20
「今日は何かあったの?」とアンナ。
「別に何も……」とビビ。
「洋服どうしたの?」
「別に……」
「そうなの?汚れたなら洗濯しないと」
「大丈夫。自分でする。それよりおばあちゃんのお下がりのワンピースを汚してごめんなさい」
「それはいいんだけどね。……けど、やっぱり汚しちゃったんだね」
「違うわよ」
「そうなの?」
「それより、私お風呂入ってくる」
ビビはそそくさと離れの温泉に向かった。もう辺りは暗いが、離れの温泉の入り口にはぼんやりとしたライトがついているので、場所はすぐにわかる。ライトのすぐ下には木の板が打ち付けられており、よく見ると、微かに字が書いてあるのがわかるのだが、ビビは全く気にする様子もなく、サッとドアを開けて中に入っていった。
実はこの離れの温泉には名前がついていて、その名を、
道明温泉
と言う。なんのことはない。寺の名前をそのまま拝借したのだ。しかし、名前がついているにもかかわらず、誰もその名を呼ぶことはなかった。温泉を知る誰もが
離れの温泉
と呼んでいたのだ。大工仕事をし、看板に墨で字を入れた当の本人である四郎ですらそう呼んでいた。
温泉の熱気でほのかに暖かい脱衣室はしんと静まり返っている。耳を澄ますと虫の音が心地よいのだが、若いビビはまだそういう情緒を楽しむ年代ではなかった。手早くスイッチを入れて灯りをともすと、着ている服を勢いに任せて脱ぐ。
ブラを取ると、ビビはとてもスッキリした表情になった。いつものことながらサイズが合わないのだ。国産品での調達は難しかった。いや、サイズというだけなら、あることはあるのだ。しかしそれはどう贔屓目に見ても、可愛さに欠けている。
若いビビにとっては、大事なのは見た目であり、可愛さであった。実用というのは、言い換えるなら"おばさん"を意味しているのだ。ブラは可愛いかそうでないかの二択なのであって、それ以外の選択肢はない。
特に今日はデートだったので、なおさら可愛さにこだわったのだ。もちろん多少のキツさは想定内だ。
ぴっちりとした布面積の小さなパンティも脱ぎ、手慣れた様子で金髪を髪ゴムでまとめると、素っ裸になったビビはちょっと考え込んだ。
うーん……。
何かを忘れたような気がする……。
しかし、それが具体的には何を忘れたのか全く思い出せず、結局はそのまま浴室に入り、体をサッと洗い流して勢いよく湯船に入った。
うーん……。
やっぱり何かモヤモヤする……。
何かを忘れたような……。
考えても考えても、何も浮かんではこない。
ビビは視点を変えた。
伍郎さんは私とのデートを楽しんでくれたのだろうか?
ビビは伍郎こそ夢の中の男性なのだと確信していた。なぜかは知らないけどそうなのだ。
そんな話はにわかには信じられないという気持ちもないではなかったが、けれど、確かにそうなのだ。
だからこそビビはもっともっと伍郎と話をしたかった。そして、だからこそ強硬手段を取るしかなかった。
ビビはとても緊張していたのだ。今日のデートをあれこれ考えてビクビクしていたのだ。伍郎の泊まっているホテルの場所は分かる。だから会いに行くことは簡単だった。
しかし、いきなり会いに行ったらどう思われるだろう?
変な娘だと思われたらどうしよう?
可愛くないと思われたらどうしよう?
一緒にいてつまらないと思われたらどうしよう?
そもそも緊張のあまり、前日の夜に家まで送ってもらった時には、自分を一八歳と偽ってもいた。あまりにも年下だと、絶対に二度と会ってくれないような気がしたのだ。
いつもなら、緊張状態に置かれると、すぐに臆病風に吹かれて、あえなく撃沈してしまうビビだった。立ち向かうより逃げる。これがビビのいつものパターンなのだ。
しかし、今回は違った。それはまさに夢のおかげなのだ。不思議な夢のおかげだったのだ。無理をしてまでも伍郎と会おうと思ったのは、まさに伍郎が夢の中の男性だったからに他ならない。
夢と同様に、夢の中の男性と同様に、伍郎もまたたくさんの失敗をした。
しかし、ビビにとってそれはなんとも楽しいハプニングだった。まさに夢と一緒だったのだ。そういえば、虹の上から落っこちたら雨が降っていて、夢の男性と二人でずぶ濡れになったような夢を見たような気もする。あの時、夢の男性はなんと言ったかな?
虹と雨はセットなのだ。
とかかな?
ビビは笑った。
いかにも言いそうじゃない?と独りごちる。
とても優しそうな伍郎さん。そういえば伍郎さんは私と同じ左利きなのよね。これもまた何かの運命じゃない?
ビビは神威岬がパワースポットなのだと知っていたし、ラッキーバブルの天使のハートも知っていた。
ビビもやはり年頃なのだ。だから恋愛にはそれなりに興味があったし、だからこそそういう話を薫子から以前、聞いていたのだ。
「かむいみさきってさぁ、好きな人と一緒に行くと結ばれるんだってー」と薫子。
「何それ?」
「うちの旅館に雑誌の編集者の人が来ててさー」
「へー、それで?」
「で、その編集者の人の話を私も聞いたんだー。なんかさ、かむいみさきは縁結びのパワースポットなんだって」
「へー。なんか凄そう!で、それってどこにあるの?」
「さー。わかんないけどさー。しゃこたん半島だって」
「しゃこたん半島?」
「私もわかんないけどさー。すっごい景色が綺麗なところで、すごく人気のあるところなんだって。ってかなに?あんたもやっぱりそういうとこ行ってみたいの?」
「いや別に。だって私、別に好きな人とかいないし」
「だよねー。まああたしもビビちゃんと同じで、まだ彼氏なんていないけどさー」
ラッキーバブルの話もまた薫子経由だった。
「あれってさー、実はハートが六個しかないって知ってた?」
「何それ?」
「本当は八つあるはずなんだけど、実は六個しかないんだって」
「おかしいじゃない」
「でしょ?でもさー、実はそれって後の二つがポイントなのよ。後の二つはどこにあると思う?」
「いきなり聞かれてもわかんないわよ」
「それがさ、カップルの二人の心の中にあるんだって!」
「はぁ、何それ?」
「何それって言われても、そうなんだって」
「えー」
「六個しか見つけられないのが正解なんだって。そうやって一緒に探してる時点で、二人のハートも追加されてるんだって」
「うーん、なんだかよくわかんないけど……」
ビビは今なら分かる。一緒に探している時点で、すでに二人分のハートを集めたのだと。ビビはその時、確かにそういう気分を味わったのだ。
確かに、今日のデートはある意味どれも子どもらしい恋愛話の延長線上にあるようなものばかりだった。行きたいと思った場所にも行けたし、幸せな経験もした。
すごく満足した。楽しかった。
けど……。
何かモヤモヤする……。
何かを忘れたような……。
結局は、また元の振り出しに戻る。
私は一体、何を忘れたのだろう?
スッキリしないままに湯から上がり、手早く着替えると、離れの温泉を出た。
すぐに部屋に戻り、携帯を操作する。
待ち受け画面には今日撮ったばかりの自分と伍郎の笑顔が映し出されていた。それを見て、ビビは思わず微笑んだ。
……伍郎さんは確か三十四歳と言っていた。ということは、私と十九も違うのかぁ。
ビビにとって、年の差はあまり、というかほぼ全く気にならなかった。大事なのは気持ちだとビビは思った。経済力だと思わないのは、経済的に苦労したことがないからかもしれないし、もっと違うことゆえなのかもしれない。お金は働いて稼げばいい、というある種楽観的な思考ゆえなのかもしれない。
まずは好きか嫌いか。
ビビにとっては、これこそが最も大事なことだったのだ。
では、好きか嫌いかは何で判断するのか?多くの人は皆、それなりにもっともらしいことを言うけど、実は好き嫌いというのは案外あやふやだったりするものだ。確固たる土台の上に判断するようなものではなく、ふわふわとした曖昧さの上に判断する。それが好き嫌いというものの本質ではないのか?
ビビはそこまで深く考えたことはない。
けれど、すでにビビにはわかっていた。
それは大好きなおじいちゃんの言葉。
直感力。
きっと私、この先、伍郎さんとずっと一緒にいるんだわ!
だって私には分かるんだもの。
カラフルな虹を二人で一緒に渡るんだわ!
……そうか!
夢の男性は虹から落ちる
だって、そうしないと私に会えなかった《・・・・・・・・》のだから。
夢を鵜呑みにしているのかもしれない。たまたまの偶然の一致を運命だと感じたのかもしれない。それはひょっとしたら、精神的には危ない兆候なのかもしれない。
しかし、ビビはそうは思わない。
ビビは自分のこれからの人生を思った。運命を感じたからだし、何かが大きく変わる予感がしたからだ。
「後はこの道を一直線に進めばいいんだよ」
と伍郎は言った。
「予定よりはちょっと遅れてるけど、確実に着くのは間違いないからね」
そうなのだ。そして夢の男性もこう言っていたではないか。
「そうか。では教えよう。この道を一直線に進めばいいんだよ」
そうね。その通りだわ。
「かなり遠回りするかもしれないけど、確実に私の顔と出会うのは間違いないからね」
確かに出会った。
「私の顔と出会った時、私は君とは会えなくなるけど、その代わりに、君は私と出会うだろう」
夢の男性は現実の男性になったのだわ。
「出会いは幸運だ。たとえ私の顔はわからなくても、私と会ったら、すぐに私だとわかるだろう。その時には、よーく私の顔を見るんだよ。それが私だ」
ビビは突然分かった。忘れたものが分かった。途端に満面の笑顔になる。
そうか。
そうだったのね。
早速伍郎さんに連絡しよう!
ビビは携帯を操作し始めた。
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