19

 ビビを送り届けたのは、ちょうど七時五十五分で、昨日送り届けたところと同じ墓地の脇の道端に車を停めると、ビビは大きく頷いて、そして笑顔になった。

「今日は本当にありがとうございました」

「いえいえ。こちらこそ」

「楽しかったです」

「本当だね」

「メールしますね」

「うん。待ってるよ。忘れ物はないかな?」

「大丈夫です」

「その格好で帰ったら、びっくりするだろうね」

 ビビは結局、ガソリンスタンドの店主のかかぁの服を着続けていたのだ。赤いTシャツと、ブカブカのジーンズ。朝に来ていた白いワンピースは雨に濡れてしまったが、今はしっかりと乾いて、綺麗に畳まれたままでビビの右腕に抱えられている。

「ですね。そういえば函館って雨は降ったのかなぁ?」

「さぁどうだろう?」

「でも、とにかく大丈夫です」

「それならいいけど」

「……じゃあ!伍郎さんまたね!」

「ありがとうビビ!またね」

 ビビは小走りに駆けていく。その姿が見えなくなるまで、伍郎はじっと車窓の向こうを見ていた。

「………………」

 ビビが見えなくなると、伍郎はため息をついた。

 ………………。

 それまでの車内が嘘のように静まり返っている。

 華やかで、賑やかで、そしてほっこりとしたあたたかい車内が、いきなり寒々しく凍えるような空間になってしまったのだ。

 助手席には誰も座ったことがない。

 そしてそのことにすっかり慣れていたはずなのだ。

 それなのに。

 伍郎この強烈な喪失感に愕然とした。

 

 なんてこった……

  

 ぼんやりと、だけどじっと、ビビの雰囲気だけが残る助手席を見た。もはやそこはただの空間で、ビビは当然のことながらどこにもいない。

 ドラマチックなことなど何もなかったし、物語にできるようなパプニングも特になかった。むしろ失敗だらけで、これをデートなどとはとても言えない。

 まだ若いビビにはどう見えただろうか?今日一日をどう感じたのだろうか?

 言葉にするなら、ただただ車で走って、岬の景色を見て帰ってきただけなのだ。救いは天気の良さだけで、後は実にパッとしないただのドライブ。

 伍郎はまたもため息をついた。

 なんだかなぁ。

 今更ため息をついてもしょうがない。もう全部終わったのだ。終わったからには、無理矢理にでも現実に戻らなければならない。 

 そう考えて、伍郎は気づいた。

 これからどうしよう?

 伍郎は明日も仕事が休みだったのだ。

 休暇を取っていたのだ。

 そもそもこの三連休は、気の向くままに車であちこちぶらぶらしようと考えていて、だから具体的な予定など何も立ててはいなかった。函館にやきとり弁当を買いに行くということだけ決めて、後は本当に成り行き任せにすることにしていたのだ。

 しかし、今、強烈な喪失感を味わっている伍郎には、その"気の向くまま"が無理だった。気なんてどこにも向かない。どうしたらいいのか、本当にわからなかった。

 とりあえず伍郎は車を走らせる。走らせるというより、流す、という言い方の方が正しかった。どこに向かったらいいのかがまるでわからないのだ。どうしたらいいのか全くわからないので、とりあえず伍郎は函館市内を適当に車で流した。

 今までは気にしたことなどまるでないカップルの姿が、なぜかどんどん目に飛び込んでくる。その全てのカップルが楽しそうに輝いて見えた。

 伍郎はそんなカップルたちをぼんやり見ながら車を流していたが、そうしてばかりもいられない。しばらく流して、その間に自分の気持ちをどうにかこうにか落ち着かせ、そして無理矢理に決めた。

 函館にまた泊まろう。どこかのビジネスホテルは空いているだろう。

 いつもなら車中泊も全く気にしない伍郎だったが、今はなぜかそんな気分にはなれなかった。とにかく休みたかったのだ。

 とりあえずスーパーに寄って、半額シールの貼ってある惣菜を何も考えずに数点見繕い、炭酸飲料を数本買い込むと、目についたビジネスホテルに飛び込む。部屋は空いていた。

そうして殺風景な一室に入り、無駄に大きなベッドに一人横たわると、伍郎はフーと息を吐いて目を瞑った。

 つらつらと思う。

 こんな一日もあるんだなぁ。

 いったい、なんだったんだろう?

 伍郎は一人に慣れていた。離婚してから、いや、離婚する前から、伍郎は一人には慣れていた。自由と気楽。伍郎にとっては、それはとても大事なことだった。わいわいがやがやすることは嫌いではない。しかしそれは一年に一度程度あればいいのだ。誰かと一緒にいることは、多くの場合、ただただ苦痛でしかなかった。それが伍郎の本音だった。

 だからこそ、伍郎は、今の自分がひしひしと感じているこの寂しさに困惑した。

 大画面テレビの番組内で誰かがわいわい騒いでいるが、全く頭に入ってこない。きっと楽しいことを話しているんだろう。

 このホテルには温泉がなく、室内にユニットバスが設置されているのみだ。伍郎はそのユニットバスの浴槽内にお湯を溜めて入ることにした。

「入浴剤かぁ」

 味気ないただのお湯を見て、伍郎は何度目かのため息をついた。なんか、さっきからため息ばかりだ。どうにかならんものか……。

 伍郎は入浴剤を買うためにホテルを出た。少し歩くとコンビニがあることを室内の窓から外を覗いて確認したのだ。

 日曜の夜とはいえ、コンビニ内にはそれなりに客がいて、とても賑わっていた。しかし伍郎はもはやそれを気にすることはない。先ほどスーパーで惣菜などは買ってあるから、目的は入浴剤のみ。どれがいいのかよくわからないから、雰囲気重視で暖色系の色のデザインがされているものを選んだ。

 入浴剤を手に入れると、脇目も触れずにホテルに戻る。

 再びお湯を入れなおし適度に溜めると、買ってきた入浴剤を入れた。

 それは固形で、シュワシュワと音を立てて溶けていく。炭酸ガスが出て血行を良くするというやつなのだ。伍郎は驚いた。

 あ!なんてこった!

 こういうタイプだったか!

 よく見てなかった。そうと知ってたら、あらかじめ湯に入ってから入れるのになぁ。ぼんやりしてたよ……

 今日は最初から最後まで失敗の連続だ……。

 全くもってなんだかなぁ……

 それでも伍郎は湯に浸かった。考えても仕方がないのだ。こうなれば、もはやなるようにしかならない。気分転換しようにもうまくできないのなら、気分転換もやめだ。

 災い転じて福と成したのか、それとも単にお湯と入浴剤のおかげなのか、いずれにしても、しばらくするうちに、伍郎はぼんやりといい気分になった。我ながら案外単純なのだと伍郎は苦笑した。そしてしみじみと思った。

 いい思いをしたなぁ。

 いい経験をしたなぁ。

 終わってみたら、それが寂しくなるくらいのいい経験をしたなぁ。

 湯から上がり、部屋着に着替え、ベッドの脇にあるこじんまりした椅子に座ってしばらくぼんやりとしているうちに、伍郎はいつもの感覚を取り戻していた。いや、少なくともその時点では伍郎はそう思った。

 寂しさも幾分かは和らいだし、風呂に入ったことで気分転換にもなった。

 半額で買ってきた惣菜は、伍郎の好みではない煮付けとかいなり寿司だったが、それを見て

「そういえば、ビビは美味しそうに稲荷寿司を食べてたなぁ……」

と一人笑う。

 結局、伍郎は惣菜には手をつけないままに布団に入り、そして寝た。夢は見なかった。

 

 翌日。

 何事もなく淡々と時間が過ぎて、そして伍郎はホテルを出た。

 一瞬、どこかにビビがいるのではないかと思ったが、ビビはどこにもいなかった。

 その代わりに、伍郎は自分の携帯電話が車のセンターコンソールの収納ボックスに無造作に置かれているのを見つけた。

 携帯なのに携帯するのをついつい忘れてしまう。本当にどうにもならんなぁと伍郎は苦笑した。どうせ誰からもかかってこないのだから、携帯していても意味はなかったし、問題もない。その証拠に、今こうして携帯を車の中で見つけたことで、何か困ったことがあったかと聞かれても、本当に何もないのだ。

 試しに携帯を拾い上げてみると、バッテリーがなくなっていることに気づいた。液晶画面に何も表示されないのだ。おいおいおいおい。流石にこれはまずくないか、と伍郎は思った。バッテリーケーブルを取り出すと、充電器にはめ込む。携帯には疎い伍郎だったが、バッテリーケーブルは持っていた。シガーソケットにバッテリーケーブルをつなげて充電を開始する。するとすぐさまパイロットランプが点滅し始めた。しばらくすると音がした。寝てる携帯が起動したってことかな?

 そういえば!

 伍郎は思い出した。 

 そうだ、そういえば、この携帯にはビビの写真が入っている!そして札幌に帰るまでには充電も終わっているだろう。そしたら、彼女と一緒に撮った写真を見ることもできる!

 そう思うと、伍郎は気分が良くなった。少なくとも昨日の出来事は夢ではないと思えるからだ。ちゃんと証拠があるのだ。

 それにしても、昨日はいい天気だったなぁ。今日はどうなんだろうなぁ……。

 そうか、昨日行った神威岬にこれから行くのも悪くないな。素敵な美少女とのドライブを追体験するのは悪くないぞと伍郎は思った。

 けれど思いをあれこれ膨らませた結果、昨日とは違うルート、つまり国道三十六号線を通って苫小牧経由で札幌に帰ることに決めた。

 思い出は思い出。大事にしないとね。

 ビビちゃんにメールをしようと一瞬だけ思ったが、それもやめた。おそらくは迷惑がられるだろう。そういう気がしたのだ。もはやビビではない。ビビちゃん、もしくはビビさんなのだ。

 そうだ。思い出は思い出。大事なものは大事にしておくのがいい。

 そうしよう!

 伍郎は昨日買って食べなかったいなり寿司を思い出すと、一口で一気に頬張り、三十六号線を北上し始めた。

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