ポッキーにまつわるミステリー

 その日は一日中、重い雲が垂れ籠め、小雨が降ってはやむのを繰り返す、陰気な日だった。

 私は仕事が休みだったため、朝から家でごろごろしていたが、天気のせいもあるのか、どうにも気分が沈みがちだった。

 なので昼前に思い立ち、気持ちを入れ換えるために、喫茶店に行くことにした。



 その喫茶店の正式名称は知らないが、私は勝手に「劇場喫茶店」と呼んでいる。

 店内は中央のカウンターを客席が取り囲むような作りになっており、どの席からでもカウンターの様子が見えるようになっている。それが劇場みたいなのである。


 ほとんどの客はカウンターに座らないが、常連客数人は、いつもカウンターの同じ席を占めている。その常連客の雑談を聞きながらコーヒーを嗜むのが、この喫茶店の日常的な風景である。


 ただ、ときおり、一見の客がカウンターにやって来ることもある。



 土曜の昼前という微妙な時間帯と、天気の影響もあるだろう、その時、喫茶店の客はいつもより少なく、私を含めて3組くらいしかいなかった。カウンターの常連も、和服を着て白髪混じりの髪を後ろに撫で付けた初老の男、通称「先生」と、丸眼鏡をかけ、年中半袖のアロハシャツとジーパンという姿のひょろ長の30代くらいの男、通称「南国」の二人だけ。


 通称の先生、南国というのは、度々常連同士がそう呼んでいるのを聞いたことがある、という意味である。そう呼ばれている理由までは知らない。先生が本当に先生なのかとか、南国が本名なのか、あるいは何かの理由でそういうあだ名が付いているのか、などはわからない。



 私が店の入り口で店員にホットコーヒーをブラックで頼み、いつもよく座っている席に誰もいないことを確認して、そこに着き、ほどなくやって来たコーヒーをひと啜りしたとき、先生と南国の二人は、外交問題がいかにして第一次世界対戦へと発展したかについて議論を交わしていた。後で家に帰ってからネットで調べると、その日は第一次世界対戦の終戦記念日だったらしい。それでそういう話題になっていたようである。


 話は100年前の戦争から、徐々に現代の国際問題へと移っていき、ウクライナがNATOに加盟することになれば、サラエボで起きた些細な事件が世界大戦の引き金になったあの過ちを繰り返すことになるのではないか、という自説を展開する先生に、南国が何やら反論しようとしたとき、一人の客が店内に入ってきた。


 それは二十歳前後の若い男だった。振り乱れた髪が濡れ、シャツの肩の色が変わっているところを見ると、雨が降る中を傘をささずに歩いてきたらしい。

 男は半ば放心した様子で、ふらふらと中央のカウンターへと向かって行った。そして、倒れ込むようにして席に着いた。


「ご注文は?」


 カウンターの奥でずっと静かに佇んでいたマスターが訊ねた。

 いつの間か先生と南国は話をやめており、二人とも静かに手にしたコーヒーカップを見つめている。


 男はしばらく、呆然とした様子でマスターを見上げていたが、やがて我にかえったようにあたりを見回し、それから、慌てた様子で言った。


「あ、いえ。あの、なにかおすすめで」


 マスターは静かに一礼すると、カウンターの後ろにある棚にずらりと並べられた缶から、ひとつを取り出して開けた。そこから木のスプーンでコーヒー豆をすくいとり、手回し式のミルへと投じる。


 コーヒーを挽く音とともに、店内に香ばしい香りが漂う。


 サーバーの上のドリッパーにフィルターをセットし、挽いた豆を入れ、ポットでお湯を注ぐ。



 その時、いつの間にか席を立っていた南国が男に近づき、白いタオルを差し出した。

 男はしばらく、その意図がわからなかったようで、じっとタオルを見つめていたが、やがてそれを受け取った。


「ああ、どうもすいません」


 そして濡れた髪をタオルで拭いた。



 拭き終わり、礼を言いながら南国にタオルを返すのとほぼ同時に、マスターは静かに淹れ終わったコーヒーを差し出した。


 それに少し遅れて、私の席にも店員がやってきて、コーヒーを置いた。この店では、カウンターに着いたゲストが頼んだものが、他の客にも振る舞われるのが通例となっている。

 それから、背の高いグラスに入った数本のポッキーもテーブルに置かれた。コーヒーは通例だが、つまみ、というべきか、こういう品が付いてくるのは珍しい。


「ほう、これは珍しいですな」


 私と同じ感想を先生が言った。

 自分の席に戻ろうとしていた南国は、その言葉を聞いて、自分の席へと目をやった。そして、グラスに入ったポッキーを見つけて、ははあ、と得意気な声を上げた。


「なるほど、これはつまり……」


「なんでよりによってポッキーなんですか!」


 南国の台詞を遮り、大声をあげたのは、例のゲストの男だった。

 この喫茶店では滅多に聞くことのない怒声に、先生や南国だけでなく、普段は常に落ち着いた様子のマスターまで驚いた顔を男に向ける。


 席を半ば立ち上がり、ポッキーのささったグラスを掴みかからんばかりに睨み付けていた男は、急にしゅんと縮まり、俯いて言った。


「ああ、すいません。つい」


「気にせんで構わんよ。私が代表して言うのもなんだが、まあ、店の誰も気にしていやしないさ」


 先生が言った。


「本当にすいません」


 赤らめた顔を俯かせたまま、重ねて男は謝罪する。


「しかしなんだね」


 自分の席に戻り、ポッキーを一本つまみながら、南国が言った。


「そんなにポッキーを見て恨めし気にする人は今まで見たことがないよ。君はポッキーが嫌いなの?」


 男はしばらく俯いたまま、言おうか言うまいか迷っていたようだが、やがて体をよじるようにして姿勢を正し、コーヒーカップを手にし、コーヒーをひと啜りし、それを皿に戻したところで、意を決したように言った。


「嫌いになったかもしれません」


 ふむ、と、先生は顎に手をやりながら鼻を鳴らした。


「つまり、最近ポッキーにまつわる何かがあったわけか。どうだね、ここで気晴らしにその話をしてみないかね? 誰かに話せば気持ちの整理が着くかもしれないよ」


「どうでしょうかね……」


 男は乗り気でない雰囲気でそう言ったが、やがてグラスに手を伸ばし、ポッキーを一本がりがりやると、言った。


「話としてはつまらないですよ。僕の彼女のことなんです。彼女だった、ということになるのかもしれませんが」


 南国はコーヒーカップに口をつけながら言った。


「それはずいぶん思わせぶりな言い回しだけど、まあ、ここはひとまずスルーしておくよ。で?」


「彼女はポッキーが好きで、なにかというとポッキーを食べてるんです。地域限定のポッキーがあるんですか? なんか、そういうのがあるらしくて、旅行に行ってはご当地ポッキーみたいなのを買って、インスタに上げたりするのが趣味なんですね」


「それは初耳だな」


 そう言う先生に対し、南国は天井を見上げながら言った。


「僕は最近、北海道に行ったとき、夕張メロン味のポッキーを見かけたことがあるよ。たぶんあれがその、ご当地ポッキーなんだろう」


 先生は鼻を鳴らした。


「その格好で北海道なんか行くのかね、君は」


 それを無視して南国は男を促した。


「それで?」


「ええ。僕はポッキーのことは詳しくないんですけど、今日がポッキーの日ということくらいはさすがに知っています。なので、今朝、キャンパスで彼女に会ったとき、ポッキーをプレゼントしたんですよね」


「ほう。で?」


「僕がポッキーを差し出したら、彼女、本当に驚いた顔して……なに、これ? と尋ねたんです。

 僕は『ほら、今日、ポッキーの日だから』と言ったら、彼女、突然怒り出して。僕のことを何もわかってないとか、すごい剣幕でそんなことを言って、走って行ってしまったんです。

 僕の何が悪かったんでしょう? さっぱりわからないんですよ」


 しばらく、沈黙が訪れた。先生は腕を組んでコーヒーカップを見つめ、南国はコーヒーカップに手を添えながら天井のどこかを見上げ、考え込んでいるようだった。


 やがて、天井を見上げたまま南国が言った。


「これは、ちょっとしたミステリーと言ってもいいかもしれないね。ポッキー好きの彼女にポッキーをあげたら怒られた。なぜだろう。なかなか興味深いよ」


「こらこら。それで真剣に悩んでいる若き青年がいるのだから、からかっちゃいけないよ」


「そうは言っても、謎は謎だろう」


「ひとつ思うんだが」


 先生が言った。


「私は万年筆を好んで使うのだが、それを知った友人に万年筆をプレゼントされると、かえって困ることがあるんだ。なにしろ万年筆は自分に合ったものを選ばないと使いにくくてしょうがないからね。使いにくい万年筆をもらってしまうと、気持ちは嬉しいんだが処置には困るということがある」


「万年筆ならそれはわかるけど、ポッキーだろ? ポッキーに合うも合わないもなくないか?」


「ポッキーにも種類があるだろう。君は何のポッキーをあげたんだね?」


「普通のです。ポッキーの日だから、あえて普通のやつの方がいいのかなって」


「ふむ。で、彼女さんは普通のポッキーを好むのかな? 実は好きじゃないということはないかい?」


「普段食べているのはアーモンドのが多いですけど、普通のもよく食べていますよ。嫌いということはないと思いますけど」


「なるほど、わかってきたぞ」


 南国が言った。


「つまり、せっかくの記念日に、普通のありきたりなポッキーをプレゼントしたのが気に入らなかったんじゃないかな。

 ポッキーにネット限定の高級品があるのを知ってるか?」


「そんなものがあるのか?」


「ああ。私も食ったことはないんだが、大人のポッキーというのがあるんだ。大人の琥珀、女神のルビーって。6袋入りで1000円くらいするんだけど。

 それを買ってプレゼントすれば、彼女の機嫌もきっと直るさ。間違いないね」


「そうでしょうかね?」


 半信半疑な面持ちで、男は首をかしげる。


「だが、それだと変じゃないか?」


 先生が口を挟んだ。


「彼女さんは『わかってない』と言ったんだろ? ありきたりな安物をプレゼントされたことが気に入らなかったのなら、『わかってない』とは言わないんじゃないか?」


「ポッキーマニアの心をわかってない、ということだろ? 自分のようなマニアに、そんなどこにでも売っているようなのをプレゼントして、って」


「いや、私もいろいろコレクター的な趣味があるからわかるが、こういう時にもっともスタンダードなものをプレゼントするのは、むしろマニア心をわかっていると思うよ。高い限定品を渡すより、よっぽど気が利いていると思う」


「あんたさっき、万年筆を渡されたら困るとか言ってなかったか?」


「いや、だからこそだよ。限定品は個性が強いから、あるいはその人に合わない可能性があるんだ。一方、もっともスタンダードな普及品だったら間違いがない。それに、記念日を祝うんだったら、限定品よりは最もスタンダードな品を選ぶべきだろう? グリコが今年、ポッキーの日限定の商品を出しているなら話は別だが」


 そして再び、二人とも黙り込んでしまう。


 やがて、先生が腕組みをして目を瞑ったまま、感慨深げに言った。


「いやはや、女心とはわからんものだな」


「この場合、女心じゃなくて、マニアの心なんじゃないのか? むしろあんたの領域だろ? 万年筆マニアなんだから」


「そう言われてもな。私は万年筆についてはわかるが、ポッキーのことはわからん」


「あの、ひとつよろしいでしょうか」


 そのとき声をあげたのは、マスターだった。


「話を聞いていると、みなさま、ひとつ、大きな間違いをしております。おそらくそれが、彼女様をご立腹させた原因ではないかと思われます」


「ふむ。我々が何か間違いをしていると」


 さきほどよりも、より困惑した様子で、先生が言った。


「何のことだろう。思い当たらんな」


「みなさま、今日は何の日だとおっしゃいましたか?」


「ポッキーの日」


 南国が即答した。それから、はっとした様子で付け足した。


「まさか、その前提が間違っていた? 実は彼女にとっては、他の記念日の方が重要だったとか。たとえば第一次世界大戦マニアでもあって、終戦記念日の方が大事だったとか」


「そうか!」


 先生が自分の額を叩いた。


「実は今日は彼女さんの誕生日だったのではないかね? それを覚えていなくて、ポッキーの日を祝ったから怒り出した。なるほど!」


「いえ、誕生日は別の日です」


 男に即答され、先生は電池の切れた人形のように席に突っ伏した。


 そして三度沈黙が訪れる。


 三人が頭を抱え、黙り込む中、マスターはそっと、男の目の前に何かを差し出した。


「答えはこれです」



 私の席からは、マスターが何を差し出したのかはよく見えなかった。ただ、緑色の何かがちらりと見えただけだった。

 だた、すぐに南国と先生が同時に声をあげたので、それが何かはわかった。


「プリッツ?」


「はい」


 マスターは頷いた。


「みなさま、今日はポッキーの日だとおっしゃいました。しかしそれは間違っています。今日はポッキー&プリッツの日です」


「えっ、いつから?」


「制定された日からです。それなのに多くの人が、ポッキーの日だと勘違いしております」


 男は放心したように差し出されたプリッツを受け取り、それを眺めながら、ようやく、といった感じで声を絞り出した。


「そうだったのか……それで……」


「今からでも遅くありません。ポッキーとプリッツを両方持って、彼女様のところへいらっしゃい」


「はい。ありがとうございます!」


 そう言うと、男は弾かれたように席を立ち、大股で店の入り口へと歩き去った。



「しかし、まさかポッキーの日が実は存在しなかったとはねえ」


 男が去ってしばらくしてから、先生はグラスからポッキーを一本取りだし、感慨深げにそれを眺めた。


「ポッキー&プリッツの日か。ポッキーの人気に押されがちで、つい軽んじがちなプリッツだが、その考えを改めねばならんな」


「もともと、プリッツの方が先輩だしねえ」


 南国が口を挟む。


「ところでマスター。そういうことなら、我々にもポッキーだけでなくプリッツも振る舞ってくれないかね?」


 その言葉が終わるよりも早く、マスターは二人の席にプリッツを入れたグラスを置いていた。

 そして、我々の席にも、プリッツがやってきた。



 私はトマト味のプリッツが好きでよく食べるが、今回やって来たのはスタンダードな旨サラダ味だった。

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