愁いを知らぬ鳥のうた ――Green

 夜の森を歩く。


 木々が天に向かって手を伸ばし、空を覆う森には、星明かりも届かない。


 真っ黒に塗り潰された世界では、自分の手足も見えず、まぶたを開いているか閉じているかもわからない。どれだけ見開いても、目に映るものは何もない。鼻先に漆黒の壁がまとわりつくようにそびえ、全てを拒むように立ちはだかっている。どこにも行き場はなく、どこにも空間はない。


 それでも、肌に感じる微かな空気の流れと、靴が地面を踏みしめる感触、夜露に濡れた草木の湿ったにおいが、自分の居場所を思い出させてくれる。


 そして、左腕に抱えている本の表紙の感触。厚い重さと、革を模した表紙の凹凸を指でなぞり、その存在を確かめる。


 その感覚を頼りに、闇の中に右手を伸ばす。鼻先にそびえる黒い壁を押しのけるように前方を探ると、何の抵抗もなく腕を呑み込んでいく。その感覚を信じて、片方の足を差し出す。枯れ葉を掻き分け、引き摺るように足を伸ばし、やがて足を下ろし、地面の手応えを確かめると、残ったもう一方の足を同じようにして引き摺る。そうして少しずつ前へと進んでいく。


 森には虫の声や獣の息、枝葉の揺れる音もなく、自分の足が湿った枯れ葉を掻き分ける音だけがある。足音はあらゆるもの響き、それぞれにわずかな時間のずれを生じさせながら戻る。


 森に響く音のずれを聞き、夜露に濡れた植物の湿ったにおいを嗅ぎ、伸ばした手に樹皮が触れる。

 そうした感覚が繰り返されることで、脳が幻想の森を作り出す。真っ黒に塗り潰された視界には、濃紺の影で形作られた森の姿が広がる。


 枝葉で覆い尽くされた空、枯れ葉で覆い尽くされた地面、整然と太い幹の立ち並ぶ姿、その樹皮のひび割れ、そのささくれた様子が、紺の影の濃淡によって鮮やかに闇の中に浮かび上がる。


 影の森は寒々しくも美しく、整然と針葉樹が立ち並ぶ。しかし、その地面に足を下ろし、その幹に手を触れようとすると、想像されるような手応えはなく、影は一瞬にして消え失せ、世界は闇へと戻る。


 そして再び、闇の中に手を伸ばす。消えては浮かび、変容していく影の森の中に右手を伸ばし、歩いて行く。


 やがて、濃紺と漆黒を繰り返す視界の中に、光が差し込んできた。枝葉に覆い尽くされたはずの天蓋を突き抜けて、強く白い光がスポットライトのように差し込む。


 その瞬間、濃紺の影の森は消え失せ、森の真の姿が現れる。



 森は雑然としていた。太い幹ですらりと伸びる木もあれば、歪にくねり、無秩序に枝が伸びる木もある。低く地面を這う木もあれば、枝葉の天蓋を突き抜けて伸びるものもある。地面も枯れ葉の敷き詰められた平坦なものではなく、でこぼこし、木の根が這い回っている。


 光が強くなるにつれ、風が出てくる。濃紺と漆黒を払うように、風が森の中を抜け、木々を揺らす。枝葉の揺れる音が辺りに漂う。


 足音の響く間隔が狭くなる。地面を摺るような音は消え、地面を踏みしめる音に変わる。


 光は広がり、視界が開けていく。木々に覆われた森が風を受け、その隙間に星空が見える。

 木の幹と幹、枝と枝、葉と葉の隙間から、無数の小さな光の粒の明滅が姿を現す。


 歩みを進めるごとに木々の覆いは少なくなっていき、風は鋭い音を鳴らして足元を掬おうとする。姿勢を低くし、よろめきながらも進んでいく。


 森を抜ける。



 そこは崖の切っ先だった。崖下には森があり、見渡す限り、地平線まで続いている。無数の星が明滅する空には満月が沖天し、森の海を照らしている。


 風で飛ばされないように慎重に、左脇に抱えていた本を開き、右の掌の上に載せる。


 本は風に煽られて、紙がめくれていく。やがて綴じ糸がほつれ、自由になった紙は、次々に空へ舞い上がる。


 やがて、ページのなくなった本は表紙だけとなり、掌からこぼれ、崖下へと落ちていく。そして、森の中に消える。



 頬に吹き付ける風の中に、熱気が帯びているのを感じた。振り返ると、ここまで歩いてきた道のりが炎の筋となって燃えている。炎は風を受けて燃え広がっていく。


 空には黒煙が立ち上り、星は煙から逃れるように、尾を引きながら次々に落ちていく。そのうちいくつかが地面へと激突し、地面が大きく揺れる。足元がふらつき、仰向けに転んでしまう。


 そのとき見えたのは、周囲に立ち上る炎の柱と、そこから立ち上る黒煙。そして、その炎と煙のトンネルの先に見える円い月。


 その月に向かって、飛んでいくものがある。本から離れて飛んでいった、紙のうちの一枚だった。炎が作る上昇気流に乗って、月に向かって空を昇っていく。だが、うねる風に乗り損ねて、今度は真っ逆さまに落ちていく。


 体勢を立て直してもう一度昇ろうとするとが、熱気にあぶられて、端に火が付いてしまう。


 火はあっという間に燃え広がり、紙は黒い灰になって細々に散った。



 灰は散り散りに空を漂う。熱気に煽られて上昇し、冷やされて下降しを繰り返している。


 そのまま拡散して消えていくように思われた灰が、しばらくすると、徐々に集まり始めた。枯れ葉が吹き溜まりに集まるように、少しずつ合流し、群を成していく。


 だが、そこで群は、急激に下降する気流に乗ってしまった。螺旋を描きながら、真っ逆さまに落ちていき、炎の海の中へと消えていく。


 すぐに上昇する気流を見つけて炎から再び飛び出したときには、群は再び燃え上がり、大きな火の玉になっていた。


 上昇していくうち、火は徐々に消えていく。灰の群は鴉に姿を変えていた。灰の鴉は翼を羽ばたかせて羽の先に残っていた火を消すと、一気に空高く舞い上がった。炎の勢力圏を越え、今や星のない、真っ暗で寒い夜空へ到達する。



 見下ろすと、地上は火の海だった。炎は見渡す限りに燃え広がり、黒煙を吐き続けている。それでもなお、注意深く眺めていると、炎と煙だけの地上に、きらきらと輝くものを見つけた。一面の炎の中で、そこだけが黒い円で切り取られている。


 それは湖だった。さきほど地面に落ちた星のひとつが作った穴に、水が流れ込んだのだろう。湖面は星空を映している。


 いや、そうではない。空にはもう星はいない。湖面に映るように見える光の粒は、実際には湖の中から放たれているようだった。星たちは湖に逃げたのだ。



 鴉は宙返りをすると、湖めがけて一気に降下した。空気が徐々に熱くなり、羽の先が赤く燻り出すが、そのまま降りる。


 やがて、再び羽に火が燃え出しそうになったとき、鴉は湖面に波紋を残し、水に潜っていった。


 水の抵抗を感じながらも、降りてきたときの勢いを利用して、鴉は水を潜っていく。しばらくすると、星々の隠れ場へと行き着いた。


 星が無数に泳いでいる中を、鴉は潜っていく。徐々に勢いを失い、やがては少し潜るのもやっと、というようになったも、ひたすら底を目指した。


 星の泳ぐ数が減り、ついには真っ暗になっても、さらに潜っていく。


 そして、底へと辿り着いた。



 湖の底には、この湖の穴を作った星が埋まっていた。星はところどころ海藻が生え、苔むしたようになっていたが、ところどころ、表面がむき出しになっているところがあった。星はもう輝きを失いかけていたが、鈍く赤い色を放っている。


 星に近づくにつれ、水の浮力よりも星の重力の方が勝ってきた。鴉はゆっくりと、星の表面へと降り立った。


 鴉は緩慢な動きで、二、三歩、星の表面を歩く。歩くたび、鴉の身体は地面を離れ、表面へと戻っていく。


 そして、辺りをきょろきょろと探り、それから、表面をくちばしでつついた。

 表面は傷ついたわけでもなく、何も起きない。

 鴉は首を傾げ、それからまたつつこうとした。



 突然、星が光を吐き出した。白い光の柱は鴉を飲み込み、水中を突き抜け、空へと突き刺さる。

 湖に隠れていた星々は巻き込まれ、湖面から空へと投げ出された。


 一瞬、星々がぶちまけられた夜空はかつてのような賑やかさを取り戻したが、星が遠くに飛ばされていくに従い、その光も弱くなり、やがて暗闇に戻る。


 光の柱が徐々に細くなっていき、消えていく。


 そして、暗闇と静寂が訪れる。



 炎は地面を焼き尽くし、燃えるものがなくなったために消えていた。後に残ったのは、炭化した木が立ち並ぶ森だけだった。

 焼かれ尽くし、乾ききった眼球には、真っ黒な空と、丸い月だけが見える。



 雨が降ってきた。先ほど吹き飛ばされた湖の水が、地面へと戻ってきたようだった。



 雨音に混ざって、羽ばたきの音が聞こえた気がした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る