行きつけの店の、ある常連客

 最近、職場の近くでいい店を見つけた。おそらくもともとは居酒屋だった店で、佇まいもそんな感じだが、そのうち朝にトーストとコーヒー、昼に定食や丼物を扱うようになり、だんだん喫茶店としても大衆食堂としても利用できる店になっていったようである。

 どこで昼飯を食うか、どこで時間を潰すか、どこで待ち合わせるか、どこで飲むか。迷ったらとりあえずその店に行けばいい。コーヒー一杯で長居しても嫌な顔をされないし、もともと居酒屋なだけあってうるさい子供連れなどは来ず、ゆったりとくつろげる。ただし、甘味はない。


 料理のラインナップはオーソドックスで値段も普通、味もたいがいは値段相応だが、たまにうまいものもある。

 この店を見つけてしばらく、私はこの店に連日のように入り浸り、どれが「当たり」なのか、片っ端から注文していった。今のところわかっているのは、元居酒屋なだけあって、焼き魚とか軟骨唐揚げとかはうまい。パスタもうまいが、ちょっと高めか。

 あと、コーヒーには妙に力を入れているようである。ブレンドは普通だが、数量限定のスペシャルコーヒーというのが絶妙。ミルクも砂糖も付かないブラックでのみの提供で、これを飲めば、パンケーキなどを出さない理由がわかる。店としては、コーヒーはコーヒー単独で堪能して欲しいわけである。


 

 店に通うようになって2ヶ月ほど経ち、店のメニューはほぼ制覇し、常連客の顔も見覚えるようになってきた頃。そんな「常連」の中に一人、変わった人物がいるのに気付いた。


 その男は1週間に2日くらいの間隔で見かける。決まった曜日に来るわけではない。見た感じはなんてことなく、ただの白髪混じりの初老の男、といった感じ。地味な色のセーターを着てジーパンを穿き、たいがいは店の一番奥の、トイレに近い、目立たない席にいる。来る時間帯はまちまちだが、朝ならモーニングセット、昼はおすすめ定食と、非常に無難なものをいつも頼んでいる。夜は今のところ見かけたことはない。

 それだけだったら私が注目することもなかったし、もしかしたら「常連」とすら認識しなかったかもしれない。


 私が目を付けるようになったのは、ある時、男が会計をせずにそのまま店から出ていったのにたまたま気づいたからである。


 そのとき私は食後のスペシャルコーヒーをちびちびとやりながら、何気なく店内を観察していた。

 男が伝票を持たず、会計カウンターにも行かずにふらふらと店の外へと出ていったのを見かけたとき、私は、車に何か取りに行ったりしているのかな? と思った。一人で飯を食うときに困るのが、こういう、一時的に席を立たねばならないときである。トイレに行っている間に食い逃げと勘違いされたらどうしようとか、そういうことで思い悩むことがある。悩んだってトイレを我慢するわけにもいかないから、結局行くのだが。


 しかし、男は帰ってこなかった。それどころか、男が出てしばらくすると、店員はその席を片付てしまった。そしてほどなくして、他の客がそこに座った。

 店が警察を呼ぶとか、何か騒がしくなるとか、そういったことはなかった。



 私はこの、偶然出くわしたちょっとしたミステリーに心惹かれた。これはどういうことなのだろう? なぜ男は会計をせずに出ていき、店はそれを気にする素振りすらないのか。


 もっとも、こうしたことに重大な事件や秘密が絡んでいるのはフィクションの中だけの話で、実際にはこういう謎の答えはありきたりなものだろうということはわかっていた。まさか、スパイが情報をやり取りするための符号だとか、そういったことではあるまい。それはそれとして、こうした謎はちょっとした刺激になるし、いろいろ考えてみるのも面白い。


 そのとき私が考えたのは、事前に会計を済ませていたか、ツケにしているか、といったことだった。まあ、だいたいそういう程度のことだろう。

 しかし、つまらない答えだったとしても、答え自体は知りたいものである。



 数日後、私が食後のコーヒーを嗜んでいるときに男が入店してきたのを見たときは、これで謎は解決するだろうと、密かに心踊らせた。

 男が入店したとき、男も店員も、態度は普通と変わらなかった。店員は普通に接客し、男は必要最小限のことだけ言い、お好きな席にどうぞと言われて、以前と同じ、店の一番奥に座った。そしてそれは私の席からよく見える位置だった。私は、もし男が店に来たら、きっとまた同じ席を利用するだろうと睨んでいた。それで私も毎日この席を選んでいたのである。狙った通りの展開。


 しかし結局、謎は深まるばかりだった。男は普通に店員を呼び、普通におすすめランチ定食を頼んだだけだった。店員も全く普通に応対していた。常連だとか、知り合いだとかいった雰囲気はなし。今日もツケにしてねとか、そういったやりとりは一切なし。

 しばらくして、店員は男に定食を運んできた。普通だったら伝票も一緒に持ってきてテーブルに置くが、店員は伝票を持って来なかった。この時点ですでに、男は会計を免除されているわけである。

 男は定食を食べ終えると、おもむろに立ち上がり、店を出ていった。もちろん会計はしなかったし、店員はそれをちらりと目で追ったが、特に気に留める様子もなかった。

 まったくわからん。こんなにつぶさに観察したのに、わからないなんてことがあるだろうか?



 いくつか考えられることはある。たとえば、あの人物がこの店の関係者だとか。男が店のオーナーだったり、ここで働いている店員で、その特典としてタダで飲み食いできるとかなら話はわかる。ただ、それならそれで店員とのやりとりがあっても良さそうな気がする。オーナーや従業員なら、店員と顔を合わせたら挨拶くらいはするだろう。


 その後、何度か私は男と店員とのやりとりを一部始終観察したが、私が知る限り、男と店員は特別何か話し込んだりはしていない。また、男が何か身分証やクーポン券などを見せるようなこともしていない。普通に接客され、注文しているだけ。

 ついでに他の客も可能な限りチェックしてみたが、この男以外にタダで飲み食いしている人はいないようである。


 となると、何らかの見返りとしてタダで飲み食いできる権利を得たのだろうか。有名な画家であるパブロ・ピカソは、とあるレストランのメニューの表紙の絵を描く代わりに、その店でタダで飲み食いできる、という契約を結んでいたらしい。そういう感じのことなのか? この店のオーナーが男に大変お世話になったとか。男がここの地主で、土地を貸す際にそういう契約になったとか。



 私はだんだん、その男を観察するために、その店に行くようになっていた。飯はうまいし、コーヒーもうまかったが、それ以上に男の正体が気になっていた。観察を続けていたら、そのうちわかるかもしれない、と。

 しかし、いくら観察しても、男の正体は皆目見当が付かなかった。誰と話すわけでもないし、飲み食い以外に何かするわけでもない。店の人が特別その男を丁重にもてなしている感じもない。嫌っている様子もない。店員と談笑するわけでもない。伝票を持っていかない点を除けば、他の客と扱いは全く変わらない。


 

 業を煮やした私は、抜本的な解決策に乗り出すことにした。その男の席まで行き、話しかけることにしたのである。

 見ず知らずの人にいきなり話しかけるのはアレだが、そこは営業職なので慣れっこである。


 ある朝、私がコーヒーを啜っているところに、男がやって来た。例によって男はモーニングセットを頼み、例によって店員はコーヒーとトーストだけ持ってきて、伝票は置かなかった。

 店員が去り、男がコーヒーを一口したところを見計らって、私は自分のコーヒーカップを片手に席を立ち、男のテーブルに行った。そして、テーブルを挟んで男の対面に立って言った。


「やあ、突然すいません。あなた、この店の常連ですよね? よく見かけます」


 男は突然話しかけられて驚いたようだったが、とりあえず顔を上げ、コーヒーを啜る手を止めて、応えてくれた。


「え? ええ、まあ」


「私も最近、この店によく来ているんですけど、実は気になっていることがあるんですよね」


「はあ」


「あなた、いつも会計をせずに出ていきますよね。今も店員は伝票を置かずに行ってしまいました。一体、どういうことなんです?」

 

 味も素っ気もレトリックの欠片もない、超ストレートな質問である。恥や体面や様式美さえ気にしなければ、これこそがもっとも手っ取り早く簡単に謎を解く方法だろう。

 こんな身も蓋もない解決法でいいのか、もっと名探偵的な華麗な解決をすべきではないのかという葛藤を乗り越え、この質問さえできれば、もう謎は解けたようなものである。面白くもなんともないが。


 ミステリー作家泣かせの酷い質問だが、それでも私はそれをせずにはいられなかった。なにしろ、もういくら観察したって答えは出そうにない。そして、私は答えを知りたいのだ。答えを知りたい時、もっとも簡単なのは「答えを教えて」と聞くことである。


 ほぼ決定的なこの質問により、事件は解決されたものと私は確信していた。



 ……が、男の反応は意外なものだった。


 男は顔を曇らせ、どう返事をしていいか、わからない様子だった。そこまではまあ、想定の範囲内である。人には言えない何かが理由の可能性もあるわけだから。店長の秘密を握っていて脅しているとか。まあ、仮に脅迫をネタに飲み食いをタダにしてもらっているとすれば、ずいぶんセコい話ではあるが。


 問題は、その次の発言だった。男はしばらく困惑した様子で、何と言うか考えていたようだったが、やがて言った。


「実は、私にもよくわからないんですよ」


 男の様子から、何かをはぐらかすためにそう言ったのではなく、本当に彼自身、よくわかっていないらしいことが見て取れた。あんなつまらない直球な質問をして謎が解けなかったことに、私は一瞬、思考が停止した。


「……どういうことなんです?」


 気がつくと、私は男の対面の席に座り、手にしていたコーヒーを飲み干して、そう聞いていた。


「まあ、つまり、ですね」


 男は考えながら言った。


「もう十年以上前の話なんですが、あるとき私はこの店の店長に、飲食代をタダにしてくれないか、と言ったんですよ。自分でもなんでそんなことを言ったか、わからないんですけど」


「それで、OKと言われた?」


「ええ、まあ、そういうことです」


「それって、あなたと店長が知り合いとか、そういうことは……」


「ないです。そもそも初めてこの店に入ったのがその時でして」


「一見さんでいきなりタダにしろとは、よく言ったものですね」


「ああ、ええ、まあ。自分でもなんであんなことを言ったのか、わからないんですけど」


 よくわからない話である。知り合いでもなんでもない一見の客に飲み食いタダにしてくれと言われて、以来ずっとタダにしている? そんな馬鹿な話があるのだろうか? いやまあ、現実に目の前にあるわけだが。


「その店長さんというのは、今でもいるんですか?」


「いえ、今はもう別の店長になっています。前の人がどうなったかは知りませんが」


 残念な話である。これでこの事件の解決は難しくなった。

 その店長とやらがまだこの店にいるなら、その人から話を聞けば謎は解けただろう。しかし、もういないとなると問題である。


 今の店長に引き継ぎがあった際、あるいは、この男の会計を免除する理由を詳しく聞かされているかもしれない。しかし、どうもその可能性は低いように感じる。直感だが。

 しかし、こうなったらダメモトで聞いてみるしかないか。


 私はテーブルに置かれた呼び出しベルを鳴らした。ほどなくして店員がやってくる。

 私は言った。


「スペシャルのおかわりひとつ。あと、店長と少し話がしたいんですが……」


「私が店長ですが。ご用件は何でございましょうか」


 その店員はよく見かける人だった。黒縁の眼鏡をかけた、背の高いひょろっとした30代くらいの男性だが、店長とは知らなかった。なんにしろ、それなら話は早い。

 私は手のひらを差し出して対面の男を指しながら、言った。


「彼は会計が免除されているんですよね。なぜなんです? 理由は聞いています?」


「いえ、理由は聞かされていません。ただ、先代の店長から、この方からはお金を取らないようにと言われただけです」


 まあ、予想通りである。当たって欲しくない予想だったが。


「その、先代の店長というのは今、どうしているかわかります?」


「いえ。わかりません」


「その方は店のオーナーなんですか? あるいはオーナーだったか」


「いえ、私と同じく雇われ店長ですよ、確か」


 これはどういうことなのか。こんなにストレートな質問を繰り返していて、相手も素直に答えているのに、答えがわからないなんてことがあっていいのか? どうせしょうもない答えのくせに。国家的機密とか秘密結社の陰謀とか地球の存亡が絡むわけでもないんだろ? なのになんでこんなに謎なんだ?



 半ば自棄になった私は、このときふと、ひとつ、あることを思い付いた。そして、思い切ってその思い付きをそのまま言ってみた。


「もし、私もタダにしてくれと言ったら、タダにしてもらえるんですか?」


 店長は首をかしげ、顎に手をやった。


「うーん。それは何とも言えませんが……」


 それから、言った。


「ところで、そもそも、あなたは本当に会計を免除してもらいたいんですか?」


 私は一瞬、そりゃあ、タダの方がいいに決まってるだろ、と思った。しかし、本当のところ、どうだろう。私はタダで飯を食いたいのか? 何の云われもなくタダ飯を食って、平気で店を出られるだろうか? それで満足なのか?


 考えてみると、どうやら私はそれには大きな抵抗を感じるらしい。そのことに私は自分で驚いた。それが自尊心というものなのか、あるいは別の何という感情なのか、私にはわからない。しかし、どうやら私は金を払いたいらしい。払わなくていいとなると心が落ち着かなくなる。もしかしたら、もう二度とこの店に立ち寄れなくなるかもしれない。


 私は言った。


「いえ、いいです。払います」



 かくして、問題は未解決のまま残された。直接的かつ厚顔無恥な調査にも関わらず、男がなぜ会計を免除されているかは謎のままである。店のオーナーなり前店長なりの居所を掴んで話を聞けば、あるいはわかるかもしれない。しかし、そこまでやる気にはなれなかった。どうせきっと、店長の気まぐれとか気の迷いとか、しょうもない答えに違いないのだから、そこまでやる価値もないだろう。男が実は福の神とか、あるいは死神で、もてなさないと店が潰れるとか、オーナーが死ぬとか、そんな突拍子もないオチではあるまい。いや、もう、そういうオチでも構わない。とにかく、もうこれ以上この件を探ることはやめにした。


 それでも、ひとつわかったことはある。私は男が羨ましくないし、飲み食いがタダになっても嬉しくない、ということである。

 これは意外なことだった。私はいままでずっと、金は払わされているものと思っていた。しかし実は、払いたくて払っているらしい。どうも奇妙な感じがするし、その結論に対して疑わしい気持ちもあるが。


 それからも度々男を見かけることがあったが、その度に、伝票を持って会計をする喜びを私が再認識しているのは確かである。

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