からふるビビっと 虹を渡る二人

中野渡文人

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 ビビは今でも平成十六年の夏のあの出会いのことを懐かしく伍郎に語ることがある。たいていの場合は寝物語としてなのだが、たまに食事の時とか入浴時とかドライブの時など、いかにも、ふと思い出したかのように語るのだ。

 しかも、それがあまりにも楽しげに語るものだから、伍郎もついつい釣られて笑顔になってしまう。しかし、実はそのことについて、伍郎はビビほど鮮明に覚えているわけではなかった。

 もちろん理由はある。伍郎にとって、その出会いは、あまりにも眩し過ぎたのだ。目が眩むと、対象物も、またその周りもよく見えなくなる。それと同様に、伍郎にとってのその出会いは、おいそれと直視できるようなものではなかったのだ。

 そもそも"出会い"などというものは自分には無縁だと伍郎は思っていた。ビビと出会うまでは"出会い"そのものを経験したことすらなかった。ましてや素晴らしいなどと思えるような出会いなんて、例えるなら宝くじ一等に当たるようなもので、当時の自分にとっては夢まぼろし程度のものでしかなかったのだ。

 確かに伍郎は一度結婚した。しかし、そこに至るまでに経験したであろう出会いを、伍郎は全く思い出せなかった。それは決して「眩しかった」からではなく、むしろ、最初から出会いなどというものなどなかったとしか思えない。「気づいたら」「いつの間にか」なのであり、今にして思えば、相手に対する思い入れなどまるでなかった。「なんとなく」という、とてもぼんやりしたものだったのだ。あえて言うなら「向こうがこちらの隙間に入り込んできた」というのが正直な印象だった。

 そもそも伍郎自身、出会いというものを「映画やドラマで表現されがち」な「ものすごく安っぽいもの」だと決めつけていた。経験したことがないのだからそれはある意味仕方のないことだった。手の届かない世界に関して、人はいいイメージを持つか、悪いイメージを持つかに分かれる。あるいは近視眼的になってしまうことだってあるのかもしれない。いずれにしても、人はそれまでの自分の経験に照らし合わせて判断するものだ。伍郎の場合は「所詮は」などと決めつけてしまうことが多かった。「あり得ない」などとあっさり否定してしまうことも多かった。

 しかし、万が一、本当にそれが自分の身に起こったとしたらどうだろう?

 本当に素晴らしい出会いをしてしまったとしたらどうだろう?

 宝くじ一等を本当に当ててしまったとしたらどうだろう?

 どんな気分になるのだろうか?

「嬉しいけど、ひょっとしてこの後大きな失敗が待っているのかも?」

などと勘ぐってしまうのだろうか?いや、それ以前に 

「俺には私にはそんな良いことなんて絶対に起こらない!」

などと思い込み、パニックを起こすのだろうか?

 こればかりは現実になってみないとわからない。身の回りで宝くじ一等を当てた人なんているのだろうか?そんな人を知っているだろうか?。

 しかし、宝くじで言うなら、必ず一等は存在するのだ。誰に幸運が舞い込むのか、それがわからないだけで、確実に幸運はある。しかしその幸運とやらに、多くの人は無縁だ。運と不運。この運命と上手に折り合いをつけるのはとても難しい。

 今にして思えば、ビビとの出会いは、あまりにも煌めいていた。一言で言うなら「ありえない」ことだった。ゆえに伍郎は、目を開けてその煌めきを、幸運をしっかりと見ることができなかったのだ。

 それは壮年から中年に差し掛かろうとしていた伍郎にとって、ある意味当然のことだったのかもしれない。当時の伍郎には、その出会いの記憶をしっかりと脳裏に焼き付けることなど到底できなかったのだ。

 しかしながら、そして幸いなことに、その後の伍郎の人生は、ビビと共にまだ続いている。そして、まさにビビのお陰で、今では伍郎もかなり細部までその幸運についての記憶を辿ることができるようになっている。


 平成十六年八月の函館は、晴天が続き、そのおかげで色鮮やかにキラキラと輝いていた。夏の北海道は、その多くが観光地として賑わうが(もっとも、北海道が観光客で賑わうのは何もこの時期だけではなく、ほぼ一年を通して賑わうのだが)函館も例外ではない。道外ナンバーの車も多く走るし、垢抜けた感じの鮮やかなファッションに身を包んだ小洒落た人たちがあちらこちらを(とはいえ地元民はあまり寄り付かない観光地を)せっせと歩きまわってもいた。函館山のロープウェイは年々集客力が落ちてはいるものの、それでも日本三大夜景の威力はまだ存分に残っていて、だから函館自体も大いに賑わっていた。異国情緒たっぷりの街の面影は、観光客の誘致という点では、まだまだ捨てたものではないのだ。

 そんな八月のとある土曜日。

 この日も朝から快晴で、避暑地だというのに暑い函館市内は、にもかかわらず多くの人で溢れかえっていた。

 そしてその中に床侶伍郎もいた。

 函館名物であるやきとり弁当目当てで、わざわざ札幌市から車を走らせてきたのだ。高速道路を使わず一般道を使うのがマイルールの伍郎なので、長時間の運転は全く苦にならない。むしろロングドライブを心から楽しんでいた。見知らぬ景色、非日常を感じながら走ることこそ伍郎にとっての至福のひと時なのだ。言い換えるなら、伍郎にとっては運転自体が目的なのだ。

 今でも車にカーナビをつけていない伍郎は、全てにおいて経験と感覚がものを言う。それこそがドライブの醍醐味なのであって、だからこそ運転自体が目的なのだ。行き当たりばったりの連続だが、そこが面白いのだし、見知らぬ景色に出会える喜びもある。非日常を満喫できるのだ。

 友人からの情報で偶然知ったやきとり弁当だが、実はどこで売られているのか、伍郎は全く知らなかった。それどころか、友人から詳細を聞くこともなかった。実はやきとり弁当自体には興味がなかったのだ。しかし、それでも全く問題はない。なんであれ、それが何かのきっかけになれば、中身はなんでもいいのだ。きっかけさえあれば、あとはどうとでもなる。

 元々名物とか名所に対してはかなり淡白な伍郎なのだ。そこそこ美味ければなんでもいい。そこそこの値段ならなんでもいいのだ。 函館市内に入り、それとなく注意していると、やきとり弁当を売っている店をあっさりと見つけてしまった。あまりにもあっさりと販売店を見つけてしまったため、伍郎は一度その販売店を素通りしてしまった。なにか損をした気分になったのだ。別に今回は買わないでもいいかな。そう思った。そんなに腹は減ってない。もう少し走ってもいいかな。我ながら少し天邪鬼だとは思うものの、気分が乗らないのだから仕方がない。

 ラジオから正午の時報が流れなかったら、伍郎はやきとり弁当を買わなかっただろう。

「そうか。昼か」

ならばと伍郎は道を引き返し、その販売店に立ち寄った。店内はあまり混んではおらず、なのでスムーズにやきとり弁当を買うことができた。このスムーズさはとても大事なことだ。そもそもこだわりがないので、メニューで悩むこともない。

 それなりに満足して店を出ると、以前函館に来た時に気に入って目をつけていたとある場所を思いつき、迷うことなくそこに向かった。

 走る車の車窓からは何気に外を見ると、昼を少し過ぎた函館のキラキラと輝く海が見える。津軽海峡はとても穏やかに揺れていた。海の向こうには下北半島が見える。伍郎の故郷は青森で、だから函館に来ると、下北半島の見えるこの道を走る。

 伍郎はしばしぼんやりと流れる景色をぼんやり見つつ

「いい天気だなぁ」

と呟いた。とても贅沢な時間だと思った。リラックスしているがゆえに、心にも余裕がある。こういう時の運転は、一見無頓着に見えるが、実は最も安全なのだ。

 目をつけていた場所はもちろん海の見えるところで、土曜日ということもあって多くの車で混んでいた。普段であれば人混みが嫌いな伍郎だが、今はさほど気にもならず、空いているスペースを見るけると迷うことなく車を乗り入れる。一息つくとエンジンを止め、すぐにシートベルトを外した。そしてシートを少しだけ倒すと、今度はじっくりと車窓からの景色を見る。

 海も山も、そして空も混じり気なしの綺麗な色をしていた。全てが明るく華やいでいた。エンジンを止めたことで車内は静かなはずなのだが、それでもなんとなく賑やかなのだ。

 伍郎は目をつむった。心地よい疲れがじわじわと体に染みていく感じがして、途端に眠くなる。目をつむったままシートを限界まで倒すと、車内の形状に合わせるようにして体を伸ばした。心がどこかへ飛んでいきそうだ。が、伸ばした手が何かにぶつかり、乾いたビニール袋がガサガサと音を立てたことで、伍郎は助手席に置いてあるやきとり弁当の存在を思い出した。そういえば弁当買ったなぁ。

 この車の助手席には文字通り誰も座ったことがない。何もないか、何かのモノが占拠しているのかのどちらかだ。この日はやきとり弁当が助手席を占拠していた。まだ買ってからそこまで時間が経ってないために程よく温かいやきとり弁当。冷める前に、というより、この天気なので腐らないようにしなければならない。伍郎はシートを起こすと、やきとり弁当を袋からごそごそと出して食べ始めた。

 やきとり弁当の焼き鳥は、鶏肉ではなく豚肉だ。伍郎は塩味の焼き鳥を買っていた。いい塩梅にしょっぱく、そして程よく旨味があった。味は申し分ない。問題は量で、三本の串では物足りないのは分かっていた。なので、弁当とは別に追加で焼き鳥を五本買っていたのだが、それでもやはりちょっと足りなかった。食べ物は質より量。しかし、どうにもならないときには諦めも肝心で、こういう時の伍郎は「仕方がない」と実にあっさりしたものだ。

 車窓からは函館山も見えた。とても肉厚の山で、裾野も広い。山と表記されるが、実は典型的な陸繋島だ。日本三大夜景の一角を占める函館最大の観光スポットでもあり、また、パワースポットでもある。正確には函館山の麓にある函館八幡宮がパワースポットなのだが、そんな瑣末なことなど誰も気にはしない。

 三百三十四メートルの函館山山頂まではロープウェイが設置され、多くの人がその山に登っては素晴らしい景色を堪能していた。

 実は伍郎も小学生の頃の修学旅行で函館山に登り、曇り空の下での夜景を見ているのだが、函館山にはなんの思い入れもなかった。それは学生時代の修学旅行という、あまりにも遠い記憶の一部でしかなかったのだ。しかし、今こうしてじっくりと函館山を見ると、ひょっとしたら、かなり魅力的なところなのかもしれないなぁと思う。

 いや、むしろ車窓から見える函館山に対して、伍郎はなぜか俄然興味が湧いた。素直に登ってみたいと思った。

 そうか。そうだよな。時間もあるし、明日は日曜だ。今のところは特にすることもない。となるとせっかくのチャンスだ。函館山に行ってみよう。なに、予定なんて今の俺には何もないのだ。なんなら函館山の近くのどこかのホテルに泊まって、夜に函館山に行くのでもいい。それこそ夜景を見るのもいいじゃないか。

 伍郎は食べ終わった弁当を丁寧に片付けると、シフトレバーに引っ掛けているゴミ袋に放り込み、そしてエンジンをかけた。同時にラジオから音が流れてきたが、伍郎はラジオを止めた。雑音が入ると自分の考えに集中できない。

 思い立ったらなんとやら。

 車で市内を走りながらこれからの予定をあれこれ考えて、そして伍郎は決めた。まずはホテルを探し、そしてそこに車も停め、歩いて函館山のロープウェイ乗り場まで行く。函館山は車で頂上まで行けるのだが、それでは物足りないと伍郎は思った。やはりここはロープウェイだよな。その方が雰囲気がある。

 午後の函館は煌めいていた。青い空はいよいよ青く、カラッとした暑さはあちこちにじんわりと、そして確実に染み込んでいる。

 伍郎は函館山近くのホテルにチェックインし、そこから函館山まで歩くことにした。独り身なのだ。即断即決。これがいいのだ。

 しかし、あれこれ済ませていざ歩き始めると、伍郎はすぐに後悔することとなった。

 想像以上に暑かったのだ。

「函館ってこんなに暑かったか?」思わず愚痴が出る。デザインが全くない、ただ黒いだけのTシャツだからこそ汗染みが目立たないものの、最後の坂の想像以上の傾斜には、大量の汗と共に愚痴も出た。それでもようやくロープウェイ乗り場が見えてくると、

「おお、ここかぁ」

と、素直に感動した。無骨で大きな建物を見ると、なぜかいつも感動してしまう。伍郎の癖なのだ。そしてその建物を見ながら修学旅行の思い出を掘り起こそうと努力してみたのだが、いくら掘り返してみても、ロープウェイ乗り場なんて出てこない。そもそも修学旅行の思い出はあちこち虫食い状態で、ただの断片の寄せ集めでしかない。なんなら知らないと言った方がいいくらいなのだ。伍郎は思い出すことを諦めるとさっさと建物内に入った。

 建物内はすでに人が大勢並んでいた。伍郎もすぐさま切符を買い、そして列に並ぶ。さすが観光地だけあって、様々な人が並んでいた。その多くはカップルや家族連れで、みな楽しそうな笑顔で列を成している。

 最後尾に並んだ伍郎は、自分が並ぶ列の前方に、一際目立つ、眩いばかりに輝く長い金髪の女性がいることに気づいた。 

 ひゃー外人だぁ。

 でも、そりゃそうだよな。ここは観光地だし。

 その女性は伍郎よりかなり前にいるため、顔を見ることはできない。下心というよりは、単なる好奇心から、伍郎はその顔が見たかった。しかし、列が動いて、いざロープウェイに乗り込む場面になっても、その長い金髪の女性は進行方向に向かい函館山の天辺の方を向いていたから、やはり伍郎からは顔が見えない。

 おそらくこの女性はものすごい美人に違いないぞ、と伍郎は思った。いやむしろ美人でないはずがないのだ。紺色のラフなTシャツにピッタリしたジーンズを履いているその金髪の女性は、こじんまりしたこのゴンドラ内で場違いなほどの存在感を放っていた。まさにその女性の周りだけ、何かが光っているようなのだ。そんな女性が不美人であるはずがないではないか。

 いや、仮に自分の予想が外れたとしても、例え後ろ姿だけだとしても、いいものを見た、というのが伍郎の正直な感想だった。美人なんて、例え後ろ姿だけだとしても、滅多に見ることなどできない。女性にはほとんど縁がない自分だけど、そして根拠のない断言ではあるけれど、美人は美人なのだ。

 それにしても長い金髪って反則だよなぁ。しかもこんなに全身キラキラされたら、そりゃあ錯覚もするよ。

 ロープウェイは規則正しく、そしてできる限りの最大人数を詰め込んで出発し、そして三分後には若干揺れながらも頂上に達した。着いた途端にバラバラと、しかし規則正しく人が降りていく。目の前の長い金髪の女性には少しだけ未練があったものの、降りるときには自分が先であり、当然のことながら伍郎は回れ右の格好となる。そしてそのまま流れに逆らわずにロープウェイを降りて、進行方向に向かって動くとなると、もはや何をどうしようと誘導されるがままに通路や階段を進んでいくしかない。そういう流れなのだ。

 しかし誰からも不満の声は出ない。函館山の頂上が心地よい開放感に溢れていたからだ。建物を出ると、そこには満天の青空がどこまでも広がり、そして心地よい風が流れている。耳を澄ますでもなく「わー」とか「すごーい」などの声があちこちから聞こえてきた。活気があり、とても賑やかだ。

 人混みの流れに逆らわずに歩いていると、突如、扇状の絶景が伍郎の目に飛び込んできた。

「おー」

 思わず声が出る。

 それは伍郎の稚拙な表現では「素晴らしい」と表現するのが精一杯だったが、思わず声が出るほどの景色だといえば少しは伍郎の感動が伝わるだろうか。染みひとつ無い青空の下、眼下には美しい扇状の景色が広がっているのだ。

 目をしっかりと凝らすまでもなく、両側を津軽海峡と函館港に挟まれた扇形の景色がくっきりと鮮やかに見える。市街地が正面奥に伸び、その向こうには渡島地方を形作る山々も聳えていた。季節により、その山々を覆う雲海や霧、海に漂う漁り火、幻想的にゆらめく雪などの風景を楽しむことができるのが函館山の大きな魅力だ。日本のみならず世界三大夜景にも数えられていたその佇まいは伊達ではない。

 しかしながら、冷静になってじっくりと観察すると、函館の街自体は、わりとこじんまりした街だということにすぐに気づくだろう。その証拠に、伍郎は自分がチェックインしたホテルをなんなく探しあててしまった。それでもこの風景が素晴らしいと感じられるのは、その地形の形状の巧みさがあればこそで、自然が織りなす起伏に富んだその形は、飽きが来ないように工夫され計算され尽くしたかのようだ。

 夜は夜でまた違うんだろうな。

 伍郎は、夜もまた来ようと決めた。いやむしろ「函館の夜景は絶対に見なければならない」という気分になってしまっていた。一日にロープウェイで二往復するのは初めての経験になるが、ケチってなどいられない。やきとり弁当という気まぐれで札幌から函館まで来て、車窓から見えた函館山に登りたいという違う気まぐれが発動、ついついホテルにチェックインまでしてしまっていまさら何が倹約か。なんなら函館山山頂の売店で観光地価格のご当地カップ麺でも買ってホテルで食べてやろうか。

 そうだ。夜景を観た後であれこれ買って帰ろう。ホテルは素泊まりでチェックインしたのだから、食べ物だってどこかで調達しなくてはならないのだ。となれば、ここにある売店でご当地食品を買うのは正しい選択に決まっているではないか。ご当地価格もなんのそのなのだ。

 よーし、そうと決まれば善は急げ!まだ時間は早いけど、売店を下見しておくのも悪くないだろう!そうだ!下見だ!

 ひとり勢いづいた伍郎だったが、勢いがつき過ぎてしまった。売店を探そうとしておもいきり振り向いた瞬間、

 どん!

 と伍郎は何かにぶつかってしまったのだった。

「あ、すみません」

 見ると、一人の女性が立っている。

 ロープウェイで見た、あの長い金髪の女性だった。服装が同じなので間違いない。その女性は、目を大きく見開くようにしてじっと伍郎を見ていた。

 そしてそれは伍郎も同じ。思わず目を大きく見開いて、金髪の女性を"ガン見"してしまったのだった。

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