10
ガソリンスタンドに上半身がほぼ素っ裸のおっさんがいきなり現れ、しかも男物のTシャツを着た金髪美少女を連れているとなれば、これはもう疑うのは当然のことで、いくら丁寧に事情を説明しても、胡散臭い者を見るような目でジロジロと見られてしまうのは、ある意味仕方のないことだった。
「確かにここもさっき、ひでー雨が降ったな」
ガソリンスタンドの店長は、いかにも田舎風の小太りの親父だ。
「で、ガソリンを分けて欲しいと?」
親父は上半身素っ裸の伍郎を、どう見ても冷ややかな目で遠慮なくジロジロと見る。
「ふーん」
そして伍郎と目を合わせると、
「あんた、免許証あんの?」
と親父。伍郎は無言でズボンのポケットから雨に濡れた財布を引っ張り出した。免許証は財布の中に入っているのだ。免許証もずぶ濡れだった。ついでに車の鍵も見せた。
親父は免許証をひったくるように奪うと、さも汚いものを持つかのように扱い、ジロジロと必要以上に眺め、ぶっきらぼうに伍郎に突っ返す。車の鍵には目もくれない。
「まぁ、分けてやってもいいけどな」ややあって、ぶっきらぼうに親父はつぶやいた。
「けどな……別になんだっていいんだけどな。でもよ、あんたら、……つまりはどういう関係なんだ?」
「はい?」
「はいって、お前の相手、随分と若いじゃねぇか」と親父はビビを見ながら話す。
「しかもはっきり言って外人だ。なんかわかんねぇけど、あんまりいい感じじゃねぇな」
何か好戦的な物言いだ。
「こう言っちゃあなんだけど、どう見てもあんたの連れは若いよな。なんなら学生にしか見えねー。少なくとも親子じゃあねぇわな。それにだ、あんた自身だって、こう言っちゃあ悪いけど、二〇代には見えない」
親父は遠回しに、そして思わせぶりに話をしているが、言外に言いたいことがあるのはひしひしと伝わってくる。
「でだ、俺は別にあんたらがこんなところで何してたかなんてことは知らねぇし、知りたくもねぇ」そして、まるで汚いようなものを見る目で伍郎の肩にかかっているビビアンのワンピースを意味ありげに一瞥すると、
「その女物の服がどうとか言う気もねぇ」
手元の缶コーヒーをグイッと飲み干す。
「俺が言いたいのはだ……、あんた、ガソリンの残量くらい把握してなかったのか?」
周りくどい話の〆はそれか?
伍郎はカチンときた。
「……なるほど、わかりました」
こういう時の伍郎は極めて冷静になる。
「ありがとうございました」雨に濡れて滑り落ちた黒縁の丸眼鏡をくいと直すと、
「阿木野さん。この店の店主は、僕らに何か偏見を持ってるようだ。けど、それは仕方ない」とビビアンを促した。
「いきなり不躾なお願いをしてすみませんでした」と言って事務所を出る。そしてそのまま振り向きもせずにぐいぐいと歩き出した。
「おいこら待て待て」
と後ろから親父が大声を出す。
「あんたら、ガソリンいらないのか?」
「そこに電話ボックスがあるから、警察に電話して事情を話しますよ。そしたら何か知恵くらいは授けてくれるでしょう」
「あんたら、警察に電話して大丈夫なのか?」
「大丈夫も何も、それしか方法がないじゃないですか」
「本当にいいのか?お前の相手は学生だろ?」
「それがなんなんですか?」
「怒ってるのか?」
「いいえ」
「本当にガゾリン切れなのか?」
「こんなところで嘘を言ってどうするんです。じゃなかったら、こんなずぶ濡れになんてなってませんよ。上半身素っ裸でこんなところにだって来ません」
「嘘じゃないんだな?」
「もちろんですよ」
「わかった」
後ろから追いかけてきた親父は伍郎の正面に回った。そして五郎をじっと見ると、しばらくして、
「車はどの辺にあるんだ?」
「……さぁ。ここまで歩いて……多分二〇分くらいかかったから……」
「……そうか。よし、わかった。じゃあガソリンやる。その代わり、あんたの連れはここに残してけ。何、びしょ濡れの髪を乾かさないとならねぇだろ。それにその服もよこせ。洗って乾かしてやるから……あと、ちょっと待ってろ」と親父。どこかに行き、そして戻ってきた。
「ほら。あんたも素っ裸だとまずいだろ。これは捨てるもんだから、あんたにやるよ」
と言ってランニングシャツを伍郎にグイと押し付けた。
「あ、ありがとうございます」
「たつ!たつ!ちょっと来い!」親父がでかい声を張り上げると、どこからともなくひょろっとした若者が出てきた。ひょろっとしてはいるが、手は異様にゴツい。いかにもスパナやレンチが似合う手だ。その手で帽子をクイっと動かすと、
「なんすか?」
「この人を軽トラに乗せてちょっくら行ってこい!ガソリン切れで車がうごかねぇんだと」
「わかりました。タンクになんぼ入れてけばいいすか?」
「ここまで来れればいいからそんなにいらねぇだろ」
「っすね」フットワークの軽いその若者はあっという間に事務所に入り、車の鍵を手にするとどこかに行った。
「ということでだ、あんた、あいつの運転する軽トラで一緒に行って、またここに戻ってきてくれ。それとよ、深い意味はねーけど、念の為に聞いとくぞ。あんた、金はあるよな?」
伍郎が若者の運転する軽トラに乗り、そしてガソリンを車に入れ、軽トラの先導でガソリンスタンドに戻ってくると、ビビアンは店長の親父と談笑していた。髪はすっかり乾いているようで、ふんわりと肩から下に垂れ下がっている。それよりも驚いたのは服装で、ゆったりした真っ赤なTシャツと、これまたゆったりしたサイズのジーンズを身につけていた。遠目から見ても、そのサイズの合ってなさがはっきりとわかる。ブカブカなのだ。
ガソリンスタンドの親父は伍郎を見つけると、
「おう!大丈夫だったか?」
最初に会った時とは打って変わって信じられないくらいの笑顔で伍郎を出迎えた。本来はこういう顔なのだろうというようないい顔だ。
「お陰様です。ありがとうございました」
「よかったな。あと、ここで満タンにしていきな。まだ道中なげーんだろ?」
「そうなんです。助かります」
「それとよ、俺のかかぁの服でよければってことで、あんたの連れに着てもらったんだ。こんな天気でも、濡れてるものを着てたら風邪引くかもしれねーだろ。俺のかかぁは太ってっから、あんたの連れには全く合わねーけど、でもよ、ないよりはマシだろうってかかぁがさー」親父はゲラゲラ笑う。
「ちっとも似合ってねぇけどな。悪いな」
「いえいえ。重ね重ね、ありがとうございます」親父のかかぁとやらはどこにいない。礼をしようにもいないので、伍郎は親父に二人分の礼をした。
「いいよ、気にすんなよ。ところで、あんたらこれから神威岬に行くんだってな」
「ええ」
もうそんなことまで話したのか。というか、そもそも阿木野さんがこの親父にどういう話をしていたのかがわからない。二人の関係をいったいどのように取り繕ったのだろうか?談笑しているという事は、どんな話にせよこの親父は納得してるということか?
「とにかく今後は気をつけるんだぞ。でだ、帰りにこの道通ってまたここに寄ってけよ」と親父。
「濡れた服、乾かしておいてやるからよ。帰りに取りにこねーとな」
ああそうか。
「大丈夫。洗濯代は取らねーからよ」と言ってまたゲラゲラ笑う。
「ほら、ついでにこれ持ってけ!」
と言って親父は袋を伍郎に投げた。かりんとうの袋だった。
「それ美味いから。とにかく気をつけて行けよ」
「はい。ありがとうございます」
「ビビアンちゃんもまたね!」
「はい!ありがとうございました」
「おう!……いらっしゃいませ!」
どこからともなく客がやってきたタイミングで、伍郎とビビアンはガソリンスタンドを後にした。伍郎は頭を下げ、ビビアンは手を振った。親父は帽子を軽く振ってそれに応えた。
しばらく車で走ると、ビビアンが口を開く。
「よかったですね」
「よかったよ。助かった」
「ですね」
「にしても、本当、うっかりしてた」
「何がですか?」
「ガソリンの残量。わかってはいたんだ。けど、違うことに気を取られて……」
「いいじゃないですか」
「そうかい?」
「お陰で虹も見れたし、かりんとうももらったし。……食べますか?」
「阿木野さんは?」
「私、食べたいです」
「じゃあ食べよう!」
「そうしましょう」
二人は一気に全部食べてしまった。
伍郎の運転する車は、寿都町に入った。日本海は水平線の彼方がかすかに霞んでいるのみで、穏やかな水面が規則正しく揺れていた。その上には絵の具をきれいに塗ったような青空が隙間なく広がっている。ビビアンは海は見慣れているが、けれどもやはり「わー」と声が出た。
「海だね!」伍郎もやはりちょっとだけ感動しながら相槌を打った。しかしそれだけではない。時間的にかなり遅れてはいるが、いずれにしても、ここまで来たら、あとは積丹まで一気に行けるという安堵の思いもあった。
「後はこの道を一直線に進めばいいんだよ」
伍郎は言った。
「予定よりはちょっと遅れてるけど、確実に着くのは間違いないからね」
そのあと、なぜかビビアンは突然無口になった。何か思案に暮れるように車窓から流れていく海を見ている。
となると伍郎も沈黙せざるを得なかったのだが、それは伍郎にとって、ちょっとした苦痛だった。
何かを話さなければならない。
今朝の出会いから、伍郎はずっと会話を絶やさないように頑張ってきた。それは沈黙が怖かったからだ。そういう気持ちにさせるのだ。隣には美少女が乗っている。未だ緊張は続いているのだ。
しかしながら、伍郎は無力だった。この状態で何ができるわけでもなく、結果として、ちょっとした空白の時間がただただ流れていった。
うーむ。
こういう時には音楽だよなぁ。
もちろん自分ひとりだけなら、好みの曲をその時の気分でかけたらいい。けど、どう贔屓目に見ても、今のこの状況ではドン引きされるだろうなぁ。
伍郎はそう確信していた。アニメなら話題になるだけまだマシだが、プログレ、プログレッシブ・ロックとなると、歌詞は英語だし無駄に難解だし、おまけに一曲一曲が長いしで、聴く人を選ぶ嫌いもある。じゃあ特撮か?即却下だろう。
隣の美少女はどんな曲が好きなのだろう?やっぱり今流行りのポップスかな?いや待て、そもそも今ってどんな曲が流行ってるんだろう?
音楽は流行り廃りで聴くものではなく、好きな曲を聴く。これが伍郎の音楽との関わり方だ。しかし、同時に伍郎はちょっとした偏見も持っていた。若い女性は流行りの曲を好む、という偏見だ。
この頃の伍郎は、ともすると、女性を一括りにして判断してしまうような危うさがあり、それが偏見に繋がっていた。女性に縁がない男性は、女性を"個人"として見ることが案外難しい。一度離婚を経験している伍郎にとってもそれは同じことだった。
逆に言うなら、女性を感じさせない女性とは接しやすいのだ。しかし、その接しやすかったはずの女性とも上手く続かずあっさり離婚。
世の中は上手くいかないものだな。
さて、どうしたものか……
そういえば、この美少女は白人だよな。ということは英語ができるんだろうか?というか、ペラペラな感じがする!それならプログレありかもしれん!
いつの間にか自分の思いに没頭してた伍郎がビビアンの呼びかけに気づいたのは、目の前の信号が赤になった時だった。
「……あのう」
「え、あ、はい?」
「あのう……、私、実はお願いがあるんですけど……」
お願い、とはなんだろう?伍郎は現実に引き戻された。音楽の話は頭から吹き飛んで、その代わりに美少女の声が頭に響く。
「ん、なんだい?」
「メルアド交換しませんか?」
「!」
冗談でしょ?
そんな伍郎の思いを打ち消すように、ビビアンは
「メルアド交換しませんか?」
と再度伍郎に聞いた。
メルアドというのはメールアドレスのことで、伍郎もそんなことは百も承知だ。
え、こんなおっさんとメールアドレス交換?どういうことだ?
疑問は膨らむ。が、美少女はどうやら本気のようで、不安げに伍郎を見つめていた。相変わらずのレーザービームが伍郎に突き刺さる。
「……君さえ良ければ」ようやく平常心を保つ伍郎。
「よかった!嬉しいです!」ビビアンは弾けるように喜ぶと、早速ゴソゴソとバッグから携帯電話を取り出した。
「今かい?」伍郎は素っ頓狂な声を出した。
「ダメですか?」
「いや、ダメじゃないよ」
伍郎は車をゆっくりと路肩に乗せて停めると、ハザードランプを点灯させた。そして自分の携帯電話を探す。それはマニュアルレバーの手前の収納ボックスに無造作に置かれていた。
伍郎は携帯電話をよく携帯し忘れる。今回はそのおかげで雨に濡れずに済んだが、本来の携帯電話の使い方からすれば、伍郎は携帯電話の使い方をまるでわかっていなかった。
一方、ビビアンは携帯電話を赤いハンドバックに入れていたため、これまた濡れずに済んでいた。買ったばかりのおニューなのだ。少しでもきれいに使いたいのだ。
そうしてお互いに無傷の携帯電話を取り出すと、伍郎は気づいた。
そういえば、メルアドは携帯電話を買い替えてから設定していないぞ。そして過去に使っていたアドレスはすっかり忘れてしまっていた。
「うーん」
「どうしました?」
「メールアドレスを忘れちゃったよ」
「そうなんですか?」
「まあでも、それなら再設定すればいいか……」
「そうですよ」
「というか、電話番号も怪しいなぁ。自分の携帯なのに覚えてない気がする……」
「えー、そうなんですか?」
お互いに携帯を操作し合う。伍郎は思いつきでサッと新しいアドレスを決めた。すかさずビビアンに伝える。その後にあれこれ調べて探し当てた電話番号も伝えた。ビビアンは嬉しそうに登録すると、自分のアドレスと電話番号も伍郎に伝える。
「よし……っと」
「ん」
「これでいいね!」
「ですね!でも、試しにちょっとメール送ってくれませんか?」
「え?ああ、そうだね」
伍郎は本文の欄に
テスト
と文字を入れてメールを送った。
すぐにビビアンの携帯電話の着信音が鳴る。北海道の田舎でも携帯電波は十分に届いているのだ。が、もちろん確認したかったのはそこではない。
ビビアンは心底嬉しそうにメールを見ると、
何やら操作した。すぐに伍郎の携帯が鳴る。納得したビビアンは携帯をバッグの中に大事そうにしまった。伍郎が自分の携帯を見ると
よろしくお願いします
と文字が打ってあった。
「あと、もう一つお願いがあるんですけど……」
「ん?」
まだ何かあるのか?思わずビビアンをガン見してしまう伍郎。ビビアンは節目がちに
「私のこと、阿木野さんじゃなくて、名前で呼んで欲しいんですけど……」
「……名前で?」
「はい。嫌ですか?」
「嫌……じゃないけど」
そうきたかぁ。うーむ。
戸惑う五郎をビビアンは察したのか、それとも最初からそう呼ばれたかったからなのか、
「友達からはビビって呼ばれてます」
とフォロー。
なるほど、ビビ……ね。
「じゃあ僕もビビって呼んでいいのかな?それともビビちゃん?ビビさん?」
「ビビで良いです。だって床侶さんは私より年上だし」
その理屈はいまいちよくわからないが、阿木野さんが望むならそうしよう。
「じゃあビビで。いいかな?」
「はい、ビビで!」
「わかった。じゃあついでにだけど、僕のことも伍郎さんと呼んでくれないかな?」
「わかりました、伍郎さん!」
「うむ、ところで……ビビ」
「はい?」
「さっき携帯電話で時間見たら、予定よりかなり時間押してる感じなんだ」
「はい」
「だからちょっと急がないと、八時までにあき……ビビは函館に帰れないかもしれないよ」
「それは大変ですね」
しかし、セリフとは裏腹に、ビビはいかにもゆったりと落ち着いていた。時間なんてそんなものはどうでもいいという感じだ。
「とにかくここからはちょっと急がないとね」
「はい」
伍郎はハザードランプを解除すると、車を勢いよく発進させた。法定速度なんて普段は全く気にしないが、助手席に人が乗ってる今は違う。とはいうものの、五郎はチラッと標識を見ると、あとは無視してアクセルを踏んだ。
とにかく急ごう!
神威岬までもうそんなに時間ははかからないはずなのだ。まずは目的地、その後のことはその後で考えたらいいのだ。
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