第7話 純心、故に 3


 駆けつけた母の気丈な振る舞い。強く靭やかに慎ましく生きてきました。愚息の突飛な行いにどうか自身の頭をお上げくださいまし。安物の信念ではありませんから。どうか。どうか。


 事情を鑑み私は逮捕されず、懲戒免職に甘んじた。

 母は煮魚を父の仏壇にあげ、線香を灯す。私を蔑むでもなく寧ろ誇りに思うと昨日の帰路に手を繋いでくれた。


「あの人もきっと笑ってくれますよ。軟弱な息子が思い切ったものだとね」


 箸で魚をほぐし現心うつつごころの私は「だといいのですが」と言うに精一杯であった。人を刺す感触が箸に重なり震えが襲い、厠へと駆け込む。


「無理せずお休みなさいまし」


 引き戸越しに母の声は些か震えていて、嗚咽する自分が殊更ことさら惨めに思える。


「母様もお休みなさって下さい。私は暫し夜風にあたります故、どうか、お先にお休みください」


「玄関に外衣オーバーを掛けておきますからね。雪は舞わねど、外は冷えますよ。あなた風邪を引きやすいんだから。お願いしますよ」


 外衣を羽織り夜道を歩く。銀色の腕時計は父の形見であった。執務官になった折に母が祝いにと私にくれたものだ。舶来品を身に着ける事が憚れると満州へ向かう日に父は母に時計を託した。文字盤の英字が秒針に見え隠れし夜を誘ってゆく。

 

 駅前の四ツ辻を抜け、三津川橋を渡る。大山の中腹に佇む社が松明の火に薄ぼんやりと山吹色に揺らめく。「へっぷしっ」とクシャミに苦笑いしポケットに冷えた手を入れる。

 指先の感触を引き抜くと、一円札が入っていた。


「母様め、お憚りをさせぬとは」


 少々の子供扱いに苛立ちもしたが、優しさに幾ばくか気も緩む。今宵は熱燗の一つでも頂いて眠ろうかと赤提灯の暖簾を潜る。


「いらっしゃいまし。お寒う御座いますな。生憎、今夜は有難いことに満席でして。暫しお待ち頂けますか」


 藍色の着物の女将の先を見やれば、暮れの宴に賑わう声が狭い店中に響いている。忙しなく働く威勢の良い掛け声に圧倒される。


「いや、一人で立寄っただけですので、お気遣いなく。また改めます故、それでは」


 振り向き店を後にするその時であった。


「これはこれは、宮乃くんではないか。ほら、やはり宮乃くん」


 戸口とぐちの座敷に居据わる顔が手招きをする。色白の切れ長が一層細く笑みを浮かべ、銚子を持って身を乗り出す。


「浜田くん」


 浜田はまだ実路さねみち。彼とは学生時分からの仲で、今となっては元職場の同期である。士官学校の成績も優秀で行く末は官僚かと噂される人であった。


「私も先程、お邪魔した所でね。一歩遅く、先陣達はもう帰ってしまい、こうして一人で呑んでる有様さ。其処に君が来るなんて奇遇だ。否、引き寄せだ。そうに違いない。そうに違いない」


「浜田くん、随分酔っていそうだね。大丈夫かい?」


 お連れ様ならと、女将にも勧められ座敷にお邪魔する。長い付き合いであるがこうも酔った彼を見るのは初めてである。


「この度は、言葉をどう探せば良いのか分からぬが、よくやった」


「良くはないだろう」


「私も始め聞いたときは、宮乃くんが正気を失った阿呆だと思ったよ。あれは仕方がない。天誅というものさ」


「蛮行に過ぎんて。慰めるな。頭に血が登り、自重出来なかった。ただ、それだけだよ」


「君の叫びに署長が西村の指を嗅いだそうじゃないか」


「なんと。知らなかった」


「牛脂と軟膏を混ぜた物だそうだ。後から聞いた話だがね」


「牛脂と軟膏。。」私は消えてしまいたかった。翠さんが西村に愛撫される姿を想像し絶望し勃起し、刺した瞬間に射精した自分を恥じた。恥じても足りぬ。足りぬのだ。






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