第8話 幻影 1
唯一の救いと云えば、場末の居酒屋の喧騒でした。痴話喧嘩や惚気話、友情や職場の労い、嫉み妬み、其々に口々に自己中心的な言葉が飛び交う空間が私の闇を薄めてくれたのでした。
「そういえば、宮乃くんよ浜名女医にはあれから会ったのかい?」
「いいや」
半紙に墨を溢すが如く職場を濁し、ろくに挨拶もせず立ち去る私に道は無く、ましてや翠さんに会わせる顔など有る筈も無かった。一言でも交わせたら何かが変わっていたのでしょうか。
「彼女、君の行動に涙していたよ。なんて馬鹿なんだと。彼女は西村の切り傷に軟膏を渡し、何も言葉すら交わさず西村は立ち去ったらしい」
思えば、拘束された身の西村に女を扱う自由が有る訳も無く、彼の口八丁手八丁に騙されたのか。
然しながら、私には西村の言動を信じるべく事柄を知ってしまった節があった。
「なあ、浜田くんよ。
「
「そう。西村が話した思い出話がどうも気に掛かり、休日に行ってみたんだ。犯行現場にね」
「
「そうさ。雨田勢山に行ってきた。」
雪が深々と降る山道をザックを背負い無心で登った。
渓谷の傍らに生い茂る新芽が、大岩を埋め尽くす。その場所はあった。時の流れも季節も静止する世界がそこにあった。
私は立ち竦み、その日の光景を傍観していたのだ。
昭和13年12月某日
満月に双子座流星群が彩りを添え、愛を語らう秘めた愛を永遠にしようと男女が重なり合う。
疎まれ蔑まされる不都合な果実は青いまま口移しの粘液に飽和していく。
「楓様、これ以上は行けませぬ。どうかお許しください。葛葉は出会えただけで満足なのです。」
「其れは誠の言葉ですか?僕を気遣うなと何度も伝えた筈です。それを今更」
人里離れた山中の荒屋で着物を剥ぎ取り交わる。
繕う言葉も意味を持たず、単純な穴と棒になる純粋な抜き挿しに喘ぐ夜の声。
蜂蜜が溢れ纏わりつく原始の営みは美しく儚く繰り返された。
「幻影では?」浜田くんの言葉の通りかもしれない。
過度な西村との語らいは私を虜にしていた。
あの記憶は、草むらに隠れて盗み見た空想に過ぎず、美化した私の願望そのものだったに違いなかった。
「幻影に違いないな。然し、匂いに幻影はあるのかい?あの
「宮乃くん、悪い事は言わない。今すぐにでも医者に観てもらえ。親友として言うのだ。お願いだ」
神がいるとしたら、私に何を課すのかお伝え願いたい。この身に何が出来るのか教えて頂きたい。
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