きみの嘘、僕の恋心 ――Violet

 ある冬の晴れた日。町外れにある森に囲まれた小さな草原は、昨晩降った雪によって真っ白な世界になっていた。


 人が訪れることは滅多にない場所だったが、とある女性だけは例外だった。彼女はこの森の生態系を研究するため、頻繁にこの草原にも訪れていた。


 今日も彼女は万全の防寒対策に加え、長靴とサングラスを装備して、大きなリュックを背負って、今は「雪原」と言った方が正しいような気もする草原へとやってきた。そして雪の深さを測ったり、雪や、その下の土を採取したりしはじめた。



 作業中、何気なく顔を上げると、草原の端の方、森との境界線の近くに人影が見えた。雪の中に屈んで何かしている。


 この辺は観光で来る人も、仕事で来る人もほとんどいない。県から派遣された見回りの人をたまに見かけるくらいである。見回りの人だったら屈んだりはしないだろう。わざわざこんなところに来てまで採取したくなるような野草や昆虫などはないを彼女は知っていたから、そういう人でもないだろうと思った。


 同業者かもしれない、と、彼女はちょっとわくわくした。自分以外にもこの草原の生態に興味を持つ研究者が現れたのかと思ったのだ。


 ほとんどの人にとって、ここは何の面白味もないところだが、彼女にとっては興味が尽きなかった。現在の興味の中心は、これといって理由もなさそうなのに、ここだけ木が生えていないことだった。周りが森なのに、ここだけ木が生えていないのなら、何らかの原因があるはず。彼女はもっぱらそれを探していた。


 まあ、同業という確率は低いかな、と、やや冷静になりつつも、彼女はその人に声を掛けてみた。そこそこ距離があったので叫ぶ感じになったが。


 声を聞きつけた人影は、立ち上がってこちらを見た……ようだった。遠くて詳細はわからなかった。声を返すとか、何かジェスチャーをするとか、反応を期待したものの、その人は何をするでもなく、突っ立ったままだった。少なくとも逃げようとはしなかったから、密猟者とかではなさそうである。


 彼女は仕方なく、作業を中断して、そちらの方へと歩いて行くことにした。



 その人は、二十代くらいの青年だった。眼鏡を掛け、痩せ気味で血の気が足りない感じで、見た目は学者っぽいというか植物オタクっぽいというか、同業者っぽい雰囲気がなくはなかったが、この雪の積もった森の中に、スニーカーを履いてジーパンとセーターという出で立ちでやってきているところからすると、素人なのだろうと彼女は判断した。血色が悪いのは元からそうなのではなくて、体温が下がっているからなのではなかろうか。


 彼女は大丈夫かと訊いた。大丈夫です、という答えが返ってきたが、上の空といった感じで、全然大丈夫そうに見えなかった。どう見ても低体温症になりかかっているようだった。


 彼女はすぐにスマホで救助を要請すると、青年を、地面に雪が積もっていない森の中へと連れて行った。


 木の下の地面に替えの上着を敷き、そこに青年を座らせると、スニーカーと靴下を脱がせ、タオルを渡して拭くように言った。それから、何か身体を暖める方法はないか考える。


 火を起こせるなら一番いいが、乾いた薪を集めるのが難しそうだった。こういう時のためにマッチを持ってきているが、薪もなくマッチに火を付けても意味がないだろう。幸せな幻覚が見えるかもしれないが。


 マッチの他に、手持ちのもので暖かくなれそうなものといえば、保温水筒の中にお湯を入れてあるのを思い出した。それでコーヒーを振る舞うことはできるが、もうひとつ何か工夫ができる気がする。


 試してみたのは、お湯をタオルに掛けて、それをビニール袋に入れることだった。彼女は猫舌なので水筒のお湯をぬるめにしていたが、それが今回は都合良く、火傷しない程度に暖かい、ほどよい即席カイロになってくれた。それを青年に渡す。


 あとは、素足のままなのをなんとかしたい。少し考えた末に、首に巻いていたマフラーを外して、それで両足を包むことにした。


 とりあえず、現状でできそうなのはこのくらいだった。あとはお湯をカップに注ぎ、コーヒー粉末を入れたものを渡した。カップはひとつしかなかったので、自分は水筒に粉末を直に入れて飲むことにした。



 一段落したところで、彼女は青年に、何をしていたのか尋ねた。

 探し物をしていたのです、と青年は言った。

 何を探しているのか訊くと、青年は言った。


「それが、何を探しているのか、わからないのです」


 彼女は首を傾げた。彼女も言ってみれば、正体のわからない探し物をしている。だが、どうも青年の「探し物」は、そういう類いのものではないような気がした。

 次の言葉が見つからず、彼女は黙ってコーヒーをらっぱ飲みする。


 しばらくすると、青年の方から話し出した。


「実は、私の友人が、ここで失くし物をしたそうなのです。何を失くしたのか訊いてみたのですが、わからない、と言いました。それを探しているのです」


 彼女は、自分の眉間にしわが寄るのを感じた。動植物のこととか、この森の地理のこととかなら、何らかの力になれるかもしれないと思っていたが、これは自分ではなく、哲学者か文学者、あるいは、旧約聖書に出てきた少年だかの出番のような気がする。



 ――新バビロニア王国の王、ネブカドネザル2世はある日、夢を見た。そして、その夢の意味を判断しろと夢見術士たちに命じたが、どんな夢を見たのかは教えなかった。それでは判断のしようがないと術士が言うと、王は術士たちを処刑しようとする。

 そのとき、ダニエルという少年が、神に懇願して夢の内容を教えてもらえた。それを基に夢判断を行い、王は満足し、夢見術士たちも処刑を取りやめてもらえたのであった。



 今の彼女の気分は、刑場に引っ立てられる術士の気分だった。もっともこの場合、引っ立てられているのは青年の方なのかもしれない。低体温症で死にかけていたわけだし。


 探し物が何かわからないのに、それを探すなんて無茶だ、と言いたくなるのを彼女は堪えた。そんなことは言われるまでもなく、青年だってわかっているはずである。言うだけ無駄なことをわざわざ口にするのは彼女のポリシーに反していた。


 それに、その言葉を口にしてしまったら、自分の研究を否定することになる気がしたのもあった。自分の研究に対してよく言われる、こんな研究は時間の無駄だとか、もっと役に立つことをしろだとか、もっと金になる仕事をしろといった批判に対して、敗北を宣言するのに等しいように感じたのである。


「私はこの森についてはそれなりに詳しいですから、もう少しヒントがあれば、あるいは手助けできるかもしれないですけど」


 迷った挙げ句に口を突いて出たのはそんな言葉だったが、言いながら彼女は絶望的な気分に沈んでいた。やはりどうも、自分の役回りは処刑される夢見術士のような気がする。神の啓示を受けて夢を言い当てる少年という柄ではない。


「それが、手掛かりは何もないんです。指輪やブローチみたいなものなのか、咲いていた花みたいなものなのか、飼っていた動物なのか、あるいは全然違うのか。なのでその、お気遣いは嬉しいのですが……」


「ええ、ええ。わかっています。私も正直言って、あなたのお役に立てそうにはなさそうだと思っています。なので……」


「そんなことはないですよ」


「え?」


「現にいま、こうして助けてくださってるじゃないですか」


「ああ、なるほど。そういう……ただ、これは根本的な解決にはならないじゃないですか」


「どういうことです?」


 彼女は少し返答に詰まった。コーヒーを飲む間に、言うべき言葉を整理する。


「つまり、私があなたにタオルを貸したり、コーヒーを振る舞ったりした結果、あなたの探し物が見つかるわけではない、ということです。……わかりますかね」


「ああ、そういうことですか。わかりました。でも、そうとも言えないと思うんです」


「と言うと?」


「あなたが今日、助けてくれたおかげで、また、探し物ができるようになったのだと思うのです。なんというかその、あのまま行き倒れになっていたら、それ以上探すことはできなくなる、というか」


 そういう考え方もあるのか、と、彼女は感心した。ただ、彼女としてはそれでは不満だった。


 確かに、あのまま青年が死んでしまっていたら、探し物は見つからないままだっただろう。彼女が青年を助けたことで、青年は探し物を見つける機会を得られるようになったのかもしれない。その理屈はわかる。


 しかし、彼女はそこに満足感を覚えることができなかった。人命救助の仕事は尊敬するが、自分の仕事はそうじゃない。問題を解決すること、少なくとも解決する糸口を見つけ出してこそ、自分は人の役に立てたと思うのだった。やはり自分は学者で、救命士などの職業には向いていないんだろうなと、彼女はなんとなく思った。



 ほどなくして、救助の人達が白い草原の向こうに見えた。青年は足を包んでいたマフラーをほどくと、丁寧に畳み、即席カイロと空になったカップを重ね、彼女に差し出した。


「これ、ありがとうございました。それと、上着と」


 青年は立ち上がり、彼の下に敷かれていた上着を持ち上げた。


 そのとき、青年が何かに驚いたような声をあげた。彼女は受け取った荷物をリュックに詰めている最中だったが、思わずそちらを見た。


 すると、上着の下に、小さなスミレの花が咲いていたのだった。花は潰れてぺしゃんこになってしまっている。

 二人は二人して、その場に呆然と立ち尽くし、しばらくその花を見下ろしていた。



 やがて、彼女は言った。


「実は、これが探し物だった、ということには……なりませんかね」


 自分で言っておきながら、なんて馬鹿げた言葉だろうと、彼女は思った。


「いえ、やはり違います。言い切るのも変な話ですけど」


「ええ。まあ、そうでしょうね。でも、これはこれとして……」


 彼女はしゃがむと、潰れた花を、折れた茎の部分からちぎった。そして、彼の左手を取ると、小指にその花を結んだ。

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