第16話 愛染明王 1
石畳の隙間から這い上がる月見草。月光に揺れる繊細な花の立ち姿に想い人を重ねし歩く酔ごころ。
"小料理はまな"が店を構える通りは、大里町は西通り。三津川橋に寄り添う柳の並木が風に揺れ、うなぎの寝床のやうに縦長の長屋が軒を連ねる。
奥座敷の先は住居になっており、浜名夫妻の寝床と客間がある。
案内されると、そこはまるで私達が来ることを予見していたかと思う。綺麗な畳と一輪挿しの鈴蘭は店の雰囲気同様に控えめな趣に心が豊潤する。
「狭い部屋ですが、どうぞお
「キヌさん、電話をお借りしたいのですが」
「生憎、うちには電話がありませぬが、町役場に行けばお使い頂けます故、ご案内致しましょう」
「沙織、私も一緒に行きます」
三人揃で履物を用意していると、与一が夜更けの道は危ないからと結局、四人ぞろぞろと月明かりの下を提灯を下げて歩くのでした。
「ところで、葛葉様は明日からどちらに向かうのですか?」
「
与一は腕組みをして、うーんと唸っている。定かでは無いのだと前置きをして言う。
「常連さんから、先程聞いた話によれば、都の方で大きな事件があったそうで。青年将校が大勢集まってたらしいです。一部の線路が破壊なり占拠なりされたそうで。いやいや、八椚町あたりは、まだまだ手前ですから心配は無用だと思いますが」
思想や権力の話を聞くと父上様を思い出す。普段は優しいお人なのに、近頃は友人関係も複雑になり難しい顔をする日が多くなっていた。
お宿の庭先に長椅子を出し、朱色の大傘で日陰をつくり使用人と皆で宴をした日々が懐かしい。酔っては私に頬擦りをする癖は、髭がチクチク擦れ嫌だった。
季節が過ぎるごとに愛おしい思い出が指間を抜けてゆく。
※
「はい。鴨井で御座います」
町役場の椅子に腰掛けて振り子時計を眺めていた。沙織は電話口に出た母上様に顛末を伝えていた。
振り返り、与一に手招きをし受話器を渡す。
「はい。畏まりました。責任を持って葛葉様をお預かり致します」
私達以外は誰も居らず、床の赤茶と天井板の木目に垂れ下がる照明が羽を休めていた。
掲示板に示された行事予定は余白が多く、この街のゆるりとした時間を物語っていた。中央に飾られた油絵は
「やはり、暫く汽車は運行されぬそうで。二、三日こちらでお休み下さい」
件の大逆事件は本当らしく、父上様も知るところにあり、慌てて会合だと飛び出して行ったそうだ。
母上様はお国の話より、娘の安否に気も
「二、三日とは言わず、ずっと居てくださいな。葛葉様」
「何から何まで有難う御座います。こちらに来てから、立て続けに不思議な事が起きて。心が…」
「心が、どうされました?」
「弾むのです。トクトクと」
キヌさんがパンと手を合わせる。
「
「石楠花と裳階ですね。寺院という事は分かりますが、土地勘が無くてお名前までは存じ上げません」
「
「まあ、素敵。沙織、宜しいでしょう?」
「勿論、お供致しますよ。」
部屋に戻り、薄硝子の夜空を眺めて布団に入る。
胸が高鳴り空が白むまで眠れずにいた。
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