15
雨はもう三日ばかり降り続いている。たとえ雨を好む人であっても、長く続くと気分はどんよりするのではないだろうか。そしてこんな時、多くの人は気分転換をすることだろう。それはそれがとても有効だからで、もちろんビビも例外ではない。
ビビは図書館から自宅に帰ると、すぐに温泉に入ろうと思った。
ビビの家には浴室がふたつある。自宅にある浴室と、ビビの祖父の四郎が趣味で作った離れの温泉だ。
函館には有名な温泉地があるが、それ以外にも温泉の湧き出る場所があり、四郎の所有する寺の敷地内にもそういう場所があった。
そもそも寺や神社というものは、その土地自体が一等地で、俗に言うパワースポットも多い。四郎の所有する寺もまたそういう場所にあった。ゆえに温泉が湧き出すのは不思議なことではないのだ。
そもそもこの温泉は四郎の先代、つまり、四郎の父が「夢のお告げ」で掘り当てたものなのだが、初めは掘建小屋に温泉を引っ張って地域に解放していた。誰でも気軽に入って良い、しかも無料でいいという、いかにも坊さんらしい配慮だった。しかしこの姿勢は地域の温泉組合と揉める原因となり、長い話し合いが続いた挙句に地域への解放をやめることにした。掘建小屋も壊して、ただの更地に戻した。
結果として、四郎が先代から寺を譲り受けた時には、この温泉のことなど忘れ去られてしまい、完全に家族のみのプライベートな温泉と化していたのだった。
そんな家族でのみ使う温泉。当初はその温泉を自宅の浴室に引いて使っていたのだが、四郎の妻であるアンナが
「自宅だと温泉という気がしない」
と言ったことから、四郎は一計を案じる。目をつけたのは東屋として使っていた建物で、これを取り壊し、新たに「離れの温泉」として立て直すことにしたのだ。
元々四郎は寺を継ぐ気は全くなく、大工として生きていくつもりだった。腕前もなかなかのもので、だからこそこの手の改築はお手のものだった。いや、むしろあまりにも出来が良かったことから、四郎とアンナは出来上がった離れの温泉にばかり入るようになり、おじいちゃんばあちゃん子であるビビもやはりこの離れの温泉にばかり入るようになってしまった。ちなみに、自宅の浴室も檜の浴槽で造りは立派ではあるが、こちらにはもっぱら日奈子と洋の家族が入っている。
さて、長雨で気分転換したいビビは、自分の部屋から下着の替えを持って離れの温泉に向かうと、専用の鍵を使ってドアを開け、そして内側からロックした。これで離れの温泉は自分だけのものになる。
ビビはなんの躊躇いもなく服を脱ぎ捨てた。黒縁の眼鏡も外し、長い金髪を髪ゴムで器用に手際よく押さえると、早速浴室に入る。
離れの温泉の浴室はそれなりに広く、浴槽は大人三人がゆったり入れる余裕があった。総檜の贅沢な作りで、もちろん洗い場も広く三人分のスペースが確保されている。ビビは決まって左端の蛇口を利用した。シャンプーとリンス、石鹸はすでに備え付けてあり、これもビビのお気に入りのものだ。かけ湯をすると、掛け流しの温泉が絶えず豊富に溢れている浴槽に勢いよく入る。途端にザーッと音を立てて温泉が溢れた。この音、この感覚こそビビのお気に入りなのだ。
あー気持ちいいなぁー
なんかいいなー
この話をすると、薫子は
「えーそれっておばさんくさいー」
と笑った。
「そう?わたしは好きだけど」
「マジでー?あたしなんて、入ってもすぐ出るからお母さんから怒られてさー。あんたは毎回烏の行水だ!って」
「かおちゃん家は温泉旅館じゃない」
「そうだけどさー」薫子は苦笑する。
「けど、だから温泉好きとは限らないじゃん」
「そりゃそうだけど」
「温泉なんて熱いしさ。あたし、熱いの苦手なんだよねー」
「そっかぁ」
薫子はビビとは性格がかなり違うが、それでも二人は馬が合った。薫子は、ビビにとっては数少ない「自分が白人であることを気にしなくてもいい」相手なのだ。だから、薫子の前では、ビビは普段通りでいられた。それは、オシャレやファッション、あるいは思想で"普段通り"だの"私らしく"だの言うのとは全く違うもので、ビビにとってはとても大事なことだった。
「おーいビビ、入ってるのか?」
不意に、浴室の大きな窓の外から声がした。明らかにビビの祖父である阿木野四郎の声だ。しかし姿は見えない。浴室の周りには竹でこさえた塀があり、浴室内が見えないように工夫されているからだ。
そもそも北海道には竹はないとされているが、松前町には孟宗竹林と呼ばれる竹林があった。温暖な気候でしか育たない竹が育つことのできる北限にあるのが孟宗竹林なのだ。
もちろんその竹林の竹を無断で使うことはできない。そこで四郎はわざわざ本州の業者から竹を購入していた。四郎はそれを「ちょっとしたこだわり」
だと称していたが、もちろんそれはちょっとなどというレベルではない。こだわりにしては随分と手が込んでいた。
その手が込んでいる竹塀の向こうから四郎が呼びかけていた。
「おーいビビ、入ってるのか?俺も入りにきたんだけどなー、入っていいかー?」
「ちょっと待って。鍵開けるから」
ビビは四郎に対してなんの抵抗感もない。いついかなる時も、ビビにとっての四郎は大好きなおじいちゃんなのだ。ビビが幼い頃からお風呂はずっと一緒。だからなんの問題もない。
程なくして、四郎は、ビビの浸かっている浴槽内にその身を沈めていた。そしてやはり、というか、御多分に洩れずというか。温泉に入ると四郎もただのおじいさんを化す。
「あぁ」
まさにうっとりした様子で極楽の声を絞り出した。と同時に首や肩をコキコキと動かす。目を瞑って、そしてゆっくり開けると
「しかし、ビビは眼鏡がない方が美人だなぁ」とにっこり微笑んだ。
「ぇえ?」
「コンタクトってやつにしたらいいんじゃないか?」
「いやよ。だってめんどくさそうだもん」
「でも、ビビだって美人と言われた方がいいだろ?」
「私はそんなのどうでもいい」
「そうかい?俺は自分の孫が美人だと言われると嬉しいけどな」
「じゃあおじいちゃんと一緒の時には眼鏡外す。けど、それだとおじいちゃんの顔がよく見えなくなるけど、それでもいい?」
「それは困るなぁ」
そう言うと、四郎は屈託なく笑う。ビビもつられて笑った。
「……にしても、いやぁまいったよ」
「どうしたの?」
「さっきアンナに言われたんだよ。あなた、最近キスの態度が等閑だって」
「なおざり?」
「おざなりではないぞ。いや、この場合はどっちでもいいのかな」
「どっちにしても意味がわからない」
「学校では教えてくれないのか」
「うーん。聞いたことはないかも」
「そうか。まあどっちも"適当"って意味なんだがな。早い話、アンナは、私のことを愛しているの?って言いたかったんだな」
「そうなの?」
「そうだ。まあ俺も悪いんだけどな。つまらんことだから内容は秘密だが、実はちょっとしたものをアンナにプレゼントしようと思ってな」
ビビを溺愛している四郎は、秘密と言いながらもこうして内容を漏らしてしまうことが多々ある。よくあることなので、四郎本人もビビもなんとも思ってはいない。
「でだ、そのプレゼントのことであれやこれやと悩んでいたら、ついついキスが等閑になってしまって」
「それはダメね」とビビ。
「だね。反省せねば」そう言うと、四郎は浴槽内に自らぶくぶくと声を出しながら沈んでいき、そしてゆっくりと浮かんできて
「反省」とにっこり。
ビビも笑った。
「まあしかし、俺とアンナが出会ったのが、ちょうど今の季節だからなぁ」
「へー。そうなの?」
「だから、やっぱり何か記念のプレゼントをしたくてなぁ」
「なるほど。そうなのね。すごく素敵!」
「だろ?俺はロマンチックな男なんだ!」
「知ってる!」
ビビと四郎はお互いに笑い合う。
「けど、私、おじいちゃんとおばあちゃんが羨ましいなぁ。だって、今でもすごく仲良しだし」
「まあな」
「なんでそんなに仲良しなの?」
「それはあれだ、お互いに出てるところと引っこんでるところの相性が良かったんだな」
四郎は屈託なく笑う。四郎は今でいう後期高齢者なのだが、気持ちが若いのだろう。色恋話が大好きで、だからそういう話題も多かった。それでもいやらしさがまるでないのは、本人の人徳としか言い様がない。
「えへへ。そうなんだー」
「でなけりゃあ、こんなに長くは続かんよ」
「そういえば、おじいちゃんとおばあちゃんはどうやって出会ったの?」
「あれ、まだ話してなかったかな?」
「話してないよ」
「そうか、そうだったかな?……いやぁ、実はな、アンナからそういう話をするのを止められててな」
四郎はツルツル頭を撫で回すと
「まあせっかくだし、俺もそろそろくたばるかもしれん。だからまあ、ビビになら話してもいいかな」
「聞きたい聞きたい聞かせて」
「とは言っても、大袈裟な話は何もないんだ」四郎はもう一度頭を撫で回した。
「俺とアンナは函館山で出会ったんだよ」
「へぇ」
「えーっとあの時俺は幾つだったかなぁ、忘れたなぁ」
「いつも肝心なところは"忘れた"だよねー」
「あっはっは。すまん。とにかく若い頃の話だ。季節はまさに今ごろだな。実は日時も覚えてるが……まあとにかくだ、俺がロープウェイで函館山に登って夜景見てたら、後ろから声をかけられたんだ」
「そうなの?」
「すみません、写真撮ってもらえますか?ってな」
「そうなんだ」
「短い、けど燃えるような金髪の外国人女性がニコニコして俺を見てたよ。俺はその時は洋画が好きだったから、金髪女性ってやつと一度会ってみてぇなと思ってて」と、四郎は再度頭を撫でると
「だから感動したなぁ」とにっこりした。
「へぇ。でもさ、おばあちゃんってその頃から日本語話してたの?」
「いや、英語だった。だからもう全部推測よ。なんとなくこう言ってるんじゃねぇーかなって感じだ。そりゃあ俺も洋画好きで洋楽も好きだったから、それなりに英語は勉強したつもりだったけど、本場の英語は全くわからなくてな。だから最初は推測と身振り手振りだわな」
「そうなんだー」とビビ。いつの間にか浴槽の縁に腰掛け、時折足をばたつかせながら話を聞いている。四郎は湯に浸かりながら、あれこれ思い出したような遠い目で話を続けた。
「アンナは一人旅で、寂しいから食事に付き合えって……、いや、多分そう言ってるんだとその時は思って、だから今でも付き合いのある檀家衆の寿司屋に連れてったんだ。ほら、ビビも知ってるはま寿司」
「ああ、そういえば、あそこのおじいさんとこの前会って、で、おじいちゃんによろしくって言ってた!」
「あそこの息子は東京に出ていって、今はそこで寿司屋やってるから、まあ安心だわな」
「函館でお店やればいいのにね」
「色々あるんだよ」
「そうかぁ」
「ま、そんなこんなでな。今に至ると」
「えー何それー!それで終わり?もっと詳しく聞きたいー」
「そのうちな」
「なんでー今聞きたいー」
「ビビはもうのぼせてるだろ?」
「大丈夫よ」
「顔が真っ赤になって茹蛸になってるぞ」
「そんなことないわ。私色白だし」
「まあ、ビビも機会があるなら函館山に行ってみたら、そういう出会いが待ってるかもしれん。そういう話ってことだ」
「そんなわけないでしょ」
「確かに。そんなに都合よく出会いがあるなら、誰だって函館山に行くわな」
四郎は屈託なく笑い、そして小声で付け加えた。
「ビビはまだ十五歳だから愛だの恋だのはまだ現実的じゃないか。けどひょっとしたら、佐藤の爺様のところの孫に会ったりするかもしれん。運命の出会いってやつだ」
「えー。だってその話は無くなったんでしょ?」
「いや。俺が許さんと言っただけで、向こうにはまだ伝えとらん。だから断ってもおらんしな。それに、あの孫……名前なんてったかなぁ……とにかくいい男、イケメンだそうだぞ」
「えー、いやよ、断ってよ」
「そうか。イケメンでも嫌か。確かにあそこの家は色々あって今は大変だけど、あの孫はしっかりしたいい
「そうなの?でも嫌なものは嫌よ。だって、全然知らないし」
「一回会ってみたら印象変わるかもな」
「それはわかんないけど、嫌なものは嫌」
「そうか。まあでも安心しろ。この俺が許さないと言ったら、もうその時点でこの話はないんだ」
「ならいいけど」
「しかしなビビ。運命ってやつは、どこでどうなるのかわからんからな」
両手で顔をゴシゴシと扱いて首や肩をコキコキ動かすと、四郎は真顔になった。
「俺はだ。俺は運命ってやつは信じない。そもそも仏なんてものを俺は全く信じてない」
「おじいちゃんそれいつも言ってるね」
「そうだ。本当に信じてないからな。ただし、不思議なことは、これは確かにある。幽霊とかじゃなくてな。そんなものではない、もっと不思議なもの、それは確かにある」
「不思議なもの……」
「たとえば、何かのカンのようなものだな。直感と言い換えてもいい。それはある。ピンと来るんだ。アンナとの出会いは結局それだったな。俺は思った。"この女とずっと死ぬまで生きていくんだな"って」
「そうなんだ」
「それに、そもそもこの温泉だって、先代が夢のお告げで掘り当てたものだし」
「あーその話おじいちゃんから前聞いた!」
「そうだったかな」
「うん。俺は先代を誇りに思う!っていつも最後に言ってるじゃない」
「だったか」四郎は頭をつるりと撫でた。
「そうよ!」ビビは笑う。四郎も笑った。
「なぁビビ、お前も直感を大事にしろよ。ついでに夢のお告げもな」
「わかった!ところでおじいちゃん、そろそろ出ない?」
「おう!もうすっかりあったまったしな」
二人は浴室から出た。茹蛸のように顔を真っ赤にした四郎はすぐに椅子に座る。これまた全身がほんのりピンクになったビビは脱衣室に備え付けてある冷蔵庫からサイダーを取り出すと四郎に渡し、自分は麦茶を取り出してごくごくと飲み干した。それから上気した体を四郎の隣の椅子に横たえる。
二人とも素っ裸だが、お互いになんとも思ってはいない。こうやってぼんやりするのがいつものパターンなのだ。
しばらくして、ビビが「思い出した!」と言わんばかりの声を上げた。
「ねぇ、そういえばまだ雨降ってた?」
「ん?……ああ、俺がここに来る時にはまだ降ってたぞ」
「そっかぁー」
雨は憂鬱だ。夏休みに入ってからずっとスッキリしない天気が続いている。そしてここ三日間はずっと雨。
せっかくの夏休みなのにすごく勿体無いとビビは思った。雨を避けるようにして家族とディニーランドに行っている薫子が羨ましい。
「雨に濡れるのは迷惑だが、けどそろそろ着替えて、家に戻らんとな」と四郎。
「うん」
二人はいそいそと着替え、離れの温泉から出た。
外は晴れている。
「あ、雨が上がってる!」
「本当だな」
夏特有の、あの雨上がりの蒸し暑さがあたりを漂っていた。しかしながら、ビビにはそれがかえって心地よく感じられた。
「久々の青空!」
そしてビビは見つけた。
「あ!」
それは大きな虹だった。
幸運!ビビはそう思った。そして写真!
あの虹の夢を見始めた時から、ビビは虹を見ると写真を撮るようになっていた。幸い、ビビのジーンズのポケットには四郎から買ってもらったばかりの携帯電話が入っている。すぐに取り出すと、素早くシャッターを切った。
「おじいちゃん見て見て!」
「おーすごいなぁ」
四郎に買ってもらう前に、ビビは久々に母親とちゃんと会話をして、おじいちゃんである四郎から携帯電話を買ってもらうことを承諾してもらっていたのだ。
「ねーすごいよねー」ビビは綺麗に撮れた虹を満足げに見ながらそうつぶやいた。
「よく見ると、虹が二重になっとる」
「本当だー」
実際には、虹を見たからといって、その後に良いことが起こる訳など無い。虹は単なる自然現象でしかないのだ。
しかし、ビビはもう知っている。
虹を見るということそれ自体が既に幸運なのだということを。そして幸運は積み重ねていくものであるということを。
「おじいちゃん、私、明日函館山に行ってみようかな」とビビ。
「そうか。気をつけていくんだぞ」と四郎。ビビを見るその瞳はまるで
そう言うと思った
と、語っているかのようだ。
「さ、戻ろう」
二人は自宅に戻った。
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