16

 ビビはいつもならあまり函館山付近には近づかない。とはいえ、それにはこれといった理由など何もなく、ただ単に物理的に遠いという、それが最大にして唯一の理由だった。行くのはせいぜい五稜郭あたりまでで、そこから先は函館山まで何もない。そういう認識でもあった。

 だからこそ久々の函館山はとても新鮮で、ビビの目にはまるで観光地のように映った。もちろん函館は実際にも立派な観光地なのであって、休日ともなれば、多くの人でごった返している。しかも今日は、昨日までの気の重くなるような長雨がどこかへ行ってしまい、代わりにどこまでも濃い青空が熱気を伴ってびっしり隙間なく広がっているのだ。そしてその熱気が降り注ぐロープウェイ乗り場もまた、観光地のご多分にもれず、多くの人でごった返していた。

 ビビがロープウェイ乗り場に来たのは午後の早い時間だったのだが、早くもここに来たことを後悔していた。人混みに覿面に酔ってしまったのだ。昔からビビは人混みが苦手だし嫌いだ。物理的にも心理的にも嫌なのだ。

 とはいえ、ここまで来た以上は帰れない。せっかく来たのだから、せめて山頂までは行こうと決めていた。ビビにとって幸いだったのは、前の日に四郎おじいちゃんから小遣いをもらっていたことで、おかげでロープウェイにも心置きなく乗れる。高校生になったとはいえ、ビビは母からも祖父母からもバイトを禁止されていた。なので、ロープウェイの料金であってもビビには大きな負担なのだ。

 切符売り場で切符を買い、一人で列に並ぶ。ビビにはワクワク感などまるでなかった。その代わりに、誰かから話しかけられたら嫌だなぁという警戒心があった。

 私はただ、昨日、離れの温泉でおじいちゃんから聞いた、おじいちゃんおばあちゃんの思い出の地に行きたい、そう思っただけなのだ。だから誰も私に話しかけないで。

 ビビはそう思う。

 けれども、一方でビビはこうも思う。

 きっとおじいちゃんおばあちゃんもこうして山頂まで登ったんだろうなぁ。

 そう思うことで、ビビは少しだけ気分が高揚した。言葉ではうまく言い表せないけど、その出会いがなかったら、私もこの世にはいないのだ。そう思うと、なんだか不思議な感じがした。

 人の流れに沿ってロープウェイに乗ると、ビビはよそ見などせずに正面の函館山だけを見た。それは山頂についてからも同様で、ただただ前だけを見て歩いた。人酔いを避けるためにはこれが最も有効なのだ。

 しかし、山頂の建物の外に出ると、その途端、函館の景色が圧倒的なスケールでビビの目に入り込んできた。想像以上の立体感で物凄い大迫力だ。

 ビビはただただじっとその風景を見た。

 何か……すごい!

けれども同時に、

 これってよく見る風景だ!

とも思った。それもそのはず、函館市民なら函館山に登らずとも、どこかで必ずこの風景を見ているのだ。イラストで、絵画で、映像で。函館には函館山から見た風景がありとあらゆるところにあるのだ。だから、実物を見ても「よく見る!」と思うのは当然のことなのだ。

 しかし、ビビが感じたのはそういうことではなかった。

 何かが……。

 そう、何かが……。

 ビビはぼんやりと考えながら、なんとなく人の流れに沿って歩く。

 函館山山頂は案外広く、ぶらぶらと歩いて時間を潰すことができる程度の広さがあった。よく知られた、函館の街を一望することのできる展望台の反対側には、実は函館湾を見下ろすことのできる展望台もあった。そこには三角形を並べてデザインしたモニュメントが置かれており、函館山と書かれたそのモニュメントをバックに記念写真を撮る人も大勢いる。

 そんな人たちをぼんやりと見ながら、ふとビビは思った。

 山頂ってこんなに広かったんだー。じゃあさ、おじいちゃんおばあちゃんはこの広い山頂のどこで出会ったんだろう?

 せっかくここまで来たのだ。どうせなら詳しく知りたいじゃない。

 けれども、今こうして函館山山頂にいても、祖父母の過去の思い出は蘇らなかった。おじいちゃんおばあちゃんの出会いは、二人にしかわからないのだ。

 もっとちゃんと詳細を聞いておけばよかったとビビは後悔した。これではなんというか、自分の気持ちが実に中途半端だ。

 そういえば……、とビビは昨日の会話を思い出す。

 そういえばおじいちゃん、おばあちゃんとここで出会った時に写真撮ったって話してたっけ。

 そうか!なら今度その写真を見せてもらえばいい!そしたら出会った場所だってきっとはっきりわかるわ!

 ビビは思わず笑顔になった。

 そうだ。おじいちゃんおばあちゃんにプレゼントを買っていこう!二人にプレゼントを渡して、それから写真見せてって頼もう!それならきっと写真を見せてくれるに違いない!建物内に土産コーナーみたいなショップがあったはずだから、そこで何か買っていこう!おじいちゃんからもらった小遣いはまだ余っているのだ。

 うー何がいいかな?何を買っていこうかな?どんなのが売ってるんだろう?きゃー楽しみすぎる!

 けど……とビビは急に我に帰る。

 そして改めて思う。

 この広い展望台のどこかでおじいちゃんとおばあちゃんは出会ったのね。なんかそれってすごい!

 ビビはあちこち歩き回った。もう人混みは気にならない。気にならない分だけ、勢いよく動いた。信じられないくらい、いい天気なのだ。きっとおじいちゃんおばあちゃんが出会った時もいい天気だったに違いない!すごい!なんかすごいロマンチック!

 大勢の人々が思い思いに景色を堪能するそんな人混みの中を、気の赴くままにビビは歩いた。函館山の山頂は実は傾斜があって、展望台はその傾斜を生かした作りになっていた。そのため、場所によってはそれなりに傾斜がきついところもあるのだが、対策としてあちこちにちょっとした階段がある。

 その階段を登ろうとして、ビビが手すりに手をかけた時、正面から老夫婦が歩いてきた。気付くのが遅れたため慌てて避けるビビ。しかし避けた先で

 !

 ビビは何かにぶつかってしまった。いや、正確には何かがぶつかってきた。

 あっぶなーい!よろけながらも相手を思わず睨みつけてしまうビビ。

「あ、すみません」と男性。

 その男性を見てビビは驚いた。

 

 あ!夢の男性!


 なぜなのかはわからない。けれど、ビビは確かに夢の男性だと思った。間違いない!夢に出てくるあの男性だ!

 驚きのあまり、何も言うことができない。しかし、そうなのだ。目の前にいるのは、まさにあの夢の男性なのだ。

 ビビはしばらく呆然と男性を見つめていたが、ようやく我に帰ると、なんとか言葉を絞り出す。

「ごめんなさい、大丈夫……ですか?」

「ああ、いえ、大丈夫です。あなたこそ大丈夫ですか?」と目の前の男性。

「大丈夫です。こちらこそ本当にごめんなさい」ビビは頭を下げた。

「いや、あの、すみません。なんでもないです。ははは」

「私もなんでもないです。本当にごめんなさい」

「いやいや、ぶつかったのは僕なんだし」

 何か勝手が違う。ビビはそう思った。夢の男性にしては、随分とよそよそしいのだ。そもそも夢の男性は"僕"なんて言わない。けれど、それでも目の前の男性は夢の男性なのだとビビは確信した。なぜかはわからない。わからないけど確信したのだ。

「あのう……どちらからいらしたんですか?」

 目の前の男性がそう聞いてきた。

 え?私を忘れたの?

 ビビは本気でそう思った。夢と現実をごちゃ混ぜにしている感覚はなかった。だからこそ驚いた。

「あのう……函館です」

「え、はぁ……そうなんですね。僕はてっきり観光で函館に来たのかと思って」

 観光?ビビは戸惑う。そしてすぐに気づいた。ああ、私の見た目!

「私、日本人なんです……最も、誰も一目見ただけでは私を日本人だとは思わないようですけど」

「は、はぁ」

「私、変ですか?」

「いやいや。変とかそういうのではなくて」

「確かに私、元々はアメリカ人なんです。私みたいな感じって変ですか?」

「いやいやいやいやいや」

 なんか、似たようなやりとりを夢の中でもしたような……。ああ、夢か……、え、でもこれって夢?……じゃないわ!これって現実だわ!

 でも目の前にいるのは間違いなく夢の中の男性なのだ。

「ところで、一人でここに来たんですか?」と、夢の中の男性……じゃない。現実の誰かが私に聞いてる。答えなきゃ。

「はい。一度函館山に来てみたくて。実は地元民なのにあまり来たことがなかったんです」

「そうなんですね。地元民あるあるですね。実は僕も小学校の修学旅行以来なんです。って、あ、わかりますか、修学旅行って?」

 なんか調子が狂う感じ。本当に私のことを何も知らないの?いつものあの調子はどこに行ったの?なんか私、すごく混乱する。まるで現実と夢が重なってる感じよ。いや、これは夢なんかじゃない。そして夢の男性は今こうしてここにいるのだ。ああ、どうしよう。何か答えなくちゃ。

「……わかります。私の時は札幌でした」

「へぇ、そうなんですね」

 ビビは目の前の男性をじっと見た。どう見てもやはり夢の男性だ。お腹の出方もそっくりだし、雰囲気もそう。話し方は違うけど、声だってそっくりだ。

 黒縁の丸眼鏡同様に、とんがったところがない穏やかで暖かい感じの顔。

 そうか、そうなのね、あなたの顔はそういう顔だったのね。

 ビビはようやく夢の男性の顔を見ることができたと思った。靄がかかってよくわからなかった顔なのだ。訳のわからないことを話していた夢の男性の顔は、とても穏やかでものすごく優しい顔だったのだ。

 そうかぁ。こんなに素敵な顔だったのね!

 けれども、ビビのそんな思いとは裏腹に、目の前の男性はなぜか自分を避けようとしているようにビビには思えた。あまりにもよそよそしいのだ。

 どうしたのかしら?

「大丈夫ですか?」

 ビビは尋ねた。そうだ。話題だ。もっと話がしたい。

「あのう。あなたは一人できたんですか?」

「え?あ、ああ、一人で来たんです。札幌から」

「そうなんですね。札幌は素敵な街ですよね。函館には誰かに会いに来たんですか?」

「いえいえ。一人でぶらっと。自由気ままな一人旅です」

「いいですね。ところで……これからの予定はあるんですか?」

 ビビにとって、これはとても大事な質問だった。ビビはもっともっとこの夢の男性と話がしたかった。そう強く願った。しかし、そのためには目の前の男性と自分を繋ぎ止めることがどうしても必要だった。まだ若いビビにはそのための方法なんて全くわからない。けれど、それでも、これは絶対に必要なことなのだ。

「やっぱり夜景も見たいので、もう一度今夜ここに来ようかなと思ってます」と目の前の男性。

「いいですね」ビビはにっこり微笑んだ。

「じゃあ私も来ようかな」

「!」

 目の前の男性はひどく驚いたようだった。

 え?

 私、何か変なことを言ったかしら?

「ああ、そうか、それはいいよね。でも、君のような若い女の子は夜に出歩いたらいけないんじゃないかな?」

 ビビにはそれはとても強い口調に感じられた。強く拒絶されたように思えた。

 どういうこと?

 何が何だかわからない。

 私に会いたくないってこと?

 そうじゃない。私が聞きたいのはそうじゃない。あなたは本当に夢の男性なのかが知りたいのに。私はそれが知りたいのに。あなたは私を教え導く義務があるんじゃないの?

 しかしそういう思いとは裏腹に、

「……そうですよね」とビビは同意する。

「ここは日本だけど、やっぱりそれなりに危険だからね」と男性も畳み掛けた。

「……ですよね」ビビはそれ以外の返答を思いつかない。そして

「……ですよね」同じ言葉を繰り返すしかなかった。

「どうしても来たいなら、家族に連れてきてもらうのがいいよ」

「……そうします」

「うん、それがいいよ。もし家族に連れてきてもらえるのだったら安心だし、ひょっとしたらまたこうして会えるかもしれないね!」

 またこうして……会える……

 そうか!そうよね!

「ですね……ですね!」

「では、今夜君と会えるのを楽しみにしているよ。またね。気をつけて帰るんだよ」

「はい!」

「じゃあ」

 目の前の男性はそそくさとその場を後にして、どこかへ行ってしまった。あっさりとあっけない幕引きだった。しかし、ビビにはもはやそんなことはどうでもいい。いや、どうでもいいのではない。ビビは最後の言葉のやりとりに望みをかけた。

 "また会えるかもしれないしね!"

 もしまた今夜この函館山に来たら会えるかもしれない。確かにそうだ。そうか、ならおじいちゃんに連れてきてもらうのがいい!そうしよう!……けど、無理だったらどうしよう?そういえば、おじいちゃん今夜はどこかに行くとか言ってたような気がする。

 うーん、どうしよう……

 ビビは悩んだ。

 しかし、一方ではすでに心を決めてもいた。

 どんなことがあっても、また今夜この函館山に来よう。門限はあるけどそれでも来よう。あの男性は夜にまた来ると言ってた。ならきっと来る。必ず来る!それなら私も来よう!お小遣いだってお土産を無しにすればまだロープウェイを使える分だけあるし!でもって、夜にまた来ればいいのよ!

 そしたらまたあの夢の男性ときっと会えるんだわ!  

 会って、いろいろ話がしたい。

 そうだ、夢の中で着ていた服を着て、また今夜函館山に来よう!

 普段は着ない、アンナおばあちゃんから譲り受けたあのワンピース!あれを着てここに来よう!

 ビビは夢の男性が消えた人混みの方を見ながら、階段の手すりにつかまってじっと立っていた。仮に親友の薫子がその様子を見ていたなら、

「何をそんなにニヤニヤしてるのよ」などと冷やかされたに違いない。

 ビビは嬉しくてたまらなかったのだ。

 ひょっとして次に会ったら"私に気づいてくれる"かもしれない。それとも、そう思うことは馬鹿馬鹿しいことなのかな?

 青空が広がる函館山の山頂の景色が、夢の中で虹を渡っている時に見た景色に似ていることに、ビビはまるで気がつかなかった。

 そもそもそれどころではなかったのだ。

 

 夢の中の男性に本当に出会うなんて、まるで夢みたい!

 

 ビビはただただそう思ったのだった。

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