南国の木漏れ日
私はスーツの袖で、額ににじんでいる汗を拭いた。
これだから日本の夏は嫌いだ。
ゆらめいているアスファルトも憎らしく、窓越しににらみつける。
「いらっしゃい」
テーブルにおしぼりを置いてくれたのは、この店のマスターのようだった。きっちりと切りそろえた口ひげが、なんとなく優しそうな印象を与える、そんな人だった。歳は……よくわからない。
私はさっそく、おしぼりで顔にへばりついた気持ちの悪い汗を拭いた。
「なにをいきますかね」
マスターの言葉に、私はテーブルの周りを見渡す。
ニスも塗られていない、手作りといった風の木製のテーブルには、いましがた自分で畳んで置いたおしぼり以外には、なにもない。
「メニューはないんですか?」
マスターは笑った。
「ここは喫茶店ですよ。喫茶店というと、あなたは何を注文しますかな?」
私は首をかしげる。すると、マスターはえらく芝居がかった調子で両腕を広げた。
「地面からこみ上げる熱気、止まった風、真夏の午後。あなたはたまらず、日陰へと逃げ込んだ。ここにはくつろげるイスがあり、テーブルがあり、なにより渇きを潤す水辺がある。――さあ、あなたは何を求めますか? 都会のオアシスに腰を下ろして」
すでに決まった台詞なのか、それとも即興なのか。まるで歌でも唄うかのように言葉を並べて、そして再び私に笑いかけてくる。私は頭をかいた。
「いやあ……あなたはなかなか詩人ですな。私にはついていけませんよ」
「なに、たいしたことではありませんよ。ここはそういう店なんです」
マスターがくるりと背を向ける。
「疲れた人々にゆとりを与える、自然の空間」
踊るようにつま先で向き直り、ひとさし指を立てる。
「ここでは誰もが、詩人になれるのですよ」
よほど練習をしたのか、それとも染みついた動作なのか。この大げさな動きが妙に自然に見えるから面白い。
なんとなく入る店を間違えたような気もしたが、たまにはこういう妙な店というのも悪くないだろう。幸い他に客はなく、窓の外には人通りもない。このマスターに付き合っても、恥ずかしい思いをしなくて済みそうだった。
「では、あらためまして。なにをいきますかね」
要は、希望通りの注文を取ってくれるのだろう。私は何を頼むか考えた。
喉の渇きを潤してくれる、適度な甘さと酸味のある飲み物が欲しい。私は様々な果物の味を思い浮かべた。いちごは酸味が強いし、ぶどうは甘みがありすぎる。せっかく何でもいいというのだから、何か突拍子のないものでも頼んでやろうかとも思ったが、具体的に何にしようかと考えると、何も思い浮かばなかった。
「みかんジュースはできますか? あっ、できれば薄めの味で」
「ご心配には及びませんよ」
マスターは狭いカウンターに戻りながら、背中越しに笑った。
「南国のジュースはのどが渇かないように、ちゃんと山のわき水で薄めているんですから」
「南国に山ですか?」
南国と言っても、もちろん海沿いと決まったわけではないのだが。それでも、南国と聞いて浮かんだ白い砂浜と透き通った海の情景の、どこに山が入るのかが気になった。
いつの間にか、マスターの手にはすでにジュースを満たし、ストローをさしたグラスがあった。
「砂浜でたっぷり遊んだら、山の木々に囲まれて一休みするんです。すてきなところでしょう」
目の前にジュースが置かれた。グラスには水滴がいかにも冷たそうに張り付いて、それが外からの日差しを受けて、妙にきらきらと光っている。
「海と山の国ですか。なかなか楽しそうですね」
「そうでしょう。そのうちご案内できればいいのですけどね」
私はストローを使い、ジュースを一口飲んだ。期待した通りの味。果汁の味がほんのりとするだけなのに、それでいて氷が溶けて薄まったような、安っぽい感じが全然しない。
冷たい感触が喉を通りすぎて、ようやく人心地ついたような気がした。そうしてようやく、いまさらながらにじっくりと店内を見渡す。
壁も天井も屋根もすべて木製で作られており、それらはすべてテーブルと同じく、ニスを塗っていない素のままのものだった。それほど広くはない店内は意外なほど素っ気なく、テーブルとイスの他には何もない。
「他にお客さんはいないんですね」
「ええ、みなさん窓際に座りますからね」
マスターはいつの間にか店の入り口の近くにあるカウンターの方に戻っていて、グラスを拭いていた。
「じゃあ、他の席はいらないんじゃないですか?」
「いえ。必要なものですよ。彼らはそこにいるだけで風景になっているんです」
置物の代わりのようなものですね、と言う言葉を、すんでのところで飲む込んだ。なんとなく適当でないような、つまり風情のある言葉ではないように思える。かといって代わりに何か、気の利いた言葉があるわけでもない。
「風景なら、植物でも置かれてはいかがです?」
「植物ですか?」
意外そうな声が返ってきた。
「植物なら、ほら、見えるでしょう」
そう言われて、再び店内を見回してみる。が、緑というものはまったく見あたらない。もちろん窓の外はアスファルトの地面とコンクリートのビルに囲まれた無機質な世界が広がるばかりで、植え込みなども一切なかった。
壁やイスやテーブルが植物だと言いたいのだろうか。しかしなんとなく、そういう言葉遊びのような、小手先の言葉にも思えなかった。
聞き返すのもなんとなくためらわれて、私は仕方なく窓の外に目をやった。相変わらず窓の外では人々が忙しく歩き回り、車が往来している。さきほどまであそこにいた自分だったのに、たったガラス一枚を隔てただけで、まるで別世界を見ているようだ。
「南国には人はいるのですか?」
自分でも意味のわからない質問をつぶやく。誰にともなく口をついて出ただけの言葉だったが、ここに二人しかいない以上、それはマスターへの言葉となる。マスターは相変わらずグラスを拭きながら、答えてくれた。
「そうですね。少なくとも私がいますよ」
「他には?」
マスターの手が止まる。少し考え込んでいるらしい。
「そうですね。あなたはどうです?」
「私ですか?」
「ええ。あなたはいた方がいいと思いますか?」
私は南国の景色を思い浮かべてみた。熱い日差しの中、それを避けて大きな木の陰のイスに座る私と、マスター。白い砂浜は太陽に焼かれて、それをうるおすために波が打ち寄せる。
誰もいない砂浜を、日陰から眺めるというのも悪くない。静かに波の音を聞きながら、何をするでもなくぼんやりと座り込んで。そういう静かで濃密な一日を過ごすのも、無為に家の中でこもりっきりの休日よりはよっぽど気が利いている。
けれど、せっかく異郷の地を訪れて、全く人に会わないというのも、少し寂しいかもしれない。屋根のない喫茶店で海辺で遊ぶ人々を眺めながら、偶然出会った現地の人や観光客の、まだ見たこともない国の世間話を聞くのも楽しそうだ。
残念ながらこちらの喫茶店では相変わらず、イスとテーブルが座ってくれる客を待ち続けていた。私と同じようなビジネススーツを着込んだ人たちは、汗をかきながらせわしなく歩き去り、こちらに目を向けようともしない。知らない他人ではあったけれど、ちょっと前までは同じ場所で同じように歩いていただけに、なんとなく親しみを覚えてしまう。
あの人はどこへ行くのだろう。私のように日陰を探し求めているのか、それともやはり、目の前にある仕事に追われているのだろうか。
天気はよかった。これだけの夏日だから当然ではあるが。こうして見上げる太陽は相変わらず焼けるような熱と光を投げかけていたが、今はちっとも憎らしく感じなかった。
「不思議ですね」
つぶやいた後で、私は心の中で笑いをかみしめた。全く不思議だった。普段は独り言なんか言わないのに、こうしていると、つい言葉が漏れてしまう。この店の雰囲気が口を緩めてしまうのか、それとも私は、誰かに話しかけたいのか。
口からこぼれ出た「不思議」が何を指しているのかは、自分でもよくわからなかった。が、口をついて出てしまった以上は、何か言葉をつなげないといけないような、そんな気持ちに駆られる。窓の外をぼんやりと眺めながら思い出そうとして、しかし、そうして心の中にわき上がってきたのは、また別の言葉だった。今度はマスターの方を向いて、はっきりとマスターに向かって話しかける。
「ここでこうしていると、なんだか現実に置いて行かれそうな気分になってきますよ」
意外な言葉だったのだろうか。いままですぐに言葉を返してくれたマスターが、今度はグラスを拭く手を止め、しばらくじっと私を見つめ返していた。
「竜宮城、ですか?」
そのたとえはなかなか面白いように思えた。マスターが亀で、私が浦島太郎というわけか。あながち間違っていないかもしれない。ここが海の底なら、私は店から出た途端、大量の海水に溺れてしまうだろう。二度寝の後の現実、深酔いの後の頭痛、夢見心地のあとに待っているものは、そういうものなのかもしれない。
そう一人で納得しているうち、マスターは再び手を動かしはじめ、そしてにこやかな笑顔になっていた。
「大丈夫ですよ。ここでは時間もなまけてますからね。あなたは現実の電車に乗り遅れることはありません」
「よく乗り遅れますよ。電車には」
マスターは声を出して笑った。
「電車はせっかちでいけませんな。決まった時間になったら、みんな置いてけぼりにして行ってしまう」
「まったくです」
「けれど、乗り遅れても次の電車は来るでしょう。せっかちですが、優しさもある」
電車の優しさというのは考えたこともなかった。そう言われるとそうなのかもしれないと、変に納得してしまう。
「電車は南国にも行くんですか?」
「線路は続くよ、どこまでも。どこまでも続いているから、そのうちたどり着きますよ。直通電車はないかもしれませんが」
「乗り継いで行くんですね。それも楽しそうだ」
しかし、南国に駅はあるのですか? 喉のあたりまで出かかった言葉を、ジュースとともに飲み込んだ。駅なんかなくったっていい。近くまで電車で行って、それから歩けばいいだけだ。孤島にあるなら船で行く。行く気になればどうとでもなる。
「それではそろそろ、私も南国に旅立つとしましょうか」
私は立ち上がった。カバンを手に、店のドアのノブをひねったところで、肝心な事を思い出す。
「あ、ジュース代を払わないと」
振り返った私に、マスターはゆっくりと首を横に振った。
「あなたの旅に同席させてもらったお礼です」
「そうですか。それではまた」
「途中下車したくなったら、いつでもどうぞ」
私はマスターに見送られ、アスファルトの砂漠に舞い戻った。とたんに全身から汗がわき出てきた。この世界はいつものように、無慈悲な熱気でゆらめいている。
しかしなんとなく、そんなことは気にならなかった。こんな砂漠にも憩いの場所があることを知ったから。
私はハンカチで汗をぬぐいながら、人をかき分けて砂漠を歩いた。
ふと、腕の時計に目をやった。秒針は遠慮がちに、ゆっくり時を刻み始めていた。
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