微笑みを数える日 ――Blue

 ゼミの担当教授の仕事を手伝った後、大学の校門をくぐった頃には、すっかり夜も更けていた。学生客目当ての飲食店や居酒屋、ビリヤードの店がすっかり営業終了している様を眺めながら駅までの道を歩いていて、ふと、すでに終電が行ってしまった後であることに気付いた。


 下宿しているアパートまでは四駅ある。歩いて帰れないことはないが、結構大変。特に今夜は雪でも降りそうな寒さの上に風もあり、こんな中を延々と歩くのは考えただけでもぞっとする。


 それよりは、少し歩いた先にある、朝まで営業しているカラオケ屋にでも立て籠もって始発を待った方がいいかな、などと考えていると、いきなり何かが肩にぶつかった。よろけて後ろ向きに倒れそうになるのを、なんとか踏ん張る。


「あっ、ごめんよー」


 声のした方を見ると、暗くてよく分からなかったが、自分と同じ、大学生くらいの男が、妙に気楽な感じで手を振っている。それから、大学の方へと駆けていこうとしたが、ふと立ち止まった。そして、なにやらこっちに歩いてくる。


 男は、やけにこっちをじろじろと眺め回して、それから、私の顔の辺りに手を振りながら言った。


「やあ。もしかして、僕のこと見えてる?」


 私は答えなかった。なんと答えるべきかわからなかった。私のその様子を見て、男は、なんというか、女子高生が物珍しいものを見つけた時みたいな、妙に高いテンションで飛び跳ねた。


「やあ、それはすごいや。すごいすごい」


 ますますどうしていいかわからなくなる私。ひとしきり一人で盛り上がった後、男は言った。


「じゃあ、記念に僕がおごるよ。付いてきなよ」


「えっ、どこに……ですか?」


 私が聞くと、男はただ、いきなり私の手を握ってきた。そして、さきほどぶつかってきたときと同じような勢いで地面を蹴り、跳んだ。


 私は彼に引っ張られるようにして宙に浮いた。そしてそのまま、彼に引っ張られるまま、空高くへと浮き上がっていった。


 さっきまで歩いていた道路がだんだん小さくなっていき、ぽつぽつとした街灯や家の明かりが流れ星のように見えるのを眺めながら、私は意外と平静を保っていた。あまりに唐突に予想外のことが起きすぎて、驚いている暇もなかったのかもしれない。


 あっという間に数駅分を跳び、着地したのは繁華街だった。ただ、ほとんどの店は閉まっているようだったが。


「こっちこっち」


 男は手を離すと、どこだかに歩き始めた。私は付いていった。


 数分歩き、着いたのは、明らかにすでに営業終了しているレストランバーのような店だった。私のような貧乏学生がこういう店に行くとすれば、見栄を張って彼女とデートする時くらいだろう。そこに男二人出入ろうとしているのはなんだか妙な感じもしたが、そんなことよりも、すでに閉店していることの方が問題である。


 どうするのかな、と思っていたら、男は何の躊躇もなく、「本日の営業は終了しました」という札のかかったドアの取っ手に手をかけ、引っ張った。ドアは開いた。そして、男が一歩、店へ足を踏み入れると、店の明かりが一斉に点いた。


「いらっしゃいませ」


 さも当然のように、店の奥から従業員がやってきて礼をし、男のコートを預かる。このときはじめて、男が上等そうな黒いコートを羽織っていたことに気付いた。さきほどまで暗がりにいたので、男の様子はよく分からなかったわけである。


 ただ、コートを脱いだ男は、フード付きの上着とジーパンという、どこにでもいそうな普通のラフな格好をしていた。


 私は彼に倣って、着ていたジャンパーを預けて、店員の案内もなく店の奥へと進んでいく男に付いていった。


 男はいかにもVIP席っぽい、仕切りのあるテーブルへと向かい、席に着く。他にしようもなく、私も対面に座った。


「いつもご来店、ありがとうございます」


 ウェイターがやってきて、男に一礼する。


「小腹が空いているんだ。任せるから適当に作ってくれ」


「かしこまりました」


 ウェイターが去って行く。それからしばらくしてようやく私は、テーブルに水の入ったコップと、ワイングラスに少しだけ注がれた赤ワインが、私と彼の前に置かれていることに気付いた。


「一流のウェイターは客が気付かぬ内に仕事をするものなのだよ」


 私の表情から心を読み取ったのか、男がそう言った。それから笑って言う。


「まあ、今のはアシモフの受け売りだけどね。何ていう小説だったっけ? 本当のところは知らないよ、僕も」


 そしてワインをあおる。私もとりあえず真似をした。ワインはけっこうな辛口だった。私は辛い酒は苦手だったが、これはなぜだかうまい気がした。


「よく来るんですか、この店」


 とりあえずの場つなぎ的な感じで、私の口からそんな言葉が出る。さきほどのウェイターとのやり取りを見れば答えはわかりきったことだろ、訊いてどうするんだという突っ込みが頭の中でする。


 だが、男の答えは違った。


「いや、初めてだよ」


「え? でもさっき……」


「なじみ客っぽく振る舞うのって、一回やってみたかったんだよね。なんか憧れない?」


 そう言って男は笑う。……何が何だか理解できない。


 そのとき、ウェイターが音もなくやってきて、魔法のように皿を並べていった。箸を付けるのが憚られるほど芸術的に盛られた薄切りのローストビーフ、鯛の刺身にバジルソースか何かで味付けをしたもの、油淋鶏っぽいがトマトソースベースで味付けしているっぽいものなど、いろいろ凝った料理がたくさんある。


 そして、男の手にはいつの間にか、透明な液体の注がれたワイングラスがあった。見ると、私の前にもそれは置かれてある。今度は白ワインか? と思ってにおいを嗅ぐと、米の香りがした。……米ワイン?


「さあさあどうぞ、なんでも遠慮無く。足りなければ追加するからさ」


「はあ」


 言われて私は箸を取った。……そう。ここはいかにも洋風っぽいのに箸なのである。そのほうが馴染みがあるから私としてはいいが。


 本当に奢りなのか、実はぼったくられるんじゃないかという不安がないわけではなかったが、こここまで来たら、料理を食べても食べなくても、結果は変わらないだろう。だったらここは素直に味わった方がいいと、私は腹をくくることにした。……実際には、いろいろわけがわからなすぎて、もう考えてもしょうがないやと、やけっぱちになっていたというほうが正しいかもしれない。


 ひとしきり飲み食いしている間、私や男は、料理について感想を述べる程度の会話をするだけだった。だが、それも一段落付き、男がワインのおかわりをウェイターに頼んだ頃、私は意を決して尋ねた。


「あなた、一体、何なんです?」


「僕はサンタクロースなんだよ。君に少し早いプレゼントを届けに来たのさ」


「で、実際は何なんです?」


 男は、いつの間にやら現れたウェイターが注いだワインを一口して、ワイングラスを置いた。そしておもむろに言った。


「……実は、僕は金星人なんだ。地球の文明に興味があって潜り込んでいるんだ」


「実際はどうなんです?」


「僕は25世紀からやってきたんだ。滅びる定めの地球を救うために、過去の過ちを正に来たんだよ」


 私はため息をついた。


「で、実際はどうなんです?」


「逆に訊きたいよ。何なら納得するんだい? 僕が時を操る超能力者だとか? それとも、実はこれは全部夢で、しばらくしたら君は自宅のベッドで起きるとか?」


「いや……事実が知りたいわけなんですけど」


「僕の正体がサンタクロースというのは事実じゃないと?」


「言いたいことはわかりますよ。あなたが言っていることが事実かそうでないか、私には確かめようがない、ということでしょう。それはそれとして、あなたが言うところの『事実』は何なのか、を聞きたいんです」


「まったく、学生ってやつは無駄に理屈っぽいんだよな。まあ、調べ物や実験や、そういうことばかりしてるんだから、しょうがないかもしれないけどさ」


 非難めいたことを口にしながらも、男は特に気分を害した風でもなかった。むしろ、会話を楽しんでいるように見える表情だった。


「あなたは大学に在籍していたんですか?」


「おっと、その切り口はいいね。それに対する返答で、ある程度、可能性が絞られるからね」


「正体を明かせない存在なんですか?」


「いや、別に。さっきからサンタクロースだって言ってるじゃないのさ」


「つまり、あなたの言うところの『事実』では、あなたはサンタクロースだ、ということですか?」


「君こそ、正体はなんなのさ」


「え?」


 私は何か答えようとして、言葉に詰まった。


「そもそも、僕は本来、誰の目にも見えないし、普通の人なら存在していること自体、認識できないはずなんだ。でも、君は僕を認識しているし、こうして話もしている。僕はむしろ、君の正体に興味があるね」


「僕は……」


 普通の人間だ、と言おうとしたが、やめた。あまりにも無意味な言葉だからだ。代わりに、湧いてきた疑問を口にする。


「あなたが誰の目にも見えない、ということなら、この店の店員はどうなんです?」


「彼らは僕らのことなんか見ちゃいないさ。仕事をこなしているだけなんだから」


 それはなんとも理屈に合わない、変な言い回しに聞こえた。だが、具体的に何がどう変と指摘すべきなのかは思いつかなかった。


「君はたぶん、今夜は奇妙な出来事に巻き込まれたと思っているんだろうと思う。妙な人と出会って、その人となぜか飲むことになったって。でも、その気持ちは僕も同じなんだ。僕が君に対して抱いている印象は、たぶん、君が僕に抱いているのと似ているんだと思う。僕にとって僕は普通の人間で、君は不思議で変わった人なんだ。君に、正体は何? と訊かれても、僕は平凡で普通の人間だ、としか答えようがないよ」


 私は腕を組んで唸っていた。


「そういうことは考えなかったなあ」


「まあ、そういうことで、お互い余計な詮索はせずに、楽しくやっとけばいいんじゃないの? なんならサンタクロースということで納得すればいいからさ」


「それ、やけにこだわりますよね。何か意味があるんですか?」


「あるっちゃあるよ。君が期待することじゃないけど。単純にクリスマスが近いから、ちょっと早いクリスマス会ってことでいいんじゃないかと思っただけでさ」


「知らない人二人で、ですか?」


「そういうクリスマスがあったってよくない? まあ、実際はクリスマスじゃないんだけどさ」


 男がワイングラスを掲げたので、私もそれに付き合って、同じようにしてグラスを掲げ、軽く合わせた。そしてお互い、ワインを飲み干す。


 それからしばらくは、何をするでもなくゆっくりしてから、どちらからともなく店を出ることにした。


 入り口で預けた上着をそれぞれに着直して、店を出る。いつの間にか夜はすでに白みはじめている。


「本当は君の家まで送っていってあげようと思っていたんだけど」


 男は口元をにやりと歪めながら言った。


「これ以上、君に知恵熱を出させるのも何だから、ここで別れよう」


 私は腕時計を見ながら言った。


「そうですね。そろそろ始発が来ますし、大丈夫ですよ」


「それでは、また、縁があれば」


 私は腕時計から目を離し、返事をしようとした。だが、すでに男はどこにもいなかった。夜明けの繁華街の通りには、それぞれの店の開店準備をしている人や、駅に向かう人がぽつぽつと見えただけだった。

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