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 夜の函館はまだ蒸し暑かった。雲ひとつない天気もまだ続いており、だから大きな空にはたくさんの星が瞬いているはずなのだが、伍郎にはその星の光はメガネを通してもうっすらとしか見えない。

 学生時代の伍郎は天体観測が趣味だった。しかし、しばらくして読書にハマると、一年も経たずに視力が著しく低下。気づいたときには時すでに遅く、メガネをかけなければ一メートル先がぼやけてしまう羽目となってしまっていた。

 大人になり、青年から壮年に差し掛かった現在の伍郎は、それでもまだ天体の知識そのものは残っていた。しかし、肝心の視力は元には戻らず、今ではメガネを通してすら星が思うようには見えない。

 天の川がこの辺りに広がってるはずなんだよなぁ。

 時折夜空を見上げつつ伍郎は思う。函館の街は札幌に比べたらまだ星がはっきり見える方なのだが、それでも光害と呼べる程度には夜も明るい。天体観測にはもちろん不向きだった。もっとも、夜の街が星が見えるくらいの暗さだったら、多くの人はその暗さを不安に思うだろう。今の時代は夜だって明るい方がいいのだ。

 伍郎は昼間と同様、ホテルから歩いてロープウェイ乗り場に向かった。時間は夜の八時半過ぎ。夏の夜はこれからが本番という時間帯だ。暑さは流石にひと段落しており、なかなかに快適だ。

 足取りも軽く早々にロープウェイ乗り場に着くと、今度は建物の外まで長く伸びている列の最後尾に並んだ。

 夜でも大勢の人がいるんだな。伍郎は驚いた。いや、むしろ夜の方がものすごい列だ。けど、そりゃそうだよね。なにしろ"日本三大夜景"なのだから。

 家族連れ。カップル。大勢の人が思い思いに並んでいた。中には伍郎と同じようなおっさんだけというパターンもあった。

「同志よ!」

ご同類には勝手に親近感が芽生えた。そしてカップルや家族連れに対しては、何故か複雑な感情が芽生えた。自分の結婚時代を思い出したからだ。不思議と嫌な思い出ばかりが走馬灯のように浮かんでは消えていく。

 伍郎の結婚相手は、とても気難しがり屋で、いつも世の中を冷めた目で見ていた。読書が好きという共通項はあったが、伍郎はいまだに彼女が好きだった小説には馴染めない。いわゆる左がかった思想にはむしろうんざりなのだ。

 離婚後にかなり太ったことで周りから驚かれた伍郎だが、心が穏やかになると人は太る。これが結婚生活で得た伍郎の唯一の教訓だった。

 列はどんどん動き、そしてロープウェイは規則正しく運行を続け、気づくと伍郎は函館山の頂上に着いていた。ちょっと肌寒いけど、まあなんとか大丈夫だ。そして昼間の歓声より夜の歓声の方がひときわ大きいことに伍郎は気づいた。

 うわぁああ

 すごぉい

 悲鳴ともとれそうな声があちこちから聞こえる。それにつられたわけではないが、伍郎もやはり自然に声が出た。

「うぉー」

 函館の夜景は全くもって素晴らしかった。昼間の印象も悪くはないが、むしろ光点がまとまってキラキラと輝いている夜の方がとても見やすい。

 昼間の函館山の景色と同様に、吾郎にはいい意味で同じような言葉しか浮かんでこなかった。すなわち

 綺麗だなぁ

 なるほどカップルや家族連れには絶好のロケーションだ。思い出作りにはもってこいだ。伍郎は素直にそう思った。そしてただただうっとりとその景色に見入った。扇型に広がるその光点が織りなす輝きにどっぷりとハマり込んだ。キャンプファイヤーの炎や、夜景の煌めきには、人を引き込む魔力がある。思わず見入ってしまうのだ。五郎とて例外ではなかった。何を思うでもなく、ただぼんやりと眺めるだけ。それで心が落ち着くのだった。

 百万ドルの夜景とはよく言ったものだ。初めてこの夜景を見た人はどう思ったことだろう。おそらくは大自然の雄大な景色と同様に、その背後に何かの存在を感じたのではなかろうか。

 多くの人は思い違いをしているのだ。神は人工物にさえ宿る。人間が作ったものにも神は宿るのだ。

 こう言えるのではないか。

 素晴らしい夜景を作ろうとしたのではなく、素晴らしい夜景になってしまった。だからこそ何かが宿ったのだ、と。

 実際にはそんな面倒な屁理屈めいたことなど伍郎は全く考えもしなかった。ただただぼんやりと美しい夜景を眺めるばかりだった。そうして心が穏やかになると、伍郎はあちこちで瞬くフラッシュや、カシャッというシャッター音にようやく気づく。

 ああそうだ、写真だ!

 僕も写真を撮ろう!一三〇万画素のカメラが付いているという、最新の携帯電話を伍郎はつい最近買ったのだ。以前の携帯には離婚した相手の写真が入っていたのだが、離婚後、うっかりその相手の写真を見てしまい、そして思わずのけぞってしまった。見てはいけないものを見てしまった感じがした。

ならば該当する写真のデータだけを消せばいいのだが、その携帯電話が相手とお揃いの機種だったことが致命傷となった。

「僕は薄情者なのかもなぁ」と思いつつも、伍郎は迷うことなく携帯電話を買い替えた。新品の携帯電話にはまだ誰の電話番号も登録されていない。もちろん誰のメールアドレスも登録されていない。綺麗さっぱり真っ白な本当の意味での新品の携帯電話だった。

 そうだ、この新しい携帯電話で写真を撮ろう!函館山の夜景こそこの携帯で写す最初の写真にふさわしい。そう思い、伍郎が尻のポケットに手を伸ばした瞬間。

 背後から声がした。

「こんばんは」

 忘れもしないあの品のある、そして艶のある美しい声だ。

 伍郎が驚いて振り返ると、そこにはポツンと一人、あの金髪の美少女が立っていた。

「こんばんは」と美少女は再度同じトーンで言った。

「え!あ……あー、こんばんは」

 情けないくらいに動揺する伍郎。

「ここにいらしたんですね」

 夜にもかかわらず、美少女自身、縁取ったかのように光り輝いて見えた。あるいは白い肌と服装との対比がそう見せたのかもしれない。というのも、昼間とは服装が違っていたのだ。大きく丸みを帯びた白の襟が特徴の、淡い水色のワンピースは、大きすぎず、さりとて小さすぎず、絶妙のバランスで美少女の体を覆っていた。が、ボディラインを完全に隠し切れてはいない。スリムというには肉感があるが、さりとて必要以上に官能的ではないという絶妙さだ。単純に言うなら、美少女はセクシーだったのだ。しかしながら、大人びた赤いバッグを襷掛けしている様は、いかにも年齢相応の子供っぽさが滲み出ている。靴もスニーカーだ。

「私は少し前に来たんですけど、なかなかあなたを探せなくて」

 と美少女。あの視線のレーザービームが伍郎を突き刺した。    

「ひ、……一人で来たのかい?」

「ええ」今度は満面の笑みになる。

 こうなるとダメだ。伍郎も釣られて笑顔になる。

「そうか。一人か。大丈夫かい?」

「え?何がですか?」

「いやその……」

 大丈夫かい?なんて、そんなものは言葉の勢いで言ったに過ぎない。意味など何も無かった。それだけに言った本人はしどろもどろにならざるを得ない。

「ほら、今はもう夜だし……それにしても、いつからここにいたの?」 

「はい。七時半くらいからいました」

「七時半……」

 伍郎は尻ポケットから携帯電話を引っ張り出した。折りたたみ式の携帯電話を開くと、九時四十分の表示が目に入る。

「九時四十分……」

 伍郎は自分でも驚くぐらいに冷静な口調になった。

「もうこんな時間なのか……」

 もっと早くに来れば良かったと伍郎は素直に思った。かなり待たせてしまっていたのだ。いや、かなりなんてものではない。確かに「待っててくれ」とは頼んではいない。しかし、相手は二時間以上も待っていたのだ。 

「お父さんお母さんとは一緒に来なかったの?」

「一人で来ました」

「そうか……」

 伍郎は悩んだ。そして言った。

「こんなに遅い時間だと、両親もすごく心配してるんじゃないか?」

 美少女はあの能面のような表情になった。

「……ですね。ごめんなさい」

「いやこっちこそごめん。けど、きっとお父さんお母さんもすごく心配してるんじゃないか。もうこんなにも遅い時間だからね。そうだ、家まで……それが嫌なら途中まで送ろう。だからこれから一緒に帰らないか?」

「……はい」

 美少女は項垂れた。がっかりしているのがはっきりとわかる。張り切っておしゃれしてきたことは五郎にもわかったし、項垂れている美少女に申し訳ないとも思う。しかしながら、わかっていても、伍郎はこういう場合に最も必要だと思われる理性的な大人の行動をとった。すなわち"一人の少女を安全に家に送り届ける"という行動だ。

 伍郎は美少女を促し、そそくさと下りのロープウェイに乗った。本来なら美少女と一緒なのだから楽しいはずなのだが、伍郎はすでに大人モードに入っている。ミッションは「美少女を安全安心に家まで送り届ける」だ。確実に遂行せねばならない。

 必要以上に長く感じた下りのロープウェイで下界に降りると、二人は坂道を並んで歩いた。薄暗い街灯がぼんやりと灯るばかりで、車の通りもあまりない。当然のことながら函館山から見る夜景の美しさなどどこにもなかった。暑さがひと段落して、少し涼しくなった夜中の函館は、少し物悲しかった。

「ごめんね。長時間待たせてしまって」

 伍郎は美少女に謝った。

「私こそごめんなさい」と美少女。

「謝らなくてもいいんだよ。でも、君が本当に夜の函館山に来たことには驚いた。ほら、ちょっとさ……」

 伍郎は照れた。それが伝わったのか、美少女は顔を上げて五郎を見た。あの強烈なレーザービームが五郎を射抜く。伍郎は言葉を忘れ、そして探した。

「ほら、なんだ。そのう」何を話すべきなのか、考えがまとまらない。

「あ、そうそう。えーっと、ほら、俺……僕は函館はよく知らないから、君が帰り道の道案内とかしてくれないか?実はこの近くにお、僕の泊まっているホテルがあるんだけど、そこの駐車場に車を停めてるんだ。よかったら車で家まで送ってあげるから……」

 と、そこまで言って伍郎は後悔した。いやいやいやいや、それって不味くないか?夜中に俺のようなおっさんの車に乗るなんて、これは明らかにまずいシチュエーションじゃないのか?下心ありありのおっさんの「もう遅いし俺の家に寄って行かないか?」と同じレベルの言葉じゃないのか!

 いやいやいやいや、これはいかん!

「あー、やっぱりあれだ、そう!タクシーがいいかな?そうそう、やっぱりタクシーがいいよ。代金は僕が出してあげるから」美少女を怖がらせてはいけない。大事なのは安全安心だ。

「そういえば函館には路面電車もあるよね。こんな時間でもまだ路面電車って運行してるのかな?」

 美少女は伍郎に対して、まだそのレーザービームを放ち続けていたが、ふと立ち止まると、突然前を向いてポツリと言った。

「あなたさえ良ければ、私はあなたの車で送っていって欲しいのですが……それじゃあダメですか?」

 伍郎はダメとは言えなかった。

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