字句の海に沈む ――Vermilion

 川べりで釣りをしていると、上流から文字が流れてきた。「る」だった。

 るって何だ? と思っていたら、さらに「れ」、「さ」と流れてきた。


 しばらく待っていると、果たして、やってきたのは「流」だった。


 私は少々がっかりした。「流される」が流されていたって何も面白くない。そのまんまじゃないか。


 釣りに戻ろうと思いかけたとき、やってきたのは「棹」だった。こうなると少し面白い。

 これはおそらく、漱石の小説の一節だろう。智に動けばなんとか、という。誰とも知らぬ「流される」が流れていてもつまらないが、漱石が流れているのは愉快である。

 私は釣り竿で「棹」を突っついた。すると、字はくるくると回りながらバラバラになって、木と日と十とTになった。文豪先生も形無しである。私はひとしきり笑い転げた。


 私はもう、釣りなんかどうでもよくなって、釣り竿を両手で持って身構えながら待っていた。次はどんな大先生の名文が来るのかな?


 しばらく待っていると、「た」や「が」などと一緒に「葉」が流れてきた。樋口一葉か? それとも太宰の「人間失格」? あれの主人公って葉蔵とか言わなかったっけ? ともかく、「葉」を突っついて分解する。


 次に流れてきたのは、遠目からではなんだかよくわからないものだった。棒線一本だけが辛うじて水面に顔を覗かせているのが見て取れたが、水しぶきに紛れて見失いそうになる。


 近くまできて、ようやくその正体がわかった。漢字の「三」だ。どうやら「人間失格」というのは当たっていたが、主人公の名前じゃなくて、冒頭の一文だったらしい。写真を三葉見たとかなんとか。ともかく、大物なのは間違いない。「三」もつっついて、3つの棒線へと解体してやった。


 漱石、太宰と、純文学の巨匠を立て続けにやっつけて、私は至極満足感に浸っていた。どれだけ偉いか知らないが、俺なんかに突っつかれてバラバラになるようじゃ大したことないねえ、などと口の中で呟いたりして。


 しかしそこで、かすかな疑念が頭をよぎった。これって本当に大作家先生の小説の一文なのか、と。大作家先生の文字にしては、あまりにもあっけなくバラバラになりすぎやしなかったか、と。


 よく考えると私は、今流れてきた小説を読んだことがない。なのになぜ知っているかというと、国語の教科書に冒頭だけ載っていたりしたからである。

 もしかするとあれは、引用された文章だったのかもしれない。だとすると今の私は、贋作を掴まされた素人美術コレクターようなものである。そう思うと白けた気分になってきた。

 釣り竿を持ち直して、釣りに戻ることにする。


 釣り糸を垂れている間も、文章の断片はちょくちょく流れてきた。そのほとんどは意味を成さなかったが、たまに読めるものもあった。小説の一節に限らず、名言とか、慣用句とか、数式とか、あるいは「月報」みたいな事務的な単語とか、種類は雑多だった。

 そのせいかどうかはわからないが、釣り竿には何の反応もなかった。そのうち漢字の「魚」とか、あるいは「鮎」でも引っかかるんじゃないか、などとも思ったが、そういうこともなく、無為な時間が過ぎていった。本気で「鮎」を釣るならオトリの「鮎」が必要かもしれない。どうでもいいか。


 そのとき、ふと、目に付く漢字が流れてきた。この漢字自体はありふれていて珍しいものではない。詩だの歌だの物語だので、呆れるほど大安売りされている平凡な言葉に過ぎない。

 だが、私には確信があった。あれは私の文字だった。字体に特徴があったわけではない。手書きではなくタイプされた文字だったし、字体そのものも、何という名前かは知らないが、よくあるやつである。それでも私は、それが自分の書いたものだと、もしくは打ったものと言ってもいいが、すぐにわかった。

 私は釣り竿を目一杯伸ばして、それをこちら側へ引き寄せようとした。しかし、竿の先に当たった文字は、余計に遠くへ行ってしまった。そして、そのまま下流へと流されていく。

 私は荷物をその場に放り出し、釣り竿だけ持ったまま、文字を追いかけた。どこかで回収できる機会があるはずだと念じながら。

 しかし、下るにつれて川幅は広くなっていき、文字と川岸との間は遠くなっていく一方だった。川沿いの道も、しばらくは獣道のようなところで、その気になれば川に入ることも出来る距離だったが、いつしか堤防上に整備されたサイクリングロードを歩くしかなくなり、もはや川に近づくことすらできなくなってしまった。釣り竿でどうにかなる状況ではないのはもちろん、あまりに遠すぎて、文字を目で追うこと自体が難しくなってきた。

 これ以上追いかけてもどうにもならないことは明らかだったが、それでもなお、私は諦めきれずに川を下っていった。


 ついに文字は河口へと辿り着き、そのまま海へと入っていった。私はサイクリングロードの終点から、海沿いの車道を横断し、浜へと出る。

 そこは広くてなだらかな浜だった。時期が時期なら海水浴で訪れる人も多そうだったが、人影は全く見当たらない。


 実際問題として、海辺まで辿り着いたところで、私はどうすればいいのだろう。貸ボートでもあればなんとかなったかもしれないが、この時期にそんなものがあるはずもない。海の方にも、船やヨットなども見えない。まあ、見えたところで、どうやってそれに乗せてもらうんだというところだが。

 そもそも、堤防を上ったりなんだりしているうちに、文字はすでに見失っていた。仮にボードがあっても、どこに行けば見つかるんだか、見当も付かない。


 ついに、波が砂を洗うところまでやってきた。太陽の光が反射し、波立つ海に目を凝らしてみるが、文字の姿など見えやしない。

 諦めかけたとき、私の目はふと、波の中で転がるようにして浮かんでいる何かを見つけた。木偏である。木部と言うんだっけか? 私はそれに見覚えがあった。さきほど突っついて分解した「棹」の木である。よく見ると、その木の周囲にはひらがながいくつか浮かんでいた。


 考えるより早く、私は海に飛び込んでいた。まだ冷たい海水の中を必死で泳ぐ。

 私は水泳には多少心得があったが、服を着たまま泳ぐのがどれだけ大変かというのは、このとき初めて知った。服が身体にまとわりついて泳ぎを妨げる上、海水を吸って重りのようになる。波も、浜で感じたよりも大きくうねっており、泳いで進んだ分、戻されていくような感じがした。さすがに考えなしに飛び込んだのはまずかったかと後悔したが、もう遅い。

 泳ぎながら、ときおり顔を上げて文字の位置を確認する。しかし、泳いでも泳いでも、近づいていないような気がした。思ったよりも遠くに浮かんでいたのか、それとも遠くに流れてしまったのか。もしくは私が波に押し戻されているのか。

 だんだん気持ちに焦りが混じり始めたその時、何かが足に絡まった。体勢を崩したその時に、大きな波がやってきて、たちまち私は海中へと飲まれてしまった。


 水流に巻き込まれるまま、私はしばらく海の中を転がっていた。こうなってしまったら、下手に動こうとしない方がいい。私はとにかく目を瞑って、事態が収まるのを待った。

 しばらくして、水の動きが落ち着いてきたところで、ゆっくりを目を開けて、状況を確認しようとする。

 そこで私が見たのは、沈んでいく文字列だった。「待ち合わせ場所の件、了解しました」という事務的な言葉が、整然と縦に並んで、海底へ向かってゆっくりと降りていく。やがて、海底に辿りついた文字列はバラバラになり、そこら辺に散らばって、動かなくなった。

 見ると、その辺の海底には、沈んだ文字がそこら中に転がっていた。中には、先ほど川で流されているのを見かけたような気がする文字もある。


 ……いや、そうではない。ここに沈んでいる文字を眺めているうちに気がついた。私はもともと、この文字たちを知っていた。ここにある文字は全て、私が書いたものだった。

「草枕」の一節は、漱石に関する批評を書いたときに引用したものだ。結局私は、自分の文章を壊して喜んでいたのだった。


 そのとき、川から追いかけ続けていた文字があるのに気付いた。他の文字たちの中に紛れて、半分、砂に埋もれている。だが、いまさらもう、それを拾い上げようという気にはなれなかった。私はただ呆然と、水底に沈む文章の残骸を見つめ続けた。

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