ほほえみ

 わたしの部屋に彼が来たときのことはおぼえている。わたしの部屋にお客さんが来ることは今までなかったから、それは大きなできごとだった。

 わたしは部屋をそうじして、きちんとして彼を迎えた。


 赤いリボンでくるまれた白い箱に入って、彼はやってきた。わたしはリボンをほどいて、箱を開けた。

 彼は笑顔で、せなかをかがめるようにして箱のなかにいた。まんまるの目をおおきくあけて、箱のかべをじっとみつめていた。


 彼は箱のなかが好きなようだった。足をのばして、せなかをもたれさせて、じっと箱のなかにすわっていた。

 わたしが声をかけても、まっすぐを見つめたまま、ずっとすわっていた。

 いまは箱のふたは開いているからいいけれど、さっきまでは、箱のなかはまっ暗なはずだった。こんな暗くてせまいところのどこがいいのだろうと思ったけれど、彼は笑ったままじっとしていた。


 わたしは箱のなかから出してあげて、わたしの部屋のじゅうたんの上にすわらせた。大好きなところから出されて、おこってるかなと思って顔をのぞきこんだら、彼はぜんぜん気にしていないようだった。にこにことわたしを見つめかえしていた。


 彼の手足はまっしろだった。箱から出してあげたときに手にさわったけれど、つるつるして、すこしざらざらして、ひんやりとしていた。ずっと暗い箱のなかにいたから、からだが冷えているのかもしれない。わたしは彼の手をとって、さすってあげた。そうすると彼はうれしそうな顔をしてくれるのだった。


 彼はごきげんな顔でいるのだけれど、話しかけてはくれなかった。だからすこし困ってしまった。こうして向かいあって話すといっても、なにを話したらいいか、よくわからなかった。


 彼はずっとわたしをみつめて、すわりこんでいた。彼の足はふわふわしていて、からだをささえることができないらしかった。いくつも枝分かれしているわたしのものより、ずっときれいだったけれど、じっさいは不便なんじゃないかと思えた。けれど、歩く気もないようなので、たぶんそれでいいのだろう。ずっとわたしの部屋のかべばかりみつめている彼に、わたしはどう声をかけようかと悩んだ。

 ともかく、彼の肩に手をそえて、わたしのほうをむかせた。それから、まずは、わたしのことを話してきかせることにした。


 わたしは彼にいろんなことを話した。好きな色のこと、好きな場所のこと。やってみると、悩むよりはかんたんだった。ときとぎ話につまったり、思い出したりして、私の話はとぎれとぎれになることもあった。けれど、彼はいやな顔もしないで、ちゃんときいてくれた。だからがんばって、話した。彼はずっときいてくれた。


 学校のこと。ともだちのこと。先生のこと。わたしはじぶんのいろいろなことを話した。

 けれど彼のことはわからなかった。彼はわたしの話をきいてくれたけれど、話しかけてくれることはなかった。わたしの部屋のじゅうたんのうえに足をなげだして、笑顔でいるだけだった。

 わたしは、彼のことも聞きたいと言ってみた。けれど、そういうときの彼はとぼけたように笑みをうかべるのだった。

 なぜ彼は話してくれないのだろう。もしかしたら、話すことがないのかもしれない。ずっと箱のなかにいて、外に出たことがないのかもしれない。彼は立とうとしないし、歩こうともしない。だから話すことがない。話さない。

 それならいっしょに外に遊びに行けばいいのだろうか。けれど彼はそうしたがらない。前になにかひどいことをされて、外がきらいになったのかもしれないし、ただ出たくないだけかもしれない。そういうこともわからない。わからないけれど、彼が外に出たくないことだけは、なんとなくわかった。

 だからわたしはいろいろなことを話して聞かせた。


 けれど、やっぱり彼のことはわからなかった。わたしはいろいろ話したのに、それでもわたしは彼のことがわからないままだった。なんでかみの毛が太くて少ないのか。なんでまんまるの目をしているのか。なんで手がまるいのか。なんで立とうとしないのか。なんでずっと笑顔でいられるのか。


 わたしはじぶんのことを話しながら、彼にいろいろ聞いてみた。けれど、そういうときに、彼はきいていなかったふりをして、すまして笑うのだった。すこしさびしげで、けれどからかうような顔だった。

 からかっているのか、さびしいのか、ぜんぜんそんなことじゃないのか、わたしにはわからなかった。そういうこともわからない。だからわたしはじぶんのことを話した。彼はすましたような、ためすような、うれしそうな目をする。視線のいみがわからなかった。そういうこともわからなかった。わからないことのほうが多かった。


 わたしは、もしかしたら彼がとつぜん、なにかのまちがいで口をすべらせるんじゃないかと思って、じっとそれをまっていた。じぶんのことを話しながら、彼の口元ばかりをみていた。ずっと閉じられている彼の口は、わたしの話に、すこしずつ笑みを変えてはいたけれど、口が開くこともなかった。いつも笑っていた。そしていちども開かなかった。彼はとてもまっすぐだった。いつも笑ってくれていた。

 わたしはいやな顔をしていた。彼の口ばかりみて、ずっと話してくれるのをまっていた。そうしてわたしが話していた。


 わたしの口も閉じてしまった。話すことがなくなったからだった。わたしはもう、話すことをつくれなかった。だから話せなくなってしまった。わたしはじっと彼の口を見ていた。彼の口はずっと閉じていた。わたしの口も閉じていた。けれど、わたしは笑ってはいなかった。

 彼は笑顔だった。なんのいつわりもない、ゆたかな笑顔だった。彼の笑顔はすなおだった。わたしを安心させた。うれしくさせた。だからわたしは話していたのだけれど、いまはもう話すことがなくなってしまった。それでも彼は笑ってくれていた。

 でも、わたしは、彼にだって話してほしかった。ほんとうになにも話すことがないのだろうか。なにもなくても、話してほしかった。話したくないことなのだろうか。わからないけれど、彼はいつも笑顔なのはわかっていた。いつでも笑ってくれていた。からかっているような笑顔。けれど、ほんとうにからかっているのだろうか。話したくないのだろうか。話せないのだろうか。わたしと話すのがいやなのだろうか。いやならいやだと言えばいいのに。それを話すのもいやなのだろうか。わたしにはわからなかった。けれど彼は笑っていた。わたしがきらいなのだろうか。それならなぜ笑うのかがわからない。わたしの話していることがわからないのだろうか。けれど彼はいろいろな笑顔でわたしの話に応えてくれた。彼はわたしを見ていた。歩けない、立てない、話せない、けれど笑っている。なんなんだろう。よくわからない。それすらもわからない。なぜわからないんだろう。たぶん彼が話さないからなんだろう。話してくれたらいいのに。話してくれたらどうなるのだろう。わからない。けれど話さないからやっぱりわからない。なんで笑っているのかも。なぜ話さないもわからない。どうしたら話してくれるのだろう。どうしたら彼のことがわかるんだろう。


 わたしの手が彼の手をとった。そしてゆっくりとひっぱり、おした。首をゆらゆらさせて、おしりをばたつかせ、彼はゆられた。手を離したら仰向けに倒れて、それでも笑っていた。起き上がらせて、ほおを軽く叩いてみた。さわり心地のいい肌が、かるく沈んで、もとにもどる。わたしの指に押されるたび、彼は困ったように顔を歪ませながら、それでも笑顔だった。彼の少ない髪の毛を何本かつかんで、ちょっときつめにひっぱってみた。彼の顔もひっぱられ、たてながの笑顔になった。静電気がはじけるような音がして、彼の髪が引っこ抜けた。彼は前のめりになって、またさっきと同じようにすわりこんだ。それでも話してくれないし、笑顔だった。なんで笑っていられるのか、わたしにはわからなかった。わからないままだった。最初からわからなかった。だいたい、わたしのつまらない話し聞いて、にこにこしていることがわからなかった。ずっとわからないのかもしれない。そんなことは最初からわかっていたのかもしれない。


 小さく、はかない音が部屋を一瞬だけ満たした。ベッドの角に、まんまるで大きい後頭部をぶつけて、彼が横に転がりながら戻ってくる。その頭を身体にくっつけているところを、五つに分かれた醜い根のような私の指が、それぞれに彼を掴み上げた。そしてそのまま腕を勢いよく振った。軽い音がして、彼が壁を跳ねて、転がりながら戻ってくる。今度はわたしに瞳を向けて、仰向きに寝転がっていた。


 笑っていた。


 わたしは机に飛びついて、置かれていたものをひっくり返した。鉛筆や写真立てや、消しゴムやノートやらが、音を立てて散らばった。わたしはそこからひとつを掴むと、彼に飛び戻った。それは深く突き立った。引き抜き、突き立てる。もうひとつ、突き立てる。汚いじゅうたん。いくつもの繊毛がついていて、わたしはいつもこんな上にいた。繊毛の先はみんな灰色になっていた。染色されたじゅうたん。そしてわたしの手の中にあるものは、じゅうたんをつき通っていた。その先の、硬い感触があった。じゅうたんとわたしの手の間には彼がいた。親指が、握っている鉄の板といっしょに彼の中にめりこんでいた。

 額が割れていた。右足は抉られ、皮膚がめくれていた。首筋には彼の首の断面が見えた。淡い黄色の、いくつもの細胞壁に区切られた脂肪のかたまりがいくつも彼の中からはみ出していた。瞳は見開いたままだった。どこを見ているのかわからない、茶色の瞳。そして、彼は笑っていた。いつもと変わらず、彼はいた。微笑をたたえて、そこにいた。

 鉄の板が動き、脇腹から抜け出ていった。柔らかい脂肪の弾けるかわいい感触があった。


 笑っていた。


 胴が引っ張られた。はかなく低い断末魔のあとに、彼の首がちぎれた。


 笑っていた。


 わからない。わからなかった。わたしが好きだからでもない、わたしの話が楽しいからでもない、わたしが困るのを見て楽しんでいるわけでもない、笑っているのかもわからない、わたしはずっとわからない!



 部屋には死臭が漂っていた。雑菌を拒むような几帳面な臭いがわたしの中に入り込み、病的に喉や鼻や気管支を掃除し続けていた。

 黄色いかたまりが散らばっていた。わたしの机に、わたしのじゅうたんに、わたしのベッドに、わたしの服に。

 わたしの手の中にもあった。それは黄色くなかった。少し赤みを帯びて、水気を含んでいた。液体はそこからゆっくりと筋をつくり、少しずつ床にこぼれていた。手の中の黄色くない黄色いものは少しも腐ろうとしないで、ずっと手の中にあった。

 わたしは軽くせき込んだ。


 かすかに鼓動のような音が聞こえた。部屋の外からだった。だんだんと大きくなる鼓動は、速いテンポで近づいてきた。それが一度途絶えて、確認するように壁が二、三度鳴った。

 部屋の一角から光が覗いた。そしてすぐに遮られた。いびつな、背の高い、細い身体をしたものがわたしの部屋を黒く染めていた。

 部屋をひととおり眺め回して、それからものすごい音を立てた。

「なんでこんなことをしたのよ!」


 再び、利き手に力が入った。わたしはずっと話しかけてくるそれに視線をやった。薄い笑みを浮かべて。

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