17

 帰りの道中はあっさりしたもので、特にこれといったハプニングもなく、車は快調に函館に向かっていた。

 神威岬でうっかり買い忘れたお土産は岩内町で調達。そこから今度は海岸線ではなくニセコの山を横目に走る山道を選び、車をひたすらに走らせる。

 伍郎とビビはすっかり打ち解けていた。

「ねぇ伍郎さん、運転中は危ないから私がお菓子あげます」

と言って、個包装されたお菓子の包みを開けては五郎の口に運ぶ。

 伍郎は大いに照れた。いやいやいやいやいや。嬉しいけどなんだかくすぐったいものがあるよ。

 うねうねした道をすいすい走る車の中で、伍郎の口に、定期的にお菓子を運ぶビビ。

 お菓子はあっという間になくなってしまった。

「もっと買って来ればよかったですね」

「だね。ところでビビはどんなお菓子が好きなのかな?」

「私はやっぱりお煎餅かな」

「バリバリ齧れるのがいいよね」

「お茶が合うんですよ」

「いいねぇ。お茶は熱い方が好きだな」

「私も!でも夏は冷たいのでもいいかも」

「夏は暑いもんね」

「ですよ」

 借り物の真っ赤なTシャツとダボダボのジーンズが相変わらず似合ってないビビだが、その雰囲気は早くも長年連れ添った夫婦のような佇まいで、完全にリラックスしきっていた。人目をまるで気にしないで済む山道を走っているのだから、男性の、おっさんの性欲には少しぐらい警戒してもよさそうなものなのだが、ビビには警戒のけの字もない。それどころか、座席であぐらをかいて眠そうにウトウトしていた。

 そして程なく寝落ち。

 心地よい車内で、山道であっても安定した走りとなれば、リラックスしたビビが寝落ちするのは必然だったのだ。

 ふと、

「すっかり寝ているね」

 と声がしてビビはビクッと体を震わせた。

「いや、寝てませんよ」と苦笑いを浮かべる。

体を起こして、寝てないアピールをした。

「いいのだ。寝たい時に寝るのがいいのだよ。それは当たり前のことだからね」

「そうなんですか?」

「なんなら私も寝てもいいかな?私は睡眠学習が得意でね。なんなら車の運転も睡眠学習でマスターしたくらいなのだ」

「やめてください」ビビは笑う。「危ないでしょ」

「いや大丈夫。こう見えても、事故を起こしたことは一度もない。それどころか事故を起こした記憶もない」

「それってむしろ危ない人じゃないですか」

「私は危険な男なのだ。人生は常に危険と隣り合わせなんだよ」

「私は安全な方がいいです」

「私もだ。しかし、今この瞬間にここからどこかへ落っこちるかもしれない。ほら、下を見てご覧」

「ひゃぁ」

「怖いかな?」

「すごいですね。怖いです」

「ところで、虹から落っこちた時には怖くはなかったかな?」

「虹?」

「そう。虹だ」

 ビビは妙な違和感を感じた。なぜ伍郎は虹の話を知っているのか。

「上を見てご覧」

 ビビは驚いた。ずっと上の方に虹が輝いている。

「あの虹から君は落っこちたんだよ」

「え、え?」

 ビビは混乱した。五郎の顔を見ると、とても穏やかに笑っている。何かが変だ。そういえば彼の服はいつの間にかスーツになっている……

「いいかね。私と出会った時、君は虹を見ることになっているのだ。君はあの虹を見てどう思う?」

「とても綺麗だと思う」

「それが答えだよ」

「……そうか。これは夢ね。あなたは夢の男性なんだわ」

「では私の顔をよくご覧」

「あなたは伍郎さんでしょ?」

「私は私だ」

「伍郎さんだわ!」

「ごろうという名を私は知らない。けれどはっきりしていることがある。私の顔を君は見つけたんだね」

「そう!あなたは伍郎さんだわ!」

「そうなのか……」夢の男性はいかにもがっかりしたような顔でビビを見た。

「え、どうしたの?」とビビ。夢の男性は大袈裟にため息をつくと、

「もう少しイケメンでありたかった……」

そう言って落ち込む仕草を見せる。

「え、そうなの?そんなこと私ちっとも気にしてないけど」

「私が気にするのだ……せめて七頭身ぐらいのスタイルでいたかった」

「あら、伍郎さんはそれくらいあるわよ」

「そうかい?」

「ええ。それに私、もうわかったの」

「なにをだい?」

「あなたが伍郎さんだってこと」

「私は君を教え導く者だよ」

「ということは、伍郎さんではないってこと?でもあなたは伍郎さんよ」

「ということは、今の私の顔には靄がかかってないということなんだね」

「ええ、伍郎さんの顔そのものよ」

「私は君を教え導く者なんだがなぁ」

「そういえば私ね、いつも思ってたんだけど、ひょっとしてあなたは私から"先生"って呼ばれたいの?」

「私は先生ではない」

「けど、教え導くんでしょ?」

「うむ」

「じゃあ先生だわ。あなたは伍郎さんだし学校の先生じゃないけど、けど、そう呼ばれたいなら呼んでもいいわ。あなたは私の先生なのよ」

「なるほど」

 夢の男性は納得したようだった。

「ところで先生……」

「なんだい?」

「私、お願いがあるの」

「お願いとは?」

「これが夢なら、覚めないでほしいの」

「ほほう」

「感心している場合じゃないわ。私は真剣なの!」

「私も真剣だ」

「ならお願い!夢なら覚めないで!あなたは私を教え導くんでしょ?先生なんでしょ?なら、あの虹を二人で渡りたい!」

「なるほど」夢の男性は文字通り満面の笑みを浮かべると、

「足元をご覧」と言った。

 ビビが足元を見ると、いつの間にかビビも夢の男性も虹の上に立っている。そこはとても高い虹の頂点で、風が心地よかった。

「いつもここから二人で落っこちるのだ」と夢の男性。なぜか楽しそうだ。

「今回はどうかな?やっぱり落っこちるのかな?それとも……」

「もちろん渡りきるわ!一緒に歩きましょ」

「まあまあそう急がない」

 夢の男性は諭すようにビビに言うと、虹の縁に腰を下ろした。

「虹の下は今、雨が降っているのだ。だからもう私はずぶ濡れだ」

 見ると、夢の男性はスーツではなくランニングシャツになっている。あのガソリンスタンドで伍郎が頑固親父の店長から譲り受けたものだ。ビビ自身も赤いTシャツとダボダボのジーンズ姿になっていた。

「急いではいけないよ。特に二人でいる時には」夢の男性はそう言って自分の隣に座るようにビビを促した。ビビが隣に座ると

「雨は虹とセットなのだ」と夢の男性は言った。

「だからこそ急いではいけないんだよ」

「そうね」

「それに急ぐと決まって疲れるものだ」

「私、疲れてませんけど」

「ならなぜ君は今、眠っているんだ?」

 そう言われた途端に、ビビはなぜか猛烈に眠くなった。体が脱力し、コクリコクリと頭が揺れる。私、眠ってなんかいません。と、話すつもりが、言葉にならない。

 ねぬっれなんら、い……

 何かが滑った。

「あ!」

と、思わず声が出る。

「どうしたの?」と声。

 ビビは目が覚めた。胸がドキドキする。てっきり虹から落っこちたかと思ったのだ。しかし、ビビは助手席に座っていた。いつの間にか寝ていたらしい。

「すみません……私、寝てましたか?」

「少しの間だけどね」

 見ると、五郎の服が、ランニングシャツから黒いTシャツに変わっていた。

「ビビが寝てる間にあのガソリンスタンドまで来たからお土産渡して挨拶してきたんだ。服も乾いてたから預かってきたよ」

 後部座席に丁寧に畳まれた衣類が置いてあった。

「あの親父の奥さんもいてね。びっくりするくらい太ってた。ビビが寝てる話をしたら、起こさないでいいし、服もそのまま着てていいからって言ってくれてね」

「そうなんですね。悪いことしちゃった」

「僕達の関係をあれこれ聞かれて本当に困ったよ」

「そうなんですね。で、どう答えたんですか?」

「彼女は留学生なんです!とかなんとか適当に誤魔化してたらニヤニヤされたけど」

「そうなんですね。よかった。私もアメリカから留学できて、五郎さんから色々と教えてもらってたんですって話してたんですよ。伍郎さんは学校の先生なんです」

「僕が先生?」

「そう。伍郎さんは私を教え導く先生なんです」

 二人を乗せた車は長万部町まで来ていた。そろそろ夕方と言っていい時刻で、強烈な日差しに燦々と輝いていた景色も、徐々にではあるが落ち着いた色調に変化していく。

 ビビの門限までには充分間に合うどころか、食事もできるくらいの余裕があった。

「そろそろ夕食の時間だね」と伍郎。

「そうですね」とビビ。

 夕食は函館で摂ろう。

 二人の意見は一致した。

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