複雑に波打った。まだ高い日差しがレースの重なりを透かすと、それは白よりも眩しく滲んで見えた。
会話の止まった部屋に、暑苦しいセミの鳴き声が届いてくる。
苦渋と自嘲で口元を歪ませるリーシャに、ジェマは柔らかく呟いた。
「ダレンは幸せね。これからそう感じられるようになれるのだから」
♦︎
リーシャが夕食の支度をし始める中、玄関から元気な声が響いた。
クローゼットから出した写真もギターも、食べ尽くしたゼリーのバットもとうに片付けてある。
「ただいまー! ゴールデンファントムみるっ」
「ももっー!」
「……間に合ったか」
リィンは居間に入るなりテレビジョンのスイッチを入れた。チャンネルを回しソファーに陣取ると、クッションをぎゅっと抱えてコマーシャルが終わるのを待っている。
毛玉はその隣にぽすんと座った。テレビの中で人が動くたび、追うように身体を揺らす。茶色のふわふわの毛に、水色の真新しいタグが眩しい。
「お昼は何食べたの?」
台所に立つリーシャの問いに、ダレンは微妙に渋い顔をした。
「あー……」
「フィンおじさんのところで10ベル棒を色んなあじ食べてね、サイダー飲んで、割るアイス食べてぇー、えっとあと丸いのが三つ刺さったのと、エビとおやさいのくしやき!」
リィンが良好な記憶力ではきはきと答える。ダレンは感心しつつ溜息をついた。
「その、すまん。リィンが興味を示したものを食わせてたら……」
「まぁ、いいけど。ごはんを残さないなら。私もおばあちゃんの作ってきたゼリー、ぜーんぶ一人で食べちゃったから」
「は?」
予想外の反応が返ってきて、ダレンは思わず台所を覗き込んだ。リーシャは澄ました顔でアルミダイキャスト製の小型のハンマーのようなものを握り肉を叩いている。ハンマーの先端は刺々になっていて、もしこれが武器のサイズであったなら人も殺せそうだ。
「おかーさん、ずるい」
「もっーー」
「大人の特権です」
ぷうぷうと文句を言うリィンも、目当てのアニメが始まると、ここ一番の集中力を発揮して静かになった。
食事が始まるまでにテレビは消すルールだが、今日のリーシャはリィンを急かす様子もない。
拭えない違和感にダレンは眉を顰める。
「母さんと何を話したんだ?」
「さぁ?」
リーシャは粉にしたチーズを平べったくなった肉に振り、小麦粉を擦り付けた。
単純なリフが力強く重なり、広がりを見せて主題歌が始まる中、バターの香ばしい香りが弾けていった。
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