旧作・作品解説

旧作・作品解説

「世界最後の日」、「幸せの電話」、「笑う門には」は、私が高校3年の時に、図書委員長という職権を濫用して図書新聞に掲載した作品。


 図書新聞に掲載するという都合上、全文をB6くらいのサイズに収める必要があった。字数じゃなくてサイズ指定というところがお手製新聞らしいところ。


 当時の私は星新一をお手本にしており、第二の星新一になるつもりでいたから、その影響が強い。


 ただ、私の作品を読んだ国語の教師は、安部公房を彷彿させると言った。


 そのとき私は安部公房を読んだことがなかったので、似たのだとすれば偶然だった。ともかく、それで安部公房を読むことにした。似てるというからには、読めばなにか書く上でのヒントが得られるだろうと思ったのである。

 結局、私は安部公房のテクニックを研究して盗もうとはしなかったが。



■「世界最後の日」


 この世が終わりを迎えるとはどういうことなのか、というのを、高校生のない頭で考えたところ、時間が止まれば終わるんじゃないかと思い付いた。それで書かれたのが本作。


 アイデアとしてはそう悪くないし、ある意味で現実に即しているとも言える。

 現在の宇宙論によると、時空はビッグバンより始まったとされている。つまり、ビッグバン以前には時間というものは存在しなかったわけである。

 宇宙がどうやって終わるかは諸説あるが、宇宙全体の温度が一定になって、何も起きない状態になって終わるんじゃないかという説がある。


 テクニックが稚拙なこともあって、時間がだんだんゆっくりになっていく様子を描写できていないのが残念なところ。



■「幸せの電話」


 迷惑電話や貞子的不幸の手紙から着想を得ている作品。アイデア的には平凡だし、作品としてもいまいちだが、素人の高校生が書いたものと考えれば、そう悪くはないか。



■「笑う門には」


 原文では「笑う角には」になっていた。誰か誤字を指摘してほしかった。


 自分が笑われている気がする時ってあるよね、という話。誤字で本当に影で笑われていたかもしれないというオチが付いてしまったが。


 ネットで掲載する際に手直しして、もうちょっと丁寧に展開できないんかねと考えてみたが、あんまりいじりようがなかったので、仕方なくほぼ当時のまま掲載している。誤字を直したり、読みにくい表現を少し改めている程度。



■「南国の木漏れ日」


 もともとは高校時代に書き、確か学級新聞の裏に掲載してもらった作品。だいぶ縮小して無理やり載っけてもらった気がする。


 その後、データを紛失して大学時代に書き直し、大学の文芸サークルみたいなもので出していた雑誌に掲載。しかし、製本時のミスで数ページ抜けた状態で掲載されてしまった。その上、パソコンのデータが飛んで、再びデータを失ってしまう。


 雑誌に掲載された歯抜けバージョンを元に、抜けている部分を埋めて書き直したものが、このバージョンである。



 ある意味で「世界最後の日」の続編的な作品で、世界が終わるほど時間が止まる様子を描くのは難しいが、喫茶店内でゆっくり時間が流れる様子を描くことなら、自分の技術でもできるだろうということで書いた。


 私は星新一の作品の中でも「宇宙の男たち」や「最後の地球人」といった、オチの鋭さよりも、じっくりと状況を描いていくタイプのものが好きで、そういう方向を目指しているのがこの作品。



 大学時代までは、最後は「ふと、腕の時計に目をやった。時計はまだ五分しか時を刻んでいなかった」といった終わり方だった。

 それを読んだサークルの人に、「この作品は読むのに5分くらいかかるから、五分だったら当たり前なんじゃないか」と指摘された。


 実はそれは意図的にそうしたものだった。時間は、夢中になれば短く感じるし、退屈だと長く感じる。

 あなたにとって、この作品を読んだ5分は長かったですか、それとも短かったですか? というメッセージを込めて、そういう終わり方にしていた。


 なので、当時指摘された時は「わかってねえなあ」と思ったものだが、後に考えを改めて、今の終わり方に変えた。



 ■「ほほえみ」

 

 元々は大学の創作課題として提出する予定で書いたもの。

 その講義で教授は、擬人法は陳腐になりがちだということを言っていたので、だったら一丁、陳腐じゃない擬人法を書いてやろうじゃねえかと思って書いた。人の言うことを聞かないやつである。


 元々はほとんどひらがなばかりで書かれていたが、読みにくいし、そこにこだわる必要もないだろうということで、カクヨム掲載時に漢字を増やした。



 なお、提出したのは別の作品だった。鞄を紛失したので探し回るけど見つからなかった、という内容の作品。なんじゃそりゃだが。


 教授の評価は芳しくなかったが、その講評の中で「後藤明生っぽいところがある」と言われた。

 私はそのとき、後藤明生を読んでいなかったので、それをきっかけに読んだ。


 そう言われた理由は読んでわかった。後藤明生の代表作のひとつである『挟み撃ち』は、いつの間にか失くしてしまった外套を探すけど見つからない、という内容の作品。

 主人公は一応、計画を立てて、外套を置き忘れたと思われる場所を巡ってみるのだが、結局その作品では、その「ありそうな場所リスト」を全部巡っていない。なにもかも中途半端なまま終わる作品になっている。


 私の作品が「後藤明生っぽい」と言われたのは、何もかも中途半端で終わる展開が似ている、という意味だったのだと思われる。

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