丹後ちりめんの足袋入れ

「なあ、浩。この写真はどうかな」

「親父の好きなのにすればいいよ。いいと思うんならいいんじゃない?」


 私は鏡台の引き出しの中を探りながら言った。


「おっかしいなあ。ないわけないはずなんだけど」


 私は、もう立て続けに三度、ひとつひとつ髪留めやら化粧品やらを取り出しては確かめ、目当てのものがないことを確認して元に戻した引き出しから、四度、化粧水の瓶を取り出していた。

 確か一ヶ月前には、この鏡台のどこかの引き出しに、小さな白い紙箱が入っていたはず……な気がする。気のせいだったのか、見間違えか。

 私は後ろを振り返り、壁に掛かっている時計を見た。朝の10時32分。本当なら、退院する母親を車で迎えに行っているはずの時間である。


 心臓カテーテル治療のために四日間の短期入院をし、退院するはずだった母親が突然亡くなったのが、おおよそ半日前。退院予定の前日、21時43分。69歳だった。発作を起こさないための治療に取りかかった矢先に、発作で倒れたのである。

 朝に退院手続きについて母親からスマホに電話があり、夕方に再びかかってきたのが17時41分。そのとき私は夕飯の支度をしていて手が離せず、折り返し連絡しようと思ったが、忙しくて忘れてしまっていた。

 18時25分頃に夕飯ができ、親父を呼んで一緒に食べ始めた矢先、今度は親父のスマホに電話がかかってきた。

 母親は、私と連絡が付かない場合、親父に連絡することがある。たぶんそういうことだろうと思って気にせず味噌汁を啜っていたが、親父の口調が敬語なので、おや、と思った。

 通話を切ると、親父は言った。


「急に容態が悪化したから、すぐ来いって」

「俺も行った方がいいの?」

「そりゃ、そうした方がいいんじゃない?」


 そのとき私は、私らが行ったところで何かできるわけでもないし、二人してぞろぞろ出掛ける必要があるのかね? という思いがあった。と同時に、もし仮に重要な決断に迫られたとき、親父には任せられないから、結局のところ一緒に行くのは確定なんだけどな、とも思っていた。

 私らは夕飯をほっぽり出して車に乗った。病院までは何も無ければ15分で着くが、実際には帰宅ラッシュ時の混雑で30分はかかるだろう。

 そろそろ冬に差し掛かろうという季節で、車の中は冷え込んでいた。暖房が効くには時間がかかる。


 途中、助手席に乗った親父は「大変だ」と繰り返し口にしていた。いい加減うるさいので「ここで焦ってもはじまらないよ。もうちょっと落ち着きなって」と言った。

 親父は「そんなこと言っても、大変だって」と言ったが、とりあえず黙るようにはなった。


 病院に到着すると、休憩所に通され、そこで30分ほど待たされた。その後、現在医師はカテーテル治療中で、もうしばらくかかるからということで、個室の待合室に案内された。

 エアコンの駆動音だけがする静まりかえった個室のソファに親父は力なく座ると、「心臓が痛い」と言い出した。

「親父まで心臓を痛くしてどうするんだよ。やめてくれ」と私は言った。ここで親父にまで発作でも起こされたらたまったもんじゃない。冗談ではない。



 実のところ、私は状況を楽観視していた。この病院を紹介した母親のかかりつけの内科医にも、この病院の担当医師にも、深刻そうな気配は一切なかったからである。治療そのものは問題なく完了するはずで、問題はその後のリハビリの方だという空気があった。


 このところ、母親は体調不良を訴えており、歩くとすぐ疲れると言っていた。私は、糖尿病で通院している内科医に診てもらうことを何度も勧めた。しかし母親は、あそこの内科は完全予約制だから、いきなり行っても診てくれないなどと言って、なかなか行こうとしない。

 そんなある日、自分から寿司屋に行こうと誘っておきながら、着いた途端に「帰る」と言い出したとき、私はさすがに腹が立った。


「そんなに体調が悪いんだったら、どこの病院でもいいからさっさと行けよ! 俺は医者じゃないから、俺に疲れただのなんだのと言ったって何も出来ないんだ!」


 それがきっかけで、ようやく母親は「いきなり行っても診てくれない」内科に電話した。すると医者は「すぐ来い」と言った。連れて行くと、胸部に水が溜まっていることがわかり、そのまま近くの病院に緊急入院することになった。

 そのときやってきた救急救命士は、「早く見つかって良かった」と言っていた。要するに発作が起きる前で良かった、ということである。それがひと月前のことだった。


 入院後の経過は良く、すぐに水はなくなったものの、その後の検査で母親の心臓は慢性的に悪かったことが判明。ただ、狭くなった血管を広げてやりさえすれば、その後のリハビリ次第で良くなるだろう、とのことだった。

 それで、ひとまずは二週間で退院し、短期入院を繰り返す形での治療を行うことになったわけである。そしてこの時は退院から二週間後、短期入院の一回目だった。



 待合室で待つこと2時間。ようやく医師から説明があるとのことで、私達は呼び出された。

 担当医師によると、前日に行った治療は問題なく終了し、特に本人にも異常は見られず、夕飯の配膳があった18時10分までは普通に過ごしていたそうである。だが、18時20分に付けていた心電図のモニターが外れたことを示すアラームが鳴ったため駆けつけたところ、心肺停止状態だった。それから心臓マッサージ等を施して、一時は鼓動が戻ったものの、再び弱くなり、現在は投薬と機械によって無理矢理循環を作り出している状況で、それも稼働できるぎりぎりのところとなっており、見通しは非常に厳しい、とのことだった。

 また、心肺停止状態に陥った原因について探ってみたものの、治療した血管や、他の狭くなっていた血管は血流が通っており、詰まりもなく、脳やその他臓器にも出血等の症状もなく、見たところは原因らしい原因は見つからなかったそうである。

 質問はあるかと聞かれたが、専門の医師でもわからんと言っているものを、素人がどうこう言えるわけがない。実際、見せられた動画や画像を見る限り、確かに致命的な問題が起きているようには見えない。


 そのとき、看護師の一人がやってきて、何か専門用語を言った。知らない言葉だが、意味は分かった。もうヤバいから最後に家族を立ち会わせろ、である。

 私達は観察室に通され、心臓マッサージを受けている母親を見た。そして、その後、診断が行われ、死亡が宣告された。

 父親は泣き崩れた。私にはそれがとても意外だった。妻が死んで泣くような人じゃないと思っていたからである。

 私は泣かなかった。ただ、心の中で言った。


 ――あんた、本当にこんなところで死ぬのかよ。俺より先に死ぬのか。



 私は母親のことを「お母さん」などとは呼ばない。あなたとかあんたとか、そういう呼び方をする。

 そう呼ぶ理由ははっきりとある。


 私は小学校低学年の頃、母の日にスーパーに出掛けた際、一週間に200円の小遣いからなけなしの900円をはたいてカーネーションの花束を買った。そしてそれを母親にプレゼントした。

 すると、母親はものすごい剣幕で私を怒鳴りつけた。その花束には赤とピンクの他、白いカーネーションが一輪入っていた。白いカーネーションは死んだ母親に送るもので、よくもそんなものを寄越したな、ということである。母親は私を花屋へと引っ張っていき、白いカーネーションを赤いものと代えさせた。白は100円で赤は200円とのことで、私は差額の100円を払った。


 以来、私は滅多に母親に贈り物をしなくなったし、「お母さん」とも呼ばなくなった。

 そのことについて、母親は「プレゼントしない口実が出来て良かったね」と言っていた。

 こうしたことはその後も度々あった。私が家の手伝いなどをすると、母親は何かと気に食わないところを見つけては怒鳴りつけるのだった。


 私は早々に家を出ようと思っていた。中学を出たら高校に入学しないで独立しようと考えていたくらいである。しかし、いろいろあってそのままずるずると実家に居続けることになり、腐れ縁となってしまっている。


 私は母親が、本当に私のことを愛しているのか疑問に思っていた。もし死んだら泣くのだろうかとも。そんなこんなで度々自殺願望に囚われたりしたが、死んだら結果がわからないという、ものすごくクールな見解により、死なずに至っている。


 そのため、私が母親の死に目に会うことになるとは、正直実感が湧かなかった。過去には何度か母親にさっさと死んで欲しいと思ったことはあったが、最近はどうでもよくなっていた。今は、ざまあみろとか、そういう気持ちはない。ただ純粋に、非現実的な光景に映っただけである。



 亡くなった母親の身なりを整えたりする必要があるとのことで、私達は観察室から一時、待合室に戻ることになった。親父は震える手で私にしがみついてきた。そのまま待合室まで親父を支えるようにして戻ると、親父はソファに倒れ込むようにして再び泣き崩れた。

 親父は、自分の父母が死んだときも泣かなかった。それに、私同様、母親にはやることなすことさんざん文句を言われ続けていたので、母親が死んでも絶対泣かないと思っていた。母親は親父に愛されていないと思っていたはずだが、死に目に泣くくらいには愛していたのだと思うと、この光景を見せてやりたかったように思った。死ななきゃ分からないことって、あるものである。


 親父が泣き止みだしたところで、今後の段取りを話し合う。葬儀屋を呼んで遺体を引き取ってもらい、葬儀の打ち合わせをする必要がある。

 母親本人は簡素な葬儀でいいし、父親方の墓には入りたくないから、遺灰は海にばらまいてくれとよく言っていたが、具体的な準備はしていなかったので、そうした独創的な葬儀をやるのは難しい。結局、祖父母の葬儀と同じやり方で、ただ、誰も呼ばない小規模なもので行う、ということになった。というわけで、古くから付き合いのある葬儀屋を呼ぶ。


 そうした事務的なことを勧めることで、多少親父も落ち着いてきたらしい。もう泣き崩れはしなかったが、代わりにに愚痴っぽくなった。「入院なんかしなきゃ良かったんだ」「こんな治療なんの意味もない」「なんでこんなことに」といったことを繰り返していた。

 私は言った。


「結果的に言えば、この入院は無駄だったわけだけど、あれは突然死しないための治療なんだから、やらなきゃやっぱり死んでたよ。家で発作を起こすよりも、ずっといい環境で蘇生処置を受けられたんだし、そもそも手術のせいで死んだわけじゃないじゃない」

「そうか? 手術のせいだろ、こんなもん」

「さっき説明を受けただろ? 合併症等はなかったし、治療部分に問題はなかったって」

「そんなの医者が言ってるだけだろ」

「実際、画像を見ても説明の通りだったじゃない。それに、カテーテル手術で失敗が起きた場合、もっと別の形で問題が起きるはずなんだ。前に調べたことがあるけど」


 親父はしばらく沈黙した。そして唐突に言った。


「かわいそうに。なんにもいいことない人生だったな」

「いや、親父、それはないだろ」

「いいのは浩だけだったな。病気ばっかりして、どこも行けなかった」


 これは、親父が一応息子を愛しているらしいことを知って喜ぶべきところなのだろうか。それとも、ヘタクソなお世辞と取るべきなのか。もしくはそういう問題じゃないか。


 母親が病気がちだったのは事実である。長いこと糖尿病で通院していた。ただ、入院は一時的なものだけで、ほとんどは娑婆で好きにしていた。食事制限もわりと適当だった。

 ここ数年は疲れやすいと言ってあまり出掛けないし、たまに出掛けてもすぐ「帰る」と言い出していたが、その頃から心臓が悪くなっていたのだろう。自覚がないから検査もしないうちに徐々に悪化したようである。本人は糖尿病の薬の副作用だろうと言っていた。実際は、糖尿病が狭心症を隠していたというほうが正しい。


 母親の人生が幸せだったかどうかは本人が決めることだと思うが、私はおそらく、今のセリフを本人が聞いていたら「あんたに言われたくないわ!」とか「そう思うならなんでもっと大事にしてくれなかったの!」とか言っていたと思う。

 母親が親父に辛く当たっていたのは事実だが、親父も面倒事を母親に任せっきりだった。父方の祖母の介護や葬儀、法事などをほとんど母親に任せていたし、それで感謝の言葉もなく、「やらなくてもいいけど、やるならやれば?」みたいな態度だと母親はよく私に愚痴をこぼしていた。実際にそうだったと思う。


 あと、そもそも親父は人混みが嫌いで、元気な若い頃でも、出掛けると言えば観覧車すら止まっている雨の平日の遊園地とか、雨で動物もほとんど中で引き籠もっている平日の動物園とか、そんなのばっかりだった。どこにも行けなかったことをいまさら憐れむなら、もっと楽しいところに連れて行きゃ良かったんじゃないのかね。わけわからん。



 死に化粧が終わったとのことで、私達は再び観察室に通された。道中、親父はまともに歩くこともできない様子で、看護師に支えながら歩いていた。

 親父が母親の前で再び泣き崩れているのはそれとして、こちらには現実的な仕事が待っていた。入院中に持ち込んだ荷物の引き取りである。観察室の脇にバッグが4つ積まれていたので、なんとか一回で全部持って車まで運ぶ。

 そして、帰ってくると、追加で財布と、化粧品の入った円筒形のバッグを渡された。なんでも、持ち込んでいた化粧品で死に化粧をしてくれたらしい。感謝の言葉を言って、そのバッグを受け取る。再びこれだけのために車まで往復する必要はないだろう。


 ところで、財布を渡されたとなると、もうひとつ用事が増える。テレビ用のカードの返金手続きである。

 この病院ではテレビを使うには、カードを購入して差し込む必要がある。退院する際には残った度数を返金してくれる。母親は部類のテレビ好きで、子供の頃は毎日テレビのある近所の家に上がり込んだきり帰って来ないから、困り果てた親が仕方なくテレビを買うことにしたと本人が言っていた。というわけで、カードを買わないはずがない。

 しかし、どこを探してもカードがない。そこで看護師に、病室にカードがないか確認するように言った。結局カードはどこにもなかった。もしかすると、荷物の中に紛れ込んだのかもしれない。


 いちおう、提げていた化粧品箱も改めておこうと思い開けてみると、カードはなかったがスマホが紛れ込んでいた。母親は機械オンチで、度々スマホの操作等で私を頼ってきたこともあって、このスマホは実は使い慣れている。

 確認すると、最後の通話履歴は17時41分。私宛のアレである。今となっては何が言いたかったかわからないが、おそらく、退院の日に何時に迎えに来て欲しいかなどを伝えようとしていたのだろう。最後の別れを言いたかったと考えるのは感傷的すぎる。

 ブラウザの履歴を見ると、狭心症など病名や、病院、医師の名前などを検索していたようである。あとは、リハビリ関係の老人ホームを検索しているものもあった。

 メールを確認すると、前回の緊急入院から退院した後から入院当日までの2週間に、最近疎遠になっていた友人2人とメールをやりとりしていたことがわかった。あとは、親父からのメール。親父はメールの出し方がわからないと言って、必要な時に必要なメールを出したがらないので、練習のために入院中は毎日メールを寄越せと通達されていた。結局3日間で1日しか出していなかった。

 葬儀は親父と2人だけでやるつもりだが、後にこの友人達には母親が亡くなったことを伝えておくべきだろう。


 しばらくして葬儀屋が来て、遺体の引き取りと共に私達も葬儀場に行き、打ち合わせを行う。

 いろいろ必要なものはあるが、特に当面問題になっているのは、遺影用の写真と、出棺前に入れる思い出の品々的なやつ。そして、葬儀代だのお布施だの火葬代だのを支払うための現ナマである。


 家の預金は父親名義の銀行口座に入っているが、母親が管理しており、隠していた。親父は金銭感覚が変なところがあるので、大金を持たせると何に使うかわからない。それで、手を付けられないように警戒していたわけである。

 何にしろ、いま一番大事なのは現金なので、それを捜索するのは私の役目となった。そのついでに、出棺前に入れるものを探すことになる。



 家に帰った私達を待っていたのは、冷え切った夕飯だった。親父は温め直しもせずにそれを食った。それからアルバムを探し始めた。

 私は食欲がなかった。それよりも仕事を進めたい。


 ――さて、それで、話は冒頭に戻る。


 私は通帳と印鑑を探しているわけだが、それ以上に見つけたいものがあった。それは、西陣織の足袋入れである。

 これは私が母親に送った、数少ない品のひとつである。小学6年だったと思うが、丹後に修学旅行に行った私は、持ってきた小遣い3000円を全額注ぎ込んで、丹後ちりめんの何かを買おうとしていた。

 そもそも3000円で買える丹後ちりめん製品自体がほとんどなかったが、なんとかようやく財布を見つけて、買って帰ったのである。

 母親は喜んでいたが、その財布を使うことはなかった。私はそのことをいつも疑問に思っていた。何故使わないのかと。


 高校生になってから、あの財布はどうしたのかと聞くと、あれは財布ではなく、足袋入れだったのだと聞かされた。財布と間違って買ってしまったわけだが、そのことを黙っていたのである。

 母親は足袋なんか使わないから、それは長いこと箱にしまわれたまま放置されていた。大掃除の際に度々見つけたが、たいがいは使わないバッグなどと一緒に押し入れの引き出しに入っていた。そして一ヶ月前。母親が緊急入院した際に荷物をまとめた際は鏡台の引き出しの奥にしまわれているのを見た。


 母親とはいろいろあったが、死んでしまった者をどうこう言っても仕方ない。せっかくだったらあの足袋を入れてやろうと思ったわけだが、この肝心なときに、どこに行ったのかわからない事態になった。


 さんざん調べた鏡台は諦めて、私はついに総当たりをやることにする。押し入れのタンス棚をひとつずつ引き出しごと抜いて改め、確実に足袋入れや、ついでに通帳や印鑑がないことを確かめたものだけを部屋の隅へと積んでいく。

 そうこうしているうちに、通帳や印鑑は出てきた。それぞれ、使っていないバッグの山の中のひとつから出てきた。これで当面の問題は解消したわけだが、足袋入れは見つからない。


 私は時計を見た。14時15分。もう1日以上寝ていないことになる。さすがに頭がぼうっとしてきたが、まだやることがあるので頭を振り、立ち上がった。そして、車に乗り込む。



 私が向かった先は、近所の市場だった。私はバナナやりんご、おはぎなど、葬儀屋に買うように言われたお供え物をかごに入れた後に、切花コーナーへと向かった。私は鈍い頭を働かせつつ同じところをぐるぐると3周して、ようやく目的のものを見つけた。白いカーネーションである。

 仕返しや嫌がらせのつもりはない。ただ、私には、あのとき受け取ってもらえなかったものを受け取ってもらう必要があった。そしてそれは母親にも必要なことのはずだった。



 家に帰った私は、バケツに水を張ると、カーネーションを差して玄関に置いた。すると、親父が一冊のアルバムを抱えてやってきた。一瞬、バケツの花を不審そうに見たが、それについては触れなかった。

 いわく、遺影を葬儀屋に頼むと高いけど、近くの写真屋に引き延ばしや加工を頼めば安くできると葬儀屋の担当の人が勧めてくれたらしい。そういうわけで、写真屋に行くことにする。


 写真屋で店員にどの写真にするかと聞かれ、親父が指さしたものを見て、私は仰天した。よりにもよって母親が一番太っていた頃の写真だった。

 親父は言った。


「この頃が一番幸せだったから」


 いや、それはわからんけど、この写真は本人が嫌がるのでは。

 ただ、親父の持ってきていたアルバムの中身はだいたい同時期のものなので、要するにどの母親も太っており、私はしょうがなく、その中でもマシなのを選んで勧めることにした。結局はそれで決まった。


 写真屋から帰ると、親父は銀行から当面必要なお金を引き出す使命を帯びて、そのまま車で出ていった。

 私は病院からの持ち帰りの荷物と、押し入れから出したもので大変なことになっている居間へと戻る。足の踏み場もない。アルバムが何冊か散乱しているので、とにかく役目の終わったアルバムは片付けてしまうことにする。


 と、そのとき、そのアルバムの中に、ひとつだけ紙袋に大事そうに包まれているのを見つけた。袋から出して開けてみると、それは両親の結婚式の写真だった。プロが撮っているからめちゃくちゃきれいだし、母親はスリム、親父はイケメンである。しかも写真のサイズも大きいから引き延ばしにも最適。私は叫んだ。


「なんでこれにしないんだよ馬鹿! なんでだよ馬鹿がッ!」


 嗚呼。大事な仕事を親父に任せてはいけなかったのだ。しかし、なんでもかんでも私が全部やるのは無理がある。母親には我慢してもらうしかない。


 とにかく、私の目下の仕事は、足袋入れを探すことである。しかし、空腹と眠気でもはや力が出ない。私はいつの間にか、衣類やバッグの山に囲まれたまま、居眠りをしていた。



 起きたときには、そろそろ夕飯時だった。空腹ではあるが、何も食べたくない。一仕事終えてからでないと落ち着けない。

 ただ、親父に何か食わす必要があるし、私も何か食べておくべきだろう。昨日の余りを温めるだけとする。帰ったら三人で食うつもりで多めに作っていた。当初は一品作り足すつもりだったが、その余力はない。


 親父を呼んで、二人して黙々と昨日と同じ飯を食う。

 ごはんを口に突っ込みながら、今後のことを考える。鏡台にも押し入れにもないなら、残るは本や書類、雑貨、財布、薬などの入っている元テレビ台の引き出ししかない。いまはテレビは別に移され、ビデオデッキなどを入れるところには本や雑誌、あとは未開封のジャムとかが詰まっている。ただ、この辺はよく使う物ばかり入っているから、アレがありそうには思えなかった。しかしもう、他に探すところはない。


 思い立つとすぐやりたくなる質なので、食事もそこそこに、私はのろのろと元テレビ台へとうごめき、ひとつずつ引き出しを確認していった。案の定、最近の領収書とか、小銭入れとか、電卓とか、電池とか、取扱説明書とか、インスリンの注射針とか、そんなのしかない。

 ただ、そんな中に妙なものが見つかった。私が幼稚園の頃の写真が入った封筒である。私はこの辺をよく開け閉めしているし、掃除することもあるから、よく知っている。ごく最近までこんなものはなかったはずである。いつ、どこから持ってきて入れたんだか。

 他にも、未使用の束になっている一番下の封筒から、同じく幼稚園で送られた、折り紙のメダルに写真を貼った誕生日記念品が出てきた。こういうのをどこかに保管していたことは驚きではないが、こんなところから出てくるのは驚きである。

 意外な発見物はあったものの、結局、足袋入れはやはりなかった。


 気付けば親父は食事を終え、自分の分の食器を片付けて、自分の部屋へと戻っていた。

 残念だが、もはや私の体力的に限界だった。足袋入れは諦めるしかないだろう。明日のためにも寝た方がいい。


 最後にひとつ、これは在処がはっきり分かっているものがある。私は電話機の台として使われている、小さなチェストの引き出しを開けた。母子手帳と私のへその緒が入ったケースがある。

 母親は自分が死んだら、へその緒を棺に入れるようにとよく言っていた。閻魔様に見せるのだとか。



 とりあえず準備はできた。一段落すると、ようやく食欲が湧いてきた。残っていたご飯に手を付けながら、他にやり残しがないかを考える。



 そのときふと、化粧品箱が目に留まった。そういえば、病院から持ち帰ったものについてはまだきちんと改めていない。テレビカードを確認するためにも、チェックすべきだろう。

 私は箸を置くと化粧品箱を引き寄せ、開けてざっと見回した。カードらしきのはない。そういえば、カードがないのは確認したんだっけか?


 しかし、箱の底に、小物入れらしきものがあるのを見つけた。半月型の布製。手に取ると、上品な手触りがした。取り出してみると、それは繊細な花柄があしらわれ、赤から黄土色へのグラデーションが見事な織物だった。

 開けてみると、中には爪切りと小さなはさみ、安全カミソリが入っていた。


 私はそれらを取り出し、空になった小物入れを呆然と見つめた。そして両手で握りしめると、笑い声をあげ、叫んだ。


「なんだよそれ! 見つからないわけだよ!」


 私はそれを握りしめたまま、この2日で初めて涙を流した。

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