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 高校に入って初めての夏休みとなる前日、ビビアンは薫子から入道雲の写真を見せてもらった。それは薫子の携帯電話で撮影したもので、携帯電話のカメラであってもはっきりわかるほど鮮明に写っている。

「実際にはもっとすごかったんだよー」

 薫子は得意げにビビを見ながら

「あたしんちのベランダから見えたんだー」

 薫子の両親は温泉旅館を経営していた。函館では名の通った旅館だ。その外観から賞をもらったこともある由緒ある名館なのだ。 

 その旅館と道を一つ隔てた場所に薫子の家はあった。旅館は創業時の面影を残すことに腐心しているが、我が家となれば話は別で、モダンな要素をふんだんに取り入れた結果、以前の三角屋根の家とはまるで別物に生まれ変わってしまった。わかりやすい大きな変化の一つはベランダだ。

「あたしもアイデアを出したんだよー」

 薫子がビビアンに自慢するほどのベランダは二階のかなりの面積を占め、薫子の部屋からも出入りができた。木造の柵で囲まれたその空間はなかなかに小洒落た雰囲気で、かなり大きなタープが張ってあり、その中には長椅子やテーブルが配置してあった。よく見ると、あちこちにコンセントがあり、水道もあり、隅にはバーベキューセットもある。

 津軽海峡も遠くに見えるこのベランダで薫子一家は何度かバーベキューを楽しんでいた。

 ザ、贅沢!

 ビビアンにはそうとしか思えない、そんな贅沢なベランダで薫子は大きな入道雲を見たのだった。

「でさー、急いで撮ったんだー」

「へー、いいなぁ」

「でしょでしょー」

「いいなぁいいなぁ。私もこんな携帯欲しいなぁ」

「え、そっち?でも、携帯っていいよね。ビビも買ってもらえば?」

「うーん」

「友ちゃんも持ってるしさ」友ちゃんとは友美のことだ。仲良し三人組なのだ。

「持ってないのはビビだけだよ」

「うーん……」

 その夜、ビビアンは祖母の部屋に行き、ことの顛末を祖母に話して聞かせた。

「でね、かおちゃんが、携帯買ってもらえばって。でもお母さんそういうの、なんて言うかなぁ」

 ビビアンはおばあちゃん子だ。相談事はまずおばあちゃんに話す。それどころか、嬉しいこと、悲しいこと、学校での出来事、なんでもまずはおばあちゃんだ。

「さぁねぇ」

 ビビの祖母はにこやかに返事をした。座椅子に座っている様は、いかにも上品な歳の取り方をしてきたのだと感じさせる品の良さだ。今年六十四歳になる彼女は、ユダヤ人で、名はアンナ。アンナは金髪の白人で、俗に言うディアスポラなのだが、先祖を遡ることは困難で詳しくはわからない。わかっているのは、アンナの両親が当時のソ連、今のウクライナからアメリカに亡命したことと、自分がユダヤ人であることだけだ。

 アンナは寺の住職と結婚をして一女をもうけ、その彼女が産んだのがビビアンだった。ビビアンのキラキラ輝く金髪と白人の風貌は祖母の隔世遺伝であり、先祖返りなのだ。だからビビアンとアンナはどことなくよく似ていた。

「それに携帯って高そうだし、あの人もなんて言うか……」

 あの人とは、ビビアンの義理の父のことで、ビビアンの母親とは三年前に結婚。ビビアンは三年ほど経った今でも「あの人」と言う。

「直接聞いてみればいいじゃない」

とアンナ。

「あなたももう高校生なんだし、友達だって携帯持ってるんでしょ?」

「うん。だけど、持ってない子もいるよ」

「そうね」

 髪をうんと短くしているアンナだが、小首をかしげる様子はまだまだ若々しい。

「それは人それぞれ。で、あなたはどうしたいの?」

「私は……やっぱり欲しいかな」

 ビビアンがそう言ったとき、二人のいる部屋に阿木野四郎が入ってきた。モモヒキに見えなくもない白い短パンを履いて、上も白い半袖シャツなので、ともすれば下着姿に見えてしまう。けれども、ビビアンもアンナも、全く気にしない。

「何が欲しいって?」

入るなりそう言ってビビの頬にキスをする。これでも寺の住職だったのだ。四郎は本名で、法名は良庵という。世間的には良庵で通っているが、家の中では四郎で通していた。四郎はアンナの夫でもある。

「おじいちゃん、おかえりなさい!」

 ビビも腕を回して抱きつき、頬にキスをする。アンナと四郎は唇を軽く重ね合わせた。

「で、何が欲しいって?」と四郎。畳にどっかり腰を下ろすと、ビビアンの方を向いて再度尋ねた。

「おばあちゃんにも話したんだけど……」と言いながらことの顛末を話すビビアン。それを聞いた四郎はさも楽しげに笑った。

「なるほど。で、お母さんに聞きたいけど、携帯は高そうだから躊躇してるってことだな」

 四郎はいかにも"おじいちゃん"と呼ばれる風貌をしていた。ただし、肌は浅黒く、腹も引き締まっていて、かなり精力的に見える。笑い皺が深く刻まれていて、自分のことをくそ坊主とあだ名しているが、まるで嫌味がなかった。さっぱりしているのだ。

「俺が買ってやってもいいんだがなぁ」と四郎。そう言ってツルツル頭を撫で回す。

「そうね。それも悪くないわね」とアンナ。「でも、日奈子がなんて言うかしら?」

 日奈子とはビビアンの母親のことだ。

「うーん。いやとは言わんだろうけどな」

「日奈子には日奈子の思いもあるんじゃない?」

「そりゃそうだ。確かに。日奈子は最近ようやく落ち着いてきたからな。俺も心配したけど、洋くんと出会って、本当によかった」

「ですね」

 洋くんとは、日奈子の再婚相手で、ビビにとっては義父、つまり「あの人」だ。洋は数ヶ月前に正式に四郎の跡を継いで、寺の住職となっていた。今の四郎は晴れて隠居の身なのだ。

「なぁ、ビビ。お義父さんには慣れたか?」 四郎はいつも直球だ。

「私は……別に……」

 ビビアンは口籠った。が、ありありと自分の気持ちがその態度に滲み出ている。 

「そうかそうか」と四郎。四郎はこの質問をたびたびするが、気にしているのか気にしていないのかはよくわからない。今日の天気はどうだ?ぐらいの軽い感じなのだ。四郎は話題をサッと変えた。

「ところでビビや。佐藤の爺様、知ってるだろ?その爺様から内々に言われたんだが、お前を孫の嫁に欲しいそうだ」

「は?」と、ビビアン。

「いや、まだ爺様だけの話だそうだが、あそこの誠司の嫁が失敗で……」

「誠司さんって別れて何年でしたかしら?」 アンナが話題に入ってきた。

「もう五年くらいにはなるな。その失敗があって、えらい目に遭ったからな。今でも引きずってて、かなりの土地を手放したし」

「誠司さんって、もう結婚しないのかしら?」

「多分な。それで爺様が、息子の誠司で失敗してるから、せめて孫の相手はきちんとした方がいいってことで、それでビビはどうだろうって俺に話をしてきてな」

「私はお断り!」

 ビビアンは即座に否定した。

「だろうな」と四郎。ニコニコと屈託なく笑っている。

「そう思ってな。孫はまだ高校生だし、そんな話は聞かなかったことにするぞと言っといたよ」

「私は嫌」

「知ってる。そもそも俺が了解するわけがないだろう。金持ちとはいえ、あの家は檀家衆の中でもかなり面倒だからな」

 四郎はいつの間にか腕枕で横になっている。アンナは座椅子にもたれかかり、ビビアンは正座していた。これがいつものポジションなのだ。

「俺があんな家に可愛い孫のビビをくれてやるわけがないだろう」

「それに今はもうそんな時代でもありませんよ」とアンナも追随する。

「結婚相手はあなたが決めるのよ、ビビ。だから安心しなさい」

「もちろんよ!」

 そう言うと、ビビも四郎の横で、四郎と同じように腕枕で横になる。これはビビアンがリラックスした時のポジション。

「でだ、ビビは携帯電話が欲しいのか?」

 四郎は思い出したかのようにビビに聞いた。

「うーん。おじいちゃん買ってくれる?」

「俺は構わんけど、やっぱりお母さんにちゃんと了解取らないとな」

「お母さんかぁ」

 ビビは仰向けになって目を瞑る。そして

「お母さんかぁー」

と繰り返した。

「筋は通さんとな」念を押すように四郎がつぶやく。

 それっきり、ビビアンも、四郎も、そしてアンナも、この話題には触れなかった。

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