記憶を踏みつけて愛に近づく ――Cyan

 だんだんと肌寒くなってきたある日の朝。

 山の麓近くで営業している喫茶店の中に、来客を告げる呼び鈴が鳴った。


 そのとき店のマスターは、奥の方で在庫を確認している最中だった。手が離せなかったので、とりあえず声をあげる。

 切りのいいところで作業を中断して、カウンターの方へと戻った。



 ざっと店内を見渡すと、5席ある窓際のテーブル席の3つめ、真ん中の席に、一人の男性が座っていた。新顔である。

 一見すると、登山客のようであった。それらしい重ね着をして、イスの脇にはリュックと、その上にダウンジャケットを置いている。短い髪にはところどころ白髪が交ざり、額や頬には深いしわが刻まれている。どうも疲れた印象のある姿だった。普段から山登りをして体を鍛えている感じにはあまり見えない。


 マスターには山登りの経験はなかったが、登山をするにはいい季節なのかな、と思った。ただ、この店に登山客が立ち寄ることは滅多にないので、珍しいこともあるもんだ、とも思った。ここは確かに山の麓だが、別に名所でもなんでもない。山目当てでやってくるのは、せいぜい近所の人が運動がてらにハイキングコースを上り下りするとか、小学生が遠足でやってくるとか、その程度である。


 そもそも、こんな朝早くに客が来ること自体が珍しい。この喫茶店が朝7時から開店しているのは、単にマスターが健康的な生活サイクルを作るための口実に過ぎない。実際に客が来始めるのは12時を過ぎてから。休日だと、たまに暇を持て余した近所の常連が9時頃にやってくることもあるが、それもほとんどなく、朝の間は下準備や掃除をしたりして、やることがなくなればコーヒーを飲みながらパズルを解いて客を待つのが日課だった。


 とにかくマスターはコップに水を注いで、客の席に持って行った。そして注文を聞く。男はテーブルの脇にあるメニュー立てを横目で見ながら、ミルクティーを注文した。カウンターに戻り、お湯を沸かし、茶葉の入った缶と、ポットやカップなどを用意する。


 お湯が沸くまでの間、さっきの在庫確認の続きをやるかどうか考えていると、男がカウンターの方までやってきて、声を掛けてきた。


「実は、ひとつ伺いたいことがありまして」


 そう言うと、彼は一枚の写真をカウンターに置いた。


「その写真の風景がどこなのか、もしや、ご存じではないかと思いまして」


 それは、妙に青みがかった写真だった。だいぶくたびれた感じのある写真だったため、日焼けか何かで変色してしまったのだろうか、とマスターは思った。それで、疑問をそのまま口にした。


「それはサイアノタイプなんですよ。……ああ、日光写真とか青写真とか、そういうやつなんです。もともと青いんです」


「ほう」


 マスターは感心したような声をあげてみたが、実際のところはよくわからなかった。ともかく、もともと青い写真なんだということだけは理解……したことにした。


 しばらく、カウンターに置かれたそれを眺めていると、男は、どうぞ、手に取っても構いません、と言った。それでマスターは慎重に両手で端の方をつまんで持ち上げて、目の前に持って行った。


 それは、低い山か丘かで撮った風景のようだった。右のほうには一本の木が映っていて、左には遠くの山々が見え、その麓にはぽつぽつと街並みが見える。確かに、この辺のひなびた街並みと、似ていると言えば似ているかもしれない。


 ただ、マスターは山に登ったことがなく、仮にこれが近くの山で撮影したものであったとしても見覚えがあるわけがない、と、最初から諦めながらそれを眺めた。


 男の手前、すぐにわからないと言うのも憚られたので、しばらく見ている振りをしていたが、そうしているうちに、マスターは、本当にこの風景に見覚えがあるような気がしてきた。


 しばらく考えを巡らせて、ようやくマスターは思い出した。


「そうだ。うちの店に、似たような絵が飾ってあるんですよ」


 マスターは、窓際の席の一番奥のほうの壁を指した。そこには小さい額が飾られている。


 男は血相を変え、マスターの指さしたほうへ駆けるようにして近づいた。マスターも一緒に行こうと思ったが、そのときやかんが音を鳴らしたので、まずは紅茶の準備をすることにした。


 マスターはトレイに載せたティーポットとカップ、ミルクポットと角砂糖を、どの席に持って行こうか迷ったが、一番奥の席に持って行くことにした。


 男は食い入るように、壁に掛かった小さな額を見つめている。その背中に、マスターは言った。


「ミルクティー、こちらに置きますね。お席を移動して構いませんので」


「ああ、ああ。どうも。そうさせてください」


 男は辛うじて礼を失さないように気を遣ってマスターに返事をしたが、顔は額から離そうとしなかった。


 マスターはカウンターに戻ると、置かれた写真を再び、丁寧に両端をつまんで持ち上げた。そして、顔を近づけて見つめる男の後ろから、額の絵を見た。


 絵は、写真の風景と確かに似ていた。青みがかった色合いまでそっくりだった。ただ、写真にある木はない。


 マスターには絵や写真の知識はなかったが、見た感じ、写真はどちらかというと、木が主役のような印象を受けた。題すると「丘に立つ一本の木」といった感じか。もし本当にこの辺の風景を写したものだとすれば、丘ではなく山からの風景なのだろうが、マスターの頭の中では、どうもこの風景は丘に見えた。


 一方、絵の方は「丘から見えるひなびた街並み」といったところだろうか。街並みが主役に見える。


 男が尋ねた。


「この絵はどこで手に入れたんです? 作者とか、わかりますか?」


「いえ。この店は親父が知り合いからそっくり買ったものなんです。この絵は前の持ち主の時から飾っていたはずですよ」


「おや。では、あなたの親父さんがこの店の主人なんですか?」


 ふと、男は絵から目を離し、マスターの方を向いた。さきほどの必死な雰囲気から一転、突然、世間話をするようなくだけた調子で自分のことを聞かれて、マスターはそのギャップに驚いた。

 驚きながらも、とりあえず答える。


「いえ。店は私が任されているんです。親父はコーヒー豆の買い付けが趣味でして。いいコーヒー豆を求めて世界中を巡っているんですよ」


「なるほど。では、紅茶を頼んだのは失礼だったかもしれませんな」


「そんなことは構いませんよ。……ところで、この写真はどうしましょう?」


「ああ、引き取ります。ありがとう。ともかく、紅茶をいただきますよ。冷めてしまってはもったいない」


 男は写真を受け取ると、最初の席に戻って荷物をまとめ、一番端の席へと移動した。そして、壁の額が見えるように座り、カップに紅茶を注ぐ。


 マスターはカウンターに戻ると、いつもクロスワードパズルなどやっている椅子に座り、男の後ろ姿をずっと見つめていた。

 在庫確認も途中だったし、他にもやることがあるといえばあったが、男のことが気になって、何も手に付かなかった。


 見た感じ、男は普通に紅茶を飲んで寛いでいるだけだった。額の方に目をやっているものの、普通に眺めているといった風だった。先ほど、鼻がくっつくんじゃないかというほど食い入るように見つめていたのとは全然異なる。それがかえって異様に感じられた。


 1時間ほどすると、男は立ち上がり、会計をして店を後にした。

 一体何だったのだろうとマスターは思ったが、ともかく、やり残した仕事をすることにした。



 それから男は、週に2、3度、店に来るようになった。最初はミルクティーを頼んでいた彼は、2度目以降はマスターの父親が厳選した銘柄のコーヒーを頼むようになった。


 男は一番奥の席で、額に向かって座った。ただ、雰囲気としては特におかしなこともなく、普通に挨拶し、たまに雑談などもして、1時間もすれば帰った。


 男はいつも朝早くに来店したので、たいがいは客は彼だけだった。たまに常連客と鉢合わせになったこともあったが、お互い気にする風でもなかった。二度ほど、常連客が「こんな時間に先客がいるなんて、珍しいね」などと言ったことがあったが、男は普通にその常連に挨拶し、二、三、他愛ない話をしただけだった。写真の話はしなかった。マスターからも何も言わなかった。


 一方で、マスターはあれ以来、あの絵について気になり出した。それで、先代のときから来ている常連客に、絵について聞いてみたりした。男のことは言わず、何気ない調子を装って、いろいろ情報を集めてみたが、絵のいわれについては何もわからなかった。


 近くの山に登ったことがある常連客を掴まえて「この風景って、近くの山からのものなの?」と尋ねてみたりもした。だが、せいぜい「街並みの寂れようは似てるかもね」といった程度で、はっきりとした返事は返ってこなかった。

 何か情報があれば、今度、男が来たときに話してあげられるのにな、と思っていたのだが、結局、伝えるべきほどものは何もないまま、一月ほどが過ぎた。



 ある日を境に、男は店に来なくなった。


 マスターは最近、開店直後に男が来ることを見込んで、準備を整えて待つのが日課になっていた。ひとつだけコーヒーカップにお湯を注いで温めて待ち、それが冷えていくのを見て、ああ、今日は来なかったか、と思うのだった。


 それが一週間続き、二週間経過して、男はもう来ないかもしれない、と思うようになった。それでもマスターは、準備だけはすることにした。男に義理立てしたわけではなく、もうそれが日課になっていて、やらないとなんとなく気持ち悪くなるからだった。



 そして、そろそろ冬に差し掛かろうとしている頃。


 朝早くの店内に、来客を告げる呼び鈴が鳴った。

 マスターは店の奥から返事をしながら、あの男が来たのかな? と思った。


 いつものようにコーヒーを一杯、出せる準備はしていたものの、もはや、なぜそれをやっているかを考えなくなりつつある頃だった。まあ、朝早く客が来ることもあるかもしれないし、やっていても損はなかろう、という程度の気持ちに変わりつつあった。

 ともかく、店の奥から顔を出し、ほぼ条件反射的に店の奥の席を見る。


 そこには誰もいない。


 広くもない店内を見回したが、やはり誰もいない。


 もしかすると、男を恋い焦がれるせいで幻聴を聞いたのかな、とマスターは思ってみた。それほどまでに私はあの男が恋しかったのかと。


 だが、なんとかそう思って納得してみようとしたものの、実際にはそういう感情はなく、単に呼び鈴が鳴ったような気がしたが、聞き違えただけというのが実際のようだった。

 もしくは、入ろうとした客はあったけど、まだ開いてないと思って帰ったのかもしれない。


 マスターは店の奥に引っ込もうとした。


 だが、そのとき、入り口の扉近くの床に、何かが落ちているのが目に入った。近づいて見てみると、破れた紙切れのようだった。拾ってみると、あの青い写真の一片だった。一度しか見ていないが、間違いようがない。


 辺りを見回すと、他にも破れた写真の断片がいくつか落ちていた。全て拾って、近くのテーブルに置いた。


 やはり、あの写真だった。いくつかに大きく破られているが、それぞれの破片を組み合わせると、きっちりと合った。青ざめた色彩で、丘からの風景が映っている。


 だが、違和感があった。写っていたはずの木がない。店の額の絵のように、丘と街並みしか写っていない。


 マスターは額の絵に駆け寄った。


 額の絵には桜が咲いていた。青ざめた風景の中で、桜の花だけが鮮やかな色をしている。



 ああ、あの男はもう来ないんだな。マスターは確信した。

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