第19話 居候 1


 夕刻に沈むお天道様、落ちるほど月は輝きを増す。すっかり居候も板につき、襷掛けで銚子を運ぶ。奥座敷にお座りくださいとキヌさんが苦笑いをするが恩義に僅かながらの御手伝いをさせて頂く。


「大将、随分可愛らしい娘さんを雇ったものだ。見かけぬ顔だが、どちら様だね?」


 髭を擦り白髪の男が話しかける。紺色のかすりの着物が似合う紳士だった。


「奉公先のお嬢様です。旅の途中に偶然、立寄られて暫く家に滞在して頂くことになりまして。座っていてくれて結構ですと言ったのですが。いやはや」


「ただ、座ってなどいられませんわ。私が何も出来ぬと父に知れたら、其れこそ大目玉。」


「葛葉様、あちらに煮豆をお持ちして下さいまし」

 キヌさんの威勢の良い声に「はーい」と答える。


「女将さんは、すっかり活き活きしてるじゃありませんか。いやあ三人寄ればなんとやら。実に楽しい店に成りましたな」


 常連客に褒められて与一さんも満更ではなさそうだ。


「嬢さん、清々しい良いお顔なされておりますな。」


「はい。幼い頃から、あれこれ駄目駄目と言われてきましたが、此処なら走り回っても咎められませぬ故、楽しゅう御座います」


 沙織も店の繁盛ぶりに忙しなく、私に構っている暇もない。少しの目配せで窘めようとも口元は綻ぶ。


「儂は、其処の古書店を営んでおりましてな」


 はたと銚子を運ぶ足が止まる。


「うちの居候に、嬢さんの爪の垢を飲ませてやりたい。日がな一日、本を読んでは物書きの真似事などして。全く困ったもんです。儂の悪い所ばかり似てきましてな」


「付かぬ事をお伺い致しますが、その方は西村という名ではありませぬか?」


 口走り己を諌め、ああ、いえ。と口籠る。


「ああ、西村さ。西村楓。お知り合いで?」


 立ち眩み、雷槌が落ちる。愛染明王様のご加護がこんなに速く訪れるとは…

 溢れた銚子に我に返り、床を拭く。「大丈夫ですか?」沙織が駆け寄り割れた陶器を集める。


 溢れた酒に朱色が交じる。小指からぽたりと血が垂れた。


「葛葉様、お怪我なされているじゃありませんか。お気を付けください。ここは片付けますから、お休みになって下さいまし」


「あゝはい…」


 部屋に戻り、指先を染める色を眺めていた。ぢんぢんと脈は心臓を苦しめる。


 窓から見える古本屋の隙間から灯りが漏れていた。闇を裂く光明の源は間違いなくあの人の光だと思った。

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