5

 伍郎は朝の六時すぎに目が覚めた。とはいえ、何もすることはない。ここはホテルの一室で、自分の部屋ではない。できることは限られているのだ。とりあえずテレビをつけると、あとはまたベッドに寝転がり、ダラダラと過ごした。

 もともと伍郎は朝食を摂らないことが多い。食べなくても苦にはならないのだ。朝はとにかくダラダラして、徐々に意識を覚醒させる。これが伍郎のやり方なのだ。

 今回に限って自分のいつものルーチンと違うことをする必要はない。というわけで、いつものようにダラダラ過ごしていると、次第に頭も冴えてきたし、考える気分にもなってきた。天井の殺風景な壁を見ながら、

 さて、今日はどうしようかな……

などと思う余裕も出てきた。。その思いは、もやもやから、やがて形となっていく。

 そうだなぁ。苫小牧から向こうの襟裳岬もいいだろうなぁ。いやいや、日本海を北上ってのも捨てがたい。案外好きなんだよなぁ。

 あれこれ考えはするものの、具体的なことは何も決めないのが、これまたいつもの伍郎のやり方だ。あれこれ想像して楽しむのがいいのだ。このダラダラ感を伍郎は好んだ。

 気がついたらこんなところに来ていた

が、伍郎のお気に入りのパターンなのだ。その日の天気と気分次第。あとはなるようになれ。

 ようやくベッドから起き上がり部屋のカーテンを開くと、窓の外には、相変わらず素晴らしい青空の元に函館山がどんと鎮座しているのが見えた。

 そういえば、昨日は楽しかったなぁ。

 伍郎は笑顔になった。あの美少女ともお別れかぁ。いやいや、昨日すでに別れてたんだった。世の中には美少女ってのが本当にいるもんだね。すごいね。

 十時少し前に、いい気分のまま伍郎は部屋を出た。いきなりのチェックインなので、荷物なんてそもそもない。だから部屋に入る時も出る時も同じ服だし、持ち物だって財布と鍵束のみ。気軽なのだ。この気軽さもまた伍郎の好みだった。

 あっさりチェックアウトし、ホテルを出て、駐車場に向かい、車に乗り込む。

 よし、とりあえずは苫小牧だ。あとは流れだ。

 そう思いエンジンスタート。と同時にラジオから軽快なトークが流れてくる。

 このラジオ番組好きなんだよなぁ。日曜の朝はこれだよな。

 五郎にとっては定番のラジオ番組だった。この番組を聴いていると、いかにも日曜の朝という感じがする。そして多くの場合、伍郎はこの番組をドライブ中に聴いているのだ。だからドライブイコールこの番組でもあった。

 そんなラジオ番組に耳を傾けながら、駐車券を探しつつ駐車場入り口のゲートまできて、一時停止。おもむろに運転席の窓を開けて駐車券を清算機に差し込もうとすると、反対側の窓から

 コンコン

と、音がした。

「ん?」 

見ると、あの美少女、ビビアンがポツンと一人で立っているではないか。

 最初はキョトンとしていた伍郎だったが、「え、えー」

と声が出た。

 ビビアンは驚きの声に合わせるかのようににっこり微笑んで、そしてもう一度コンコンとノックした。

 伍郎は慌てて助手席の窓を開ける。

「おはようございます!」

「どどどどうしたんだい?何か車に忘れ物でもしたのかい?」

「いえ。それよりも、床侶さんさえよければ、車に乗せてくれませんか?」

 そう言うと、ビビアンは視線を動かす。つられて見ると、いつの間にか伍郎の車の後ろに一台の車が並んでいるではないか!これはいけない!慌ててドアのロックを解除すると、ビビアンはスルリと車に乗り込んできた。

「本当に一体どうしたんだい?何か忘れ物でもしたのかい?」

「何も忘れてませんよ。それより後ろに車がいますよ」

「あ、ああ」伍郎は慌てて精算を済ますと車を発進させた。

 ビビアンは相変わらずの笑顔だ。

「床侶さん、今日はどちらに行かれるんですか?」

「いや、まだ決めてはいないけど……」

「私、夏休みなんです。だから、伍郎さんさえ良ければ、これからどこかに連れてって欲しいんです」

 なぜかはわからない。けれどわかったことが一つある。

 ビビアンは、この白人の美少女はぐいぐいくるのだ。しかも昨日の出会いから、かなりぐいぐいくるのだ。

 伍郎は困惑していた。しかし今は運転中。悩んでなどいられなかった。というより、今は悩む余裕などないのだ。何せ助手席にはとんでもない美人が座っている。放っていくわけにはいかない。

「そうか。学生なんだね。けど、ちゃんとお父さんお母さんには話をしてきたのかな?」

 伍郎としては、これだけは是非とも確認しておかなければならなかった。しかし、美少女の答えはあっさりしていた。

「大丈夫です!ちゃんと携帯電話だって持ってるし」

 ビビアンはバッグから携帯電話を取り出して見せた。若い女性にありがちなジャラジャラしたアクセサリーが全くついていない、本体のみの携帯電話だ。ビビアンは安心してくださいと言わんばかりに

「いざという時にはちゃんと親とも連絡つきますから」と自信満々だった。さらには伍郎の思考を見透かすように

「あ、そうそう、私、アクセサリーって好きじゃないんです。なんか邪魔で」と微笑んだ。

 これには伍郎も思わず

「わかるよ。僕もアクセサリーは邪魔だと思うタイプだ」

「ですよねー」

 ビビアンはシミひとつない青空のように爽やかで、あっけらかんとしている。そして相変わらず光り輝いている。昨日とは違う薄い藍色のゆったりしたワンピースがさらにその輝きを増幅させていた。とはいえ、それは学生相応の服装ではなく、ちょっと背伸びしている感じがしないでもない。昨夜と同じ赤いバッグも同様で、携帯電話を取り出す仕草がぎこちなかったことから、そもそもバッグを使い慣れていないのもわかった。しかしながら、その赤いバッグさながらに伍郎は思わず赤面してしまう。

 ワンピースのそのスカートの先から、ぴたりと閉じられてはいるものの、健康的でハリのある太腿がはっきりと見えるのだ。

 うーん。

 いや待て。

 自分に正直になるなら、これってかなり嬉しいシチュエーションだ。……けど、なんというか……

 ……いや、やっぱり色々とまずいよなぁ。相手は十八歳とはいえまだ子供と言って差し支えない年齢だぞ!

 これはかなり目のやり場に困る!

 大変困る!

 もちろん"変なこと"などしない自信はあるが、それでも困るのだ。そもそも年が離れすぎていると、どうしても色々と考えてしまうのだ。彼女はそういうことは気にならないのだろうか?

「でも、携帯電話は料金が高いからあまり使っちゃだめって祖母に言われてて、だから滅多なことでは使わないんですけどね。友達とメールしたりとかはしますけど」

「携帯料金高いもんね」

 いい具合に話がそれた。伍郎は一安心する。

「っていうか、私、少し前にこの携帯買ってもらって、だから使い方とかまだよくわからないんです」

「それを言うなら、僕もそうだよ。最近買い替えたばかりなんだ。というか、僕はそもそもメールする相手すらいないんだけどね」

 伍郎は苦笑した。確かに友達は多くはないし、離婚した相手を避けたいというのもあって、あえて携帯電話を買い替えたのだから、相手がいないのは当然のことだ。

 しかしながら、そもそも携帯電話をあまり使おうという気持ちにならないのも本音だった。ガジェット好きではあるが、携帯電話は自分の守備範囲ではない。携帯電話は人と人を繋ぐもの。しかし、昔から、そして今も、伍郎はそこまで人と繋がりたいとは思わない。

「見てください、これ」

 運転中にもかかわらず、ビビアンはいきなり自分の携帯を操作して、一枚の写真を伍郎に見せた。

「分かりますか?」

 念を押されなければわからなかったかもしれない。よく見ると、それは虹の写真だった。しかも、虹が二重に見えるような気がする。伍郎は車を路肩に止めた。

「これって……もしかして、虹が二つあるってことかな……?」

「そうなんです!すごいでしょ」

「へぇ。こっちの方の虹は微かにわかるかなぁって感じだけど、確かにちゃんと虹が二重になってるね」

「おととい撮ったんです。二重の虹って幸運のシンボルですよね!」

 二重の虹は幸運の前触れと聞いたことがある。しかし伍郎はその手の話を信じてはいなかった。話としては面白いが、幸運うんぬんに関する信憑性は全くない。実は伍郎もこれまでの人生の中で何度か二重の虹を見たことがあるのだが、その後何かの幸運に恵まれたというようなことは一度もなかった。実体験こそが最も雄弁なのだ。

「私、虹を見たら写真を撮るようにしてるんです。この携帯ではまだこれしか撮れてないけど、写ルンですとかで、虹の写真をたくさん撮りました。写真撮ったら、何かいいことあるかなぁって」

 ビビアンは頬を薄いピンクに染めている。そんな様子がいちいち輝いて見えるのは、若さの特権なのか、それとも、何かの補正がかかっているのか。

 そんなビビを横目で見つつ伍郎は思った。なるほど……いいことね……。

「じゃあさ。その虹にあやかってってわけじゃないけどさ、日帰りで行けそうなところで、君の行きたい場所にこれから行くってのはどうかな?行きたい場所に行けたら、それって幸運だよね!」

「本当ですか?」

 ビビアンは満面の笑みを浮かべた。

「本当だよ」

「やった!嬉しい!」

「よかったね」

「はい、ありがとうございます!」

 相手に素直に喜ばれると、伍郎も素直に嬉しい。

「よし!じゃあ行こう……おほん!では改めまして、お嬢様、今日はどちらまで出かけましょうか?」 

 ビビアンは即答した。

「かむいみさきは遠いですか?」

 伍郎は大急ぎで自分のこれまでの経験を引っ張り出してきてざっと計算する。神威岬、かぁ……ここからだとそうだなぁ、行きで四時間ぐらいはかかるかもしれない。とすると往復八時間。今は十時半だからなんのかんので戻りは午後七時すぎ……

「家には何時までに帰ればいいのかな?」 

「門限は……午後八時です」

「じゃあぎりぎり大丈夫かな」

「ほんとですか!」

「多分ね」

「それなら私、かむいみさきに行きたいです」

「……よし!じゃあ」

 伍郎はビビアンを見た。

「神威岬に行ってもいいかな?」 

「行きましょう!」

「お、おう!」

 "いいとも!"という返答を少しだけ期待したが、そりゃそうだよね。今の若いはもうそういう時代じゃないんだよね。

 伍郎なりの精一杯の若作りだったのだが、見事に当てが外れてしまった。

 だよなぁ……。 

 思わず苦笑いになってしまう。車を走らせながら、吾郎は改めて自分の歳を意識せざるを得なかった。

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