夕紅とレモン味 ――Lime

 蝉の声が湧き出る中、森の道を歩き続ける。


 道幅は三人ほど並んで歩けるくらいはあり、よく踏みならされていて歩きやすい。道の左右に生える木々は天に向かって手を伸ばし、空を覆い隠している。そのために森は薄暗く、ひんやりしている。だが、どこからともなく延々と鳴り止まない蝉の声を聞き続けていると、熱気が立ちこめてくるように感じる。額に浮き出た汗を手の甲で拭い、歩き続ける。



 どれくらい歩いただろう。突然、道の先から黄色い光が飛び込んできた。地平線に沈もうとしている大きな太陽が、覆い被さるようにまっすぐ光を投げかけてくる。手をかざして光を遮りながら、道なりに歩いて行く。眩しくて周囲の様子はわからなかったが、蝉の声の合間には草の揺れる波音が漂いはじめ、涼やかな向かい風には葉と土の香ばしいにおいが乗っている。


 やがて道は緩やかに向きを変え、太陽も目の前から脇へと逸れていった。そうしてようやく、辺りの様子もわかるようになってきた。今いる場所は小高い丘になっていて、周囲が遠くまでよく見渡せた。振り返ると、すでに森は遠くに見えた。



 そこは森に囲まれた、一面の草原だった。腰あたりの長さまで生い茂った草の海が、西日を浴びて黄金色に染まり、風を受けて波打っている。その中をかき分けるように乾いた土の道が続いており、それを辿って丘を下っていくと、丸太小屋が二軒、並んで建っている。さらにその先には、石造りの小さな橋へと行き着くようだった。橋の下には川が流れているのだろうが、ここからでは草に隠れて見えない。いずれにしても広い川ではなさそうだった。



 道に沿って丘を下りていく。道を下るごとに蝉の声は小さくなり、草の波の音が大きくなっていく。沈む太陽は熱気を放っていたが、風と、波の音がそれを吹き飛ばすようだった。


 その波の音の中に、ふと、子供の声が微かに紛れているような気がした。辺りを見回したが、特にそれらしいものは見当たらない。草は規則正しく波打っており、中に何かが紛れているようには見えなかった。


 ただ、小屋の裏手に、小屋と同じくらいの高さの木が二、三本あるのを見つけた。さきほどは小屋の影になっていて見えなかったのだろう。


 木の幹や枝は細く、頼りないように見えた。ただ、その枝にはたくさんの葉をつけ、濃い緑を湛えており、元気そうにも見えた。


 その木の下に、人影があった。子供ではなさそうだった。その人は枝葉の中に手を伸ばしていた。やがて手を抜き出すと、今度は地面に置いてあるかごの中へと入れる。


 しばらくして、その人は手を止めた。それからこっちに振り返り、会釈した。何か言ったようだった。少し距離があったのと、草や風の音に埋もれて聞き取りづらかったが、何と言ったのかはわかった。


 その人は頭に被っていたタオルを外し、額を拭った。それから、そのタオルを持った手を小屋の方に向けた。


 小屋に向かって、道をさらに下る。小屋に辿り着く手前で、さきほどの人と合流した。


 具体的な歳まではよくわからなかったが、中年の男性のようだった。白いカッターシャツに暗い灰色のスラックス、黒の革靴といった服装で、タオルを肩にかけ、小さなかごを抱えていた。


 痩せ気味で、顔色が良くなく、疲れ切っている様子に見えたが、表情は穏やかだった。


「さあ、どうぞどうぞ」


 案内されるままに、一緒に小屋の扉の前まで行くと、男は扉を開けてくれた。中に入る。


「どうぞ、お掛けになってください。大したものはありませんが、何かお飲み物をお出ししましょう」


 小屋の中は、外から見た印象よりは広かった。簡素な作りで、これといった装飾は何もない。床も壁も天井も、切り出された木材そのままで、表面にニスを塗っているだけだった。家具は四人がけの四角いテーブルとイスだけ。あまり使い込まれている様子もなく、作りたての家のようだった。


 部屋の隅にはレンガ造りの暖炉があり、その側にある調理台の周辺には鍋などが積まれていたり、天井には何かの草が吊されていたりと、その周辺だけはごたごたして、生活感が漂っていた。


 暖炉には火は入っていなかった。かまども兼ねているようで、火床の手前には金網が置かれ、その上には蓋のついた寸胴の鍋がひとつ置いてあった。


 男は調理台のところでなにやらやっていた。かごの中から丸くて緑色のものを取り出し、包丁でそれを切る。そのときに瑞々しい音が聞こえたが、あとは背中で隠れてよくわからなかった。


 ほどなくして、彼は大きめの湯飲みをテーブルに差し出した。


「さあ、どうぞ」


 湯飲みの中身は透明な液体だった。よく見ると、先ほど切っていた実の皮らしきものの細切れが底に沈んでいる。氷などは入っていないが、湯飲みに触れるとひんやりしていた。口に運ぶと、適度な冷たさと、微かに柑橘類の甘い香りと、酸味があった。


「収穫の時期に向けて、少し摘んだものなんですよ」


 暖炉に火を入れながら、男は言った。


「少し間引いておいた方が、実が大きくなるんです。まあ、私も詳しくは知らないんですけどね。聞きかじりですよ」


 男は照れ隠しに笑った。


 風を受けてであろう、入り口の扉や、後ろにある窓がときおり音を立てる。また、子供が遊んでいるような声が聞こえた。微かではあったけれど、聞こえる。


「今日はスープにもこの実を使おうと思っています。さわやかな酸味が加わって、いいと思うんですよね」


 男は鍋の蓋を取って覗き込み、鍋の中に入っていた、おたまであろうもので中身をかき混ぜた。


 やがて、鍋が煮立つ音が聞こえてくると、男は調理台から何かを手に乗せ、鍋に入れた。しばらくすると、小屋の中にさわやかな香りが漂い始める。

 男はどこからかミトンを取り出して両手に着けた。黄色地で、手の甲のところに赤いチューリップのワッペンがあった。


 男は鍋を調理台に移した。そして、ミトンを外しておたまで鍋の中身をすくい、取っ手の付いた円筒形の陶器のカップに流し込む。


「さあ、できましたよ、どうぞ」


 男はカップをテーブルに差し出した。

 中身は野菜スープのようだった。具として浮かんでいるのは、キャベツ、人参、ピーマン、とうもろこしと、さきほど入れていた緑の実の皮。ただ、他にも煮込まれた具材はあるようで、少なくともスープの色の赤身からして、トマトは入っているようだった。油は全く浮いておらず、本当に野菜しか入っていないらしい。


 カップを手に取り、一口含んでみると、やはり、野菜以外のものは何も入っていないようだった。せいぜい塩が入っているかいないか、という程度。それでも、この素っ気ないスープが、今の雰囲気に妙に馴染んでいた。味としては酸味が強かったが、さきほどの実の香りのおかげか、なんとなく甘く清涼な味わいに感じられた。


 気がつくと、カップの中身はすっかり空になっていた。


「お疲れでしたら、隣の小屋で休むことが出来ますので、ご自由にお使いください」


 男は調理台に戻って、何か作業をしていた。


 小屋を出ると、空は黄金色から少し赤みを帯びていた。太陽はさきほどより沈み、赤く大きくなっている。差し込んでくるぬるい熱を吹き飛ばすように心地良い風が抜けていき、草が波音を立てている。


 そのとき、視界の端に何かが見えたような気がした。自然の中に、何か人工物が紛れていたような気がする。道の淵の草むらをざっと目で追ってみる。すると、揺れる草の合間に、ちらちらと白いものが見えた。


 草むらの中に手を入れて、それを取り上げる。それは白くて丸いボールだった。サッカーなどで使うボールに比べると小さめで、表面はつるつるしている。押してみると簡単に指が沈み込んだ。


 そのとき、また、子供の声が聞こえたような気がした。何人かの子供が、遊んでいるような声に聞こえた。そう、ちょうどこういうボールを使って遊んでいるような。

 辺りを見回すが、誰もいるようには見えない。ただ、草むらに隠れている可能性はある。声がしたような気がする風上に向かって、草むらに分け入ってみることにした。



 草むらの中を歩いて行くのは、水の中を歩くのと少し似ていた。片腕にボールを抱えながら、もう一方の腕で草をかき分けるようにして、一歩一歩、ゆっくりとしか進めない。


 歩いている間は、草をかき分ける音が邪魔をするので、ときおり立ち止まっては、辺りを見回しつつ、声が聞こえないか確かめる。だが、草むらに入って以来、子供の声は一度も聞き取ることはできなかった。


 草をかき分けて進んでは立ち止まり、周囲を確かめ、耳を澄ませ、再び草をかき分け。どのくらい繰り返したか。何度目かに立ち止まったときに後ろを振り返ると、思ったよりも小屋が遠くに見えた。あまり遠くまで行くと、帰り道がわからなくなるかもしれない。そんな気がしてきて、そろそろ引き返そうか、と思い始めたとき、草の音に紛れて、別の音があるのを認めた。立ち止まってボールを抱えていない方の手を耳の側にやる。やはり何か、音が紛れている。


 音のする方へ進んでいく。進むにつれ、それは、水の流れる音だとわかってきた。ただ、水音が大きくはっきりするにつれ、草の長さも少しずつ長くなっていき、今では胸の辺りまで草に浸かるようになった。本当に草をかき分けながら進まなければならなくなる。こうなると、元来た道もわからない。振り返っても草しか見えない。見上げれば、燈色に染まった空は見えるものの、太陽は草に隠れて方角もわからない。


 後悔が頭をもたげ始めてきたとき、草むらが途切れ、その奥に小川が現れた。


 それは、頑張れば跳び越えられるくらいの幅しかない、小さな川だった。本当に川と呼んでいいのか、躊躇してしまうようなささやかなものだった。それでも、水の流れる音は心地良く、なにより、草むらから出られた安堵感から、腰が抜けたようになってしまい、崩れるように川べりに座り込んだ。抱えていたボールは横に置く。そうして、水の流れをひたすら目で追い続ける。


 水面は夕陽を浴びてきらめいていた。水は澄んでいて、川底まで見えた。川幅のわりに深さはそこそこあるようで、深いところだと膝下くらいまではありそうだった。何かいないか探してみたが、魚などは見つけられなかった。


 ふと、視線を上げると、川の向こうの遠くで、先ほどの男が、しゃがみ込んで何かやっているのが見えた。草に隠れて彼の手元は見えなかったが、頭にタオルをほっかむりしているのはわかった。その頭が、ときおり揺れている。やがて男は立ち上がり、一歩進んだと思ったら、またしゃがんだ。そして、同じ動きを繰り返す。


 しばらくしゃがんでは立って一歩前に進み、またしゃがむ。そうやって少しずつ進んでいく彼を、いつまでも眺め続けた。



 どれだけそうしていただろう。気付いたときには、すでに男の姿はなかった。遠くで鐘の音が聞こえたような気がした。吹いてくる風に冷たさを感じて、そろそろ小屋に帰った方がいいような気がしてきた。


 腰を上げ、手をはたいたとき、川に何かある様な気がした。よく見てみると、白いボールが川べりの浅瀬に引っかかっているのが見えた。


 持ってきたボールがいつの間にか川に落ちたのかと思い、脇に目をやると、置いたボールはそのまま、そこにあった。川のボールは川上から流れてきたのかもしれない。川の流れに逆らって目で辿り、川上の方へと視線を持って行くと、奥の方からまた同じようなボールがこちらに流れてているのが見えた。ボールは川底の石などに当たって右に左に揺れ動きながらも、だんだんとこちらに向かってくる。やがて目の前の川べりで浅瀬に乗り上げ、そこで留まった。 


 ボールをすくい上げる。川の水は思っていたより冷たかった。ボールはみっつとも同じもののようで、白くて小さくて柔らかめで、何の模様もなく、つるつるしていた。


 再び、川上の方に目をやる。もう、何も流れては来ない。声が聞こえるわけでもない。誰かいるのか、確かめに行こうかと思ったが、どうしても、そちらの方に誰かがいるようには思えなかった。それよりももう、小屋に帰った方がいいのではないかと思えた。


 帰るとはいっても、元来た道を戻るのは難しかった。今となっては、背の高い草の生い茂る中を、どうやって歩いてきたかもわからない。


 川上の方をぼんやりと眺めながら考えを巡らせていると、さきほど丘の上から見下ろしたとき、石橋の近くに小屋があるように見えたのを思い出した。川を下っていけば、あのとき見えた石橋に行き当たるかもしれない。


 みっつに増えたボールをどうするか迷ったが、全てそこに置いていくことにした。川の中に残っていたひとつも引き上げて、全てまとめて、再び川へと流れていかないと思われるところに置いておいた。


 川の流れに従って、その側を歩いて行く。川べりは草が茂っていなくて歩きやすかった。しばらく歩くと、思った通りに石の橋が見えてきた。そこから道へと上がると、さきほどの二軒並ぶ小屋のところへと戻ってきた。


 男は、隣の小屋で休めると言っていた。扉を開けて中を覗き込むと、中の作りはほとんど、最初に入った小屋と同じだった。暖炉や調理台はなく、代わりにベッドが一台あった。寝具はきちんとたたまれており、清潔そうだった。一休みしようかとも思ったが、特に疲れている感じはしなかった。それで、中には入らず、扉を閉めた。


 最初の小屋を覗き込むと、誰もいなかった。テーブルは片付けられ、暖炉の火は消えていたが、状態はほとんど先ほどのままだった。実を入れていたかごもそのまま、調理台に置かれている。扉を閉めた。


 石橋を渡り、さらにその先へと行ってみる。しばらく歩くと、さきほど男がいたらしい場所へと行き着いた。

 そこは畑だった。畝だけがあって何もないところも多かったが、細い緑の葉をたくさん延ばした背の低い茎が一列に植わっていたり、木の枝の支柱で支えられた茎から伸びる枝に、赤い実がなっているものなどもあった。さきほど男がいたと思しき畝には、透けるような緑の、小さな苗が一定の間隔で、整然と植わっていた。


 そこから振り返ると、さきほどの小川が見えた。みっつ置かれたボールが遠くに見えた。そこから上流の方へと目をやると、すぐに背の高い草が邪魔をして、どこへ続いているかは見えなくなった。下流のほうは、石橋までは目で追えたが、その先は草に隠れてわからなかった。


 石橋から畑に通じていたこの道はさらに続いていたが、その先にはもう、何もないようだった。延々と草原が続き、その先には森が見える。他には何もない。そちらには行かず、引き返した。


 再び、小屋の前に戻ってくる。二軒とも、扉を開けて中を覗いたが、誰もおらず、先ほどと何も変わっていなかった。


 小屋の裏手へと回る。暖炉の裏側にあたる辺りには井戸があって、その側には水を汲むための縄の付いた桶と、鈍色の大きめのじょうろが置いてあった。小屋の壁には鍬やスコップ、斧など、農具が立てかけられ、その側には薪が積まれていた。その近くには薪を切るためだろう、切り株の台もある。


 そこから少し先には、最初に男を見かけた、木が数本生えているところがあった。

 周囲はどこも赤く染まっていたが、木の葉だけは夕陽を浴びて鮮やかな緑に光っている。その合間には、深い緑色をした丸い果実がいくつか見えた。


 手が、実の方へと伸びる。が、鋭い痛みを覚えて、引っ込めた。よく見ると、短い枝のように見えたのは棘だった。裁縫で使う針のようなものが、枝のところどころから生えている。

 小指の傷ついたところを口に含み、軽く吸う。口を離してみると、さほど大したことはなっていなかった。

 改めて、今度は慎重に手を伸ばし、実をひとつもぎ取る。その実は熟し切ってはいないようだが、食べられないほど硬かったりするわけでもなさそうだった。一口、かじってみる。景色が滲んで見えた。

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