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 伍郎の車は即決で、しかも現金一括払いで買った新車だ。伍郎好みのマニュアル車で、燃費の良さが特にお気に入りだった。車は一に燃費で二にインテリア。特に運転席周りには独特のこだわりがあって、細かなことは避けるが、伍郎は一風変わった感性を持っていた。逆に言うなら、それ以外のことにはかなり無関心で、例えばカーナビなどのオプションには目もくれない。AMラジオとエアコンがあれば、あとはどうでもいいのだ。いや、どうでもいいとまでは言わないが、少なくとも、雑誌を見てあれこれ考えるレベルのこだわりなどは一切持ち合わせていなかった。要は標準装備が自分にとってどうなのか。伍郎のこだわりはほとんどがそれなのだ。

 しかし、そのことをまさかこれほど後悔する時が来ようとは思ってもみなかった。

 さらに言うなら、伍郎の車は伍郎仕様なのであって、人を送り迎えする仕様にはなっていない。ましてや美少女を乗せる想定など全くしたことがなかった。

 もちろん汚くはない。そこには伍郎なりのこだわりがある。土足厳禁ではないものの、それなりには気を遣ってもいた。しかし、必要最低限の設備、ほぼ買ったままの車内は、どう贔屓目に見ても殺風景としか言いようがなかった。美少女を乗せるにはあまりにも物足りないように伍郎には思えたのだ。

 泊まっているホテルまで美少女と一緒に歩き、適当なところで一旦待ってもらうと、伍郎はちょっとした後悔と共に車を出してくる。

 美少女は「いいですか?」という言葉とは裏腹に、当然のように伍郎仕様の車に乗り込んできた。この車の助手席に人が乗るのはこれが初めてだ。ましてや美少女が乗るなんて、これが最初で最後のことではないか。そんな思いがひょっとしたら表情に出たのかもしれないが、

「どうぞ」

声はいつもの伍郎そのものだ。

 美少女がするりと乗り込むと、車はサッと発進し、程なく国道五号に入る。あとは道なりに北進した。

「そんなに遠くじゃないんです」

「そうなんだね」

「場所は〇〇なんです」地名を言われても伍郎にはわからない。

「そうか」

「でも、送ってくれてありがとうございます」

「いいんだよ。気にしないで。それどころか、せっかく函館山まで来てくれたのに、すごく待たせてしまって、なんか本当にごめんね」

「いいんです。心配してくれてありがとうございます」

「いやいや。最近は物騒だからね」

「そうですね」

「……ところで、まだ名前を聞いてなかったよね。良ければ名前を教えてもらってもいいかな?」

 聞くか聞くまいか。伍郎はこの質問をするかしないかでかなり迷っていた。不自然ではないか、怖がられたりはしないか、なぜ聞くの?なんて思われないか。

 接点など何もないのに、いきなり聞くのはどうなのか?

 しかしながら、伍郎の質問に対する答えは拍子抜けするほどあっさりしたものだった。

「いいですよ。私は阿木野あきのビビアンと言います」

 ビビアン。なるほどなぁ。

「素敵な名前だね。すると君はハーフなんだね」

「そうなんです」

 外国かぶれの日本人だって、ここまでの名前はまずつけない。マリアならいてもおかしくはないが、エリザベスという名前は日本人ではまずいないだろう。同様に、ビビアンという名前も日本人にはあまりにも不釣り合いなのだ。

 伍郎はついでにと思い、質問を重ねた。

「何歳なんだい?」

「十八なんです」

「そうかぁ」伍郎は驚いた。自分よりも一六も年下なのか。若いなぁ。

 伍郎はどんどんすり減っていく自分の若さにようやく気がつく年頃になってきていた。徹夜が辛くなってきたし、長距離ドライブも休まないとできないレベルになりつつある。無茶だと思わなかったことが、徐々にではあるが無茶に思えてくる。そういう年頃になって初めて、若さを考えるようになるのだ。

「あなたの名前も聞いてもいいですか?」と美少女。伍郎は我に帰った。

「あ、ごめんごめん、そうだね。そうだった。うっかり自分のことを忘れていたよ。僕は床侶伍郎。三十四歳のおっさんです」

 伍郎は多少の自虐を込めて自己紹介した。相手の反応が知りたかったが、運転しているため、じっくりと顔を見るわけにはいかない。そもそも相手の顔を見るのにはかなりの苦労を伴うのだが。

「そうなんですね」と美少女。声は明るい。

「床侶さんは一人なんですか?」

「ん?」

「えーと。独身なんですか?」

「え、えー?いきなりかい?」

 伍郎は驚いた。想定外の質問だ。

「……実はこう見えてもバツイチなんだ。結婚相手に捨てられてね」苦笑いしつつ答える。

「そうなんですね」

「だから一人と言えば一人なんだ」

「寂しいですか?」

「うーん」答えに窮する伍郎。

「……寂しくはないよ。それどころか離婚して太っちゃって。周りからお前は幸せ太りだって冷やかされたけどね。実際すごく楽になった。そういうの、ダメかな?」

「そんなことはないですよ」

 ビビアンは即座に断言した。

「なんかきっと色々あったんですよね……あ、そこの信号を右に曲がってくれませんか?」

「はい!」

「で、……ここの道に入って……、そしたらこの道まっすぐ行ってもらえますか?」

「はい!」

「……ところで、床侶さんは明日は札幌に帰るんですか?」

「あれ?僕が札幌市民だっていつ話したっけ?」

「言いましたよ。函館山で最初に会った時に、札幌から来たんだって」

「そうだったっけ?」

「そうですよ」伍郎は全く覚えていない。

「そうか。……確かに僕は札幌市民だけど、実は有休を取ったから三連休でね。だから明日もどこかをぶらぶらするつもりなんだ。それから札幌に帰ろうかなぁって感じかなぁ」

「へぇ、いいですね」

「まあでも一人旅だからね。どこへ行くかは気分次第だよ」

「そうなんですね……」

 ビビアンは考え込むように無言になった。それに釣られて伍郎も無言になる。その車内の空気に合わせるかのように、車窓から見える風景もどんどん寂しくなっていった。人家こそあるが、灯りに乏しい。昼間にこの道を走ったら、いかにも田舎の道なんだろうなぁと伍郎は思う。

 墓所の脇に差し掛かったところでビビアンが唐突に口を開いた。

「このあたりで降ろしてもらっていいですか?」

「え、こんなところで大丈夫なの?」

「ええ。この近くに家があるんです」

 確かに人家の明かりはポツンポツンとある。けれど、墓所もあるし、お世辞にも女性が一人で歩くようなところではなかった。しかもビビアンは白人で、あまりにもこの風景とは不釣り合いだ。

「本当に大丈夫かい?」

「はい」

「わかった」伍郎はそう言うと、適当なところで路肩に車を止める。そうするしかないのだ。シフトをニュートラルにすると、タイミング良くビビアンはするりと車から降りて、車窓越しに微笑んだ。伍郎は慌てて窓を開ける。この辺りが暗いからなのか、それとも別の理由なのか。あの瞳のレーザービームが気にならない。

「ほんとにありがとうございます。床侶さんに会えてよかったです」

「本当にこんなところで降りて大丈夫かい?」

「はい、大丈夫です」

「そうか。ならいいんだ。気をつけて帰るんだよ」

「はい!じゃあおやすみなさい」

 ビビアンは小走りに墓地の方に向かっていき、おそらくは小道があるのだろう、その道を曲がってやがて見えなくなった。

 伍郎はそれをしばらくじっとそれを見ていた。そして姿が全く見えなくなると「ふー」と息が漏れた。そろそろと車を動かし、ゆっくりとUターンさせる。来た道を戻るのだ。

 なぜか一仕事終えた気分だった。そして今更ながらに惜しいことをしたと思った。

 ハーフかぁ。しかも美少女。……けど十八歳。色々な思いが一気に押し寄せてきた。なるほど……

 なるほどなぁ。

 何事もなかったけど、まあそんなもんだよなぁ。おいおい何かがあったらまずいよ。

 伍郎は性的な妄想をしないわけではない。むしろ普段であれば、それなりに旺盛な方でもある。けれど、実際にこういう状況になると、全くもってそういう発想はどこかに吹っ飛んでしまった。いや、むしろ、何もしなかったことでとてもいい気分に浸ることができた。

 こんなことなんてもう二度とないだろうなぁ。そもそも年が離れすぎている女性、というか十八ならまだ学生じゃないか。そんな女の子と話をする機会なんて、ほぼないと言っていい。しかも相手は白人女性。日本人女性にすら縁がないのに、相手は白人女性だなんて。

 世の中って不思議だ……

 伍郎はそう思った。

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