8

 問題はいつも突然やってくる。そしてそれは、自分達で対処できることもあれば、対処できないこともある。

 車内での昼食を済ませ、すっかり会話も打ち解けてきたころにそれは突然起こった。

「ん、あれ?」

 伍郎が突如、素っ頓狂な声を出したのだ。と同時に車がみるみる減速、程なく完全に止まってしまう。

「どうしたんですか?」

「いや……」

 全くもって想定外。車が突然止まってしまったのだ。伍郎とビビアンはお互いに顔を見合わせた。二人ともポカンとしている。

 何が起きたのか、全くわからないという風情で、二人はお互いを見た。

 どこかの故障?それとも……

 伍郎は少しの間があってから、ようやく(多くの人が真っ先に行うことだが)メーターを確認した。

 すぐに重大な事実に気づく。

 ガソリンの残量計がゼロになっていた。

 燃料が空っぽだったのだ。

 あーいかん。と声にならない声を伍郎は出した。あーいかん。やっちまったぁ。そうかぁ、そうだった。長万部に着くあたりでガソリンには気づいてたんだよ。けど、ラーメン屋が探せなくて、すっかりそっちに気を取られてしまってた。なんてこった。明らかに舞い上がってたよー。

 伍郎は軽くパニックになってしまった。あれこれ言いたいが、それらは全て「あー」という声に変換されてしまう。

「どうかしましたか?」とビビアン。

 ビビアンはゆったりと助手席に座っていた。少なくとも、表面上は全くもって落ち着きはらっている。状況を飲み込めていないだけなのかもしれないが、その落ち着きはむしろ五郎を冷静にした。

「あーごめん!うーんと、実はね、ガソリンがなくなってしまったんだ。だから車が止まってしまって……」

 誤魔化すこともせず、勿体ぶることもせず、伍郎は正直に状況を話した。と同時に心底情けなくなった。

 何か今日はもうずっとふわふわしっぱなしだと伍郎は思った。もちろん原因はわかっている。しかしわかっていてもうまく対処できない。そして対処できないことがとても情けなかった。

 普段であれば、一人であれば、こんな情けない状況になることなんてまずない。けれど、隣に金髪の美少女がいるという、ただそれだけのことで、これほどまでに動揺してしまう自分が心底情けないと伍郎は思った。しかしながら、そうやって情けないと嘆いていたら問題が雲散霧消してしまう訳などなく、ガソリンの残量計が満タンを指し示すわけでもない。どうにかしてガソリンを補充しなければならないのだ。しかも出来るだけ早急に。

「なるほど。ガソリンがないんですね」

 ビビアンはやはり落ち着いていた。状況をわかっているのかいないのかは伍郎にはわからなかったが、とても十八歳には思えないほどに落ち着いているのは確かだった。ビビアンが本当は十五歳だということを知ったら、伍郎は驚愕しただろう。ビビアンは伍郎を笑顔で見つめ、そして少しの間があって、こう言った。

「で、どうします?」

 それはあたかも、食後の飲み物を訪ねるような、軽い感じのつぶやきにも似た一言だった。どうぞあなたのお好きに。そんな軽い一言だった。

 伍郎は考えた。いや、正確には考えるふりをした。実は結論はすでに出ていたのだ。そしてそれは極めて簡単なものだった。というより、答えなんて一つしかなかったのだ。

「こうなったらガソリンスタンドまで歩くしかない。それでガソリンを分けてもらうんだ」

「なるほど」

「どれくらい歩くのかはわからないけど、歩くしかないよ」

「なら歩きましょう」

 こんな時のためのJAFなのだが、伍郎は登録していない。が、今はそれに関してああだこうだと言ってる場合ではなかった。

 かくして、二人は協力して車を路肩に寄せると、しっかりとロックしておき、ハザードランプを点滅させる代わりに三角表示板を目立つように置いておいた。これまでのさまざまな経験から、伍郎は三角表示板を備えていたのだ。しかし、実際に使うのはこれが初めてだった。

「準備よし!だね」

「ですね」

「じゃあ行こう!」 

 二人は進行方向に向かってテクテクと歩き始めた。来た道を戻るよりもその方がいいだろうという伍郎の判断だった。それが正しいかどうかはわからない。まさに賭けだ。

 二人が並んで歩くと、やはり伍郎の方が背が高く、頭ひとつ程度の差があった。伍郎は百七〇センチ程度、ビビアンは百六十センチより低いという感じだろうか。釣り合いが取れていて、不思議にしっくりくる二人なのだが、この時点ではそんなことは二人の意識の片隅にもない。伍郎はとにかくガソリンとビビアンの体力面のことで頭がいっぱいだったし、逆にビビアンはそんな伍郎を時折チラ見しては、なぜかにっこりしている。

 二人が歩く路面を、日光が容赦なく照りつけていた。道の両脇には、種類のわからない木が立ち並んでいたが、道幅の広い路面には、二人から日差しを遮るものなど何もない。北海道は確かに本州よりは涼しいが、それでも夏はそれなりに暑く、しかも今日の気温は三十度超えだ。

 ビビアンは日焼けを全く気にしてない様子ではあった。しかし、これだけの白い肌なのだ。やはり気になるのではないだろうか?伍郎はその辺りの事情が全くわからないので聞いてみた。

「クリーム塗ってきたから大丈夫です」

とビビアン。対策はしてますよと言わんばかりに少し誇らしげだ。

「そうか。暑くはないかい?」

「暑いけど大丈夫です」

 伍郎の心の中で、後悔の念が浮かんでは消え、浮かんでは消えた。もっとちゃんとガソリンの残量を確認すればよかった。スーパーに寄る前にガソリンスタンドに寄ればよかった。あぁ、途中までは覚えてたのにな。

 この道をどのくらい歩くのか、本当に検討がつかない。かなり歩くことになるのだろうか?それとも長万部の方に戻った方が良かったのだろうか?この辺りなら黒松内に行く方が近いとは思うが、確証など何もないのだ。

 前方の空には入道雲が浮かんでいる。車から見ている分にはなんでもなかったが、今こうしてゆっくり歩きながら見ていると、モコモコと勢いよく動き、急速に発達しているのがはっきりとわかった。

「あれって車で走ってた時にも見えてたけど、こうして見るとすごいね。なんかこっちに来そうだ。ひょっとして雨が降ってきたりして……」

「どうでしょう?」

 悪い予感は的中。入道雲はかなりの勢いで二人のいる空に迫り、そしていきなり大粒の激しい雨を降らせた。当然のことながら傘はない。道の脇の木々も役に立ちそうにない。考える間も無く、あっという間に二人はずぶ濡れになってしまった。

「予感的中!なんてこった」と伍郎。

「ははは」とビビアン。「濡れちゃったー」

「……だね」と伍郎。「もうどうにでもなれ!」

 濡れたまま二人は歩き続けた。というより、さながら服を着たまま泳いでいるかのようだ。二人のかけているメガネもあっという間に水滴で役に立たなくなった。

「なんにも見えない!」ビビはまた笑った。

「なんかもうすごいね」伍郎もやけくそぎみに応じた。

「大丈夫かい?」

「もちろんです!」

「バッグとか中身濡れてないかい?」

「これ高いんですよ。だから大丈夫です」

 大声を張り上げないと何も聞こえないし伝わらない。雨音は激しく響き、雨粒はメガネ越しの視界を奪い、痛いくらいに激しく肌に叩きつけられている。

 そんな中を伍郎は歩き続けた。その横でビビアンは何やら鼻歌を歌っているように見えたが、なんの曲か伍郎にはわからない。

 雨で煙る前方に、何やら看板が見えたような気がした。それどころか、何かの建物があるようにも見える。近づくと、どうやら野球場のようだった。

「雨宿りしてくかい?」

「もうこんなに濡れちゃったから、雨宿りなんて無駄ですよ」

 その通りだった。こんなにずぶ濡れでは、雨宿りの意味など全くない。

「なんかごめんね」

「気にしないでください。むしろ涼しくなりました」

「それは……確かにそうだね」

「それにほら……」

「ん?……お!」

 滝のような雨は唐突に止んだ。そして雨など降ってなかったかのように、いきなり日差しが戻ってきた。

「………………」

「………………」 

 二人はお互いを見た。そしてどちらからともなく笑顔になり、そして笑い合った。

「ははは」

「ははは」

「もうね……」

「本当ですね。……でも、雨が止んでよかったですね」

「ホントだね。けど……全部びちょびちょだよ」

「ですね」

 強い日差しが戻ってくると、少しの息苦しさと共に幻想的な風景が現れた。雨に濡れた木々や建物が、キラキラと輝き出したのだ。ビビアンの濡れた長い金髪も肌にまとわりつつキラキラと煌めく。世界の全てがいきなり光り輝いた。鳥や虫の鳴き声も辺りに響き渡り、いかにも幻想的な風景だ。

 伍郎は濡れたメガネを軽く振って水滴を逃すと再度かけ直し、そして辺りを見回す。

「阿木野さん、ほらあれ!」

 そう言うと、通り雨の過ぎ去っていった方向を指差した。

 そこには大きく鮮やかな虹が見事な半円形を描いているではないか!

「わぁ……きれい……」

「はっきり見えるよね!今回は二重じゃあないけど」

「ですね」

「でも色鮮やかですごくきれいだ!」

「ですね!」

 二人はお互いに見つめ合って頷いた。

 が。

 伍郎はそこでようやく気づいた。

 ビビアンの着ていた薄い藍色のワンピースがピタリと肌にまとわりつき、彼女の肉体の凹凸が否応なしにあらわとなっていたのだ。

 こ、これは……

 伍郎が驚くのも無理はない。それは少女というにはあまりにも素晴らしい曲線であり、そして年齢に対してもこれまたあまりにも不釣り合いな、ある種完成された体型だったのだ。

 その時の伍郎の思いを素直に表現するなら、

 わ、巨乳!

 しかも、雨に濡れて服が完全に透けてしまった結果、ブラのみならず、パンティのデザインや形状までがはっきりと見えているではないか!

 それは淡いピンク色で、派手な装飾は一切ないが、品よくデザインされていた。少し小さめの下着なのかな?と思うほどにぴっちりした感じではあるが、それ故に覆い隠している部分ががこれでもかと強調されている。特に胸のボリューム感たるや、思わず凝視してしまうほどの圧倒的存在感だった。

 が……。

 が、しかし。

 伍郎は我に帰った。気づいてしまったのだ。

 これはまずい!

 これでは困る!

 とてもじゃないが、この状態で彼女を歩かせるわけにはいかないじゃないか!

 まだガソリンは手に入っていないのだ。したがって、まだビビアンはこの先の道をガソリンスタンドまで一緒に歩かなければならない。しかし、このスケスケの格好で歩くのは、事実上不可能だ!確かにこれまでは車とすれ違うこともなく追い越されたこともなかったし、おそらく歩行者などどこにもいないだろう。けれど、万が一誰かに見られたとしたら……

「………………」

 伍郎は考えた。考えなければならなかった。が、考えようと考えまいと、答えはたった一つしかない。すぐに覚悟を決めると、勢いよく自分の服を脱いだ。Tシャツしか着ていないので、脱ぐと上半身は素っ裸になってしまうが、そんなことはどうでもいい。脱いだTシャツを力任せに両手で絞ると、パンッと一振りし

「これ着てくれるかな?」

「?」

「素敵な服だけど、そんなにも透けてるのは流石によくないからさ」

 ビビアンは伍郎の指摘でようやく自分の置かれた状況を理解した。と同時にパァッと頬が上気する。体を少しくねらせるが、透けている服はもうどうにもならない。

「林の奥の方で服を着替えてくればいいよ」

 ビビアンは返事もそこそこにそそくさと走っていった。

 ああ。

 それにしても……

 伍郎は、この後に及んで、たるんだ自分の腹に幻滅した。

 なんかもう、色々と情けない。今日はうまくいかないことのオンパレードだよ全く。

 なんだろう。この次から次へとあれこれ続くこの感じ。

 何か悪いことでもしたのか?

 ことごとく情けない状況、そして状態。しかも、どうにもならないのだ。今すぐに改善できるわけでもない。

 とりあえず、伍郎はビビアンの入っていった林の方からあえて目を背けていたが、しばらくして音がしたので振り返ると、ちょうどビビアンが林の方から出てきたところだった。思った通り、伍郎のTシャツのサイズはビビアンにはかなり大きい。しかしそれゆえにワンピース風にまとまって見えた。遠くから見る分には意外に違和感がまるでない。

 もちろんそうは言っても、丈はどうしても短い。太腿のかなりの部分が顕になってしまっていた。サイズはともかく、どことなくセクシー風になってしまうのはどうしようもいのだ。しかし、少なくとも、これなら道を歩いていてもおかしくはない(と思う)。もちろん公然猥褻として通報されることもない(と思う)。一度濡れてしまったあのワンピースはいくら水気を飛ばしたところでそれなりに透けてしまうだろう。今はそれを避けねばならないのだ。

「遅くなってごめんなさい。……あのう。私、大丈夫ですか?」とビビアン。恥ずかしそうな雰囲気で頬をピンクに染めている。

「……大丈夫。大丈夫だよ。どこも透けてないし、見えてないし。それより僕のTシャツで大丈夫だったかい?」

 とは言ったものの、伍郎のTシャツを着る以外の選択肢はないのだ。あまりに間抜けな質問だった。

「大丈夫です。ありがとうございます。……でも……なんかちょっと恥ずかしい感じです」

「しばらくはそれしかないんだ。ごめんよ」

「いいんです。それより床侶さんは服がなくて大丈夫ですか?」

 ビビアンは、伍郎の素っ裸の上半身を見つめていた。そりゃあマッチョだったり、そうでなくてもある程度は引き締まっている方が見た目はいいに決まっている。けれど、現実はといえば、たるんだ腹はお世辞にも素敵とは言えない。いかにも運動不足な中年の体だ。人に見せるような代物ではなかった。

「………………」

 伍郎は何も言わずに自分の腹を揺らすと、勢いよくポンと叩いた。そして笑った。やけくそ気味だったのだが、ビビアンがつられて笑うのを見て、伍郎は思った。

 いいのだ。僕は十分情けない。けど、これでいいのだ。

「あ!」とビビアン。

「ん?どうした?」と伍郎。何かあったのか?僕のTシャツのどこかが破れてるのか?それとも臭かったか?

「私、失敗しちゃいました!」

「え?何を?」

「さっきの虹!写真撮り忘れちゃいました!携帯持ってたのに!」

 再びの強い日差しは、雨など最初からなかったかのように路面を熱している。そしてもちろん虹はもう見えない。濡れた路面は急速に、そして独特の匂いと共に乾いていき、空もまた何事もなかったかのように晴れ渡っている。入道雲は遠く彼方だ。

 伍郎とビビアンの二人は、雨上がり特有の息苦しい道路をまたも歩き始めた。あれこれ言っても始まらない。とにかく歩かなければならないのだ。

 びしょ濡れのビビアンのワンピースは、優しく絞った後に吾郎自ら、自分の肩にかけた。

「こうしたらさ、ちょっとは服を着てる感じじゃないか?」

 なるようになるさ。とにかくあとどのくらい歩くのか。伍郎はそれが知りたかった。

 幸いなことに、どうやら既に黒松内町には入ってるようだ。あとはそれがどこにあるかなのだ。なんとかしてくれぇ。

 それは唐突に見えた。

「あった!」

「ありました!」

 二人の前方、十字路の交差点の右脇にそれは見えた。見慣れたマーク。それは紛れもないガソリンスタンドの印だった。

 思わずハイタッチをする二人。

 ガソリンスタンドは思った以上に近かったのだ。

「よかったぁ。これでなんとかなるよ」

「ですね」

 ビビがハイタッチのために跳ね上がる瞬間、Tシャツの裾からピンクの三角形が見えたような気がしたが、伍郎はあえて無視した。

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