第9話 幻影 2


 高純度の酸素は猛毒につき、人を死に至らせる。

既読小説の片隅に記された不確かな記述である。


 刺された鉛筆は急所を外れ、天は未だに僕を許してはくれぬのかと管に繋がれた忌しき体を見つめる。意識薄弱の最中、枕元で聞こえるは両親の声。雀の囀りの邪魔になる。早く立ち去ってはくれぬだろうか。


「楓は何を死に急ぐ。わしせがれだと云うのに、この為体ていたらくはどうにかならんのか」


「およしになさって下さい。貴方様はご自分の息子をどうして虐めるのですか。可哀相に」


「どうしてなど、訳も有るまいに、楓は人を殺め勾留先で殺されかけるなんて、まるで修羅道ではないか。え?親の揃えた道も退け、自由奔放に古本屋に入り浸り、日がな一日何をしているでも無し」


「貴方様がそんな風です故、人の道を外れるのでしょう。あゝ可哀相に…」


 全くもって嫌になる。銀行の頭取がそんなに偉いのか。母も僕を常日頃、可哀相だ。可哀相だと連呼するばかりで心内の冷ややかさを隠すのだ。


 自身の内なる思考が写し鏡の現実を形成する事に異論は無い。死に際の枕に立つ幻聴はどれも大根役者の棒読み一辺倒いっぺんとう。瞼を開けば誰も居ない事など承知済みなり。


 麻酔が途切れ、首筋の鈍痛が爪先に伸びてゆく。一方で覚醒し眼を開ければ、やはり面会など居らぬ有様よ。


「やはりな。」クククッと声に出しあざけるが、涙なんぞが頬を伝う。


 純白のカーテンが風に吹かれて一輪挿しを掠める。透ける線帯レースに見え隠れする、華奢な丸椅子。腰掛け林檎を剥く細い指先。


葛葉くずは。。」


「お目覚めですか?楓様。お怪我の具合は如何です?」


「見ての通りさ。葛葉の姿に健康そのものさ。あゝ会いたかった。どうか近くに来ておくれ」


 掴む指の暖かさは僕を一時の浄土へ誘う。仄暗い水底で欲していた酸素が飽和してゆく。抱き寄せる雪のような体に溶けて仕舞いたい。


 無骨な機械音など耳に入らず、窓辺の雀の囀りだけが、ちいちいちちちと耳を慰める。








  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る