13

 神威岬は北海道の東部にある積丹しゃこたん半島の突端に位置する岬で、この岬一帯の海上は、かつては海上交通の難所として知られていた。岬自体も険しく、傾斜のきつい半島突端の灯台まで続いている遊歩道は、長さにして一キロメートルにも満たないが、整備されているにもかかわらず、強風時には通行禁止になるほどで、この遊歩道がない時代には、岬突端に向かうこと自体が大変なことだった。

 実際、この地域の言い伝え(女人禁制の元となった物語)は悪天候にまつわるものであって、その当時、いかにこの一帯の自然が恐れられていたのかを雄弁に物語っている。

 しかし打って変わって好天に恵まれると、そこには"シャコタンブルー"と呼ばれる青い海が視界いっぱいに広がり、素晴らしい絶景を楽しむことができた。そのため、この岬は整備され、今では道内でも有名な観光地となっているのだ。

 遊歩道の入り口にはそれなりのスペースを確保した駐車場があり、ちょっとした観光施設もある。そこでは休憩したり食事をしたりすることもできるのだが、この日は日曜日であり、天候にも恵まれていたため、伍郎がこの駐車場に着いた時には、九割がた駐車スペースが埋まっていた。観光施設への出入りも多く、とても賑わっている。

「着いたぁ」

「ですねー」

 適当なスペースに駐車すると、二人は車から降りた。伍郎はランニングシャツ。ビビは真っ赤なダボダボのTシャツ。ものすごい場違い感だが、二人は全く気にしない。いや、実は誰も気にしてなどいなかった。人は人、なのだ。観光客は神威岬を観光しにきているのであって、人々のファッションチェックをしにきているのではない。誰がどんなファッションをしようと、そんなことはどうでもいいのだ。この素晴らしい天候のもと、神威岬の絶景を体験しにきているのだから、他人のことなどどうでもいいのだ。

「結構かりんとう溢れてたよ」と伍郎。

 車から降りた時に気づいたのだが、あのガソリンスタンドの親父からもらって食べたかりんとうの食べかすが衣服のあちこちに溢れていた。

「私も」とビビ。お互いに服をサッと払う。

「でもさ、天気いいね!」

「ホントですねー。けどなんかすごい混んでる感じですよ!」

「だね」

 ビビは人混みが嫌いなのだ。けれど、今はそれを上回る高揚感があった。

「ちょっと涼しいけど、気持ちいい!」

 爽やかというよりは、少し強めの風が吹いている。ビビの髪は風をなぞるように穏やかに揺れていた。

「トイレとか大丈夫かな?」

「ちょっと行ってきていいですか?」

「僕も行くよ」

 トイレを済ませると、いざ、二人は岬突端の灯台目指して歩き始めた。なだらかに傾斜した坂道を踏み締めるようにしてゆっくりと並んで登っていく。同じ方向に向かう者、正面からこちらに向かってくる者。人人人でとても賑わっている。並んで歩くとすれ違うことができないので、ビビはいつしか伍郎の後ろについて歩いていた。

 少し行くと、やがて前方にアーチ状の門が見えてきた。さらに近づくと、その門の上部には、

 女人禁制の地 神威岬

と書いてあるのがわかる。しかし、その門を見ても騒ぐ者は誰もいない。

「昔の話だからね」と伍郎。

「そうですね」

「歴史は変えられないから。ここもかつてはそういう歴史があったというだけのことだよ」

「ですね」

 遊歩道はかなり険しく、場所によってはどうしても断崖に突き出る格好になるため、鉄格子で頑丈に整備されているところもあった。なるほどこれでは強風時に通行禁止になるのも当然のことで

「ここすごいねー」

という声も聞こえてくる。遊歩道のない昔なら、女性が岬突端にたどり着くのは容易なことではなかっただろう。いや、男性だって、これは骨が折れる難所だ。

 一キロにも満たない距離なのに、慎重に歩かなければならなかった。けれどその分だけ景色は素晴らしい。あるところでは水平線が視界一杯に広がり、人々が思い思いに景色を楽しんでいた。またあるところでは、その険しい断崖に多くの人が感嘆の声をあげていた。

 伍郎とビビもまた、その自然のスペクタクルに見惚れながらも目的地の灯台目指して進んだ。いつしかビビは、伍郎のランニングシャツの裾を左手で掴んで歩いている。ウネウネと曲がりくねりながら続く一本道は、人でごった返していて、伍郎とビビはその道を縫うようにして突き進んだ。

「もうちょっとだよ」

「はい」

「休もうか?」

「いえ、大丈夫です」

「もう着くよ!」

「はい!」

 そうこうして二十分も経った頃に、ようやく正面に灯台が見えた。なんとも小ぶりで、白、黒、白に塗り分けられたその様はみょうに可愛らしい。

「おお、灯台だ!」

「着きましたね!」

「着いたよ」

「ふー」とビビ。伍郎のランニングシャツを握り続けている左手は少し汗ばんでいる。

「伍郎さん、私、疲れました」

「僕もだよ。結構きつかったね」

「かなり歩きましたよね」

「そんな感じがするよ」

「飲み物とか持って来ればよかったですね」

「あーそうだね。失敗したぁ」

 灯台からさらに少し進むと、岬突端の展望台に出る。伍郎とビビはそこまで行って一休みした。

「にしても、これはすごい景色だなぁ」

「ほら見て!あの岩、蝋燭みたい!」

「本当だ!」

「私、この景色を見てみたかったんです」

「そうだったんだね」

「だから、すごい嬉しいです」

 風に揺れる金髪の美少女は、髪を押さえつけるように手で柔らかく撫でると、伍郎を視線のレーザービームで射抜く。その威力に伍郎はのけぞった。

「大丈夫ですか?」とビビ。自分の視線の威力に関しては、いまだ全く無自覚なビビなのだ。

「いや、大丈夫」めまいとか立ちくらみに似た症状に襲われながらも、伍郎はあくまでも何事もなかったかのように振る舞うのみだ。

「そうだ!携帯で写真撮りませんか?」とビビ。

「ああ、そうか、そうだね!」

 伍郎はこういうことに関しては本当に疎い。自分の携帯を取り出そうとして、すぐに車に置いてきたことに気づいた。いつもこうだ。携帯電話なのに携帯しないのだ。

「携帯忘れたよ!」

「え、どこに?」

「たぶん車に置いてきた」

「それは大変」

 しかし、相変わらずビビは全く慌てない。

「でも大丈夫!私、ちゃーんと持ってます!」

と言って、自慢げにバッグから携帯を取り出して見せた。

「ねえ伍郎さん、私と一緒に写真撮りませんか?」

「うんいいよ……って、えぇ!一緒にってこと?」

「はい」

 結婚していた相手はおろか、今までそんなセリフは女性から言われたことがないぞ……。

「あのさ……僕はおっさん……、いや、おじさんなんだけど、それでもいいの?」

「え?ダメなんですか?」

「そういうわけじゃないんだけど……」

「このあたりがいいかなぁ」ビビは伍郎の言葉を半ば無視するようにカメラをあちこちに向けて、いい景色を探している。伍郎と一緒に写真を撮るのは当然として、いかにいい景色で写真を撮るかということに意識を集中させていた。

「ここかなぁ」うろうろ。

「それともこっちかなぁ」うろうろ。

「あ、ここがいい!伍郎さん!ここどうですか?」

「……いいね。綺麗な景色だね」

「でしょー!じゃあ、伍郎さんこっちきて!」

 伍郎は素直に従い、そしてビビの横に並ぶ。ビビは小首を伍郎の方にかしげるようにして何枚も写真を撮った。ビビはピースサインをしない。これはビビの癖なのだ。伍郎は初めの一枚こそ緊張したが、あとは、えいや!とばかりに気合を入れてニッコリした。

 その後、ビビは撮った写真をあれこれ比べ、

「これ!」

と言って五郎に一枚の写真を見せたのだが、それは確かによく撮れていた。しかしながら、伍郎の本音の感想はと言えば、それはどう好意的に解釈しても「美女と野獣そのもの」でしかなかった。いや、野獣ならまだ精悍なだけいいが、僕はどう見ても精悍ではない。ただのおっさんだ。しかし、ビビの感想は全く違っていた。

「伍郎さんって、笑顔が素敵ですよね」

そう言って嬉しそうににっこりしたのだ。

「……そうかい?」

「とても素敵です!」

 嬉しいには嬉しいのだが、やはりどうしても伍郎には疑問がつきまとう。

 しかもこの疑問はそう簡単には解消されない類のもの、すなわち、心の問題だった。

 ビビはずっと、ぐいぐい自分に迫って来る。

 それはなぜなのか?

 伍郎にはどうしてもそれが分からない。分からないから悩むのだが、悩んだところで、やはり分からないものは分からない。

 悩んでは忘れ、悩んでは忘れる。

 美女に振り回されるというのは、こういうことなのかもしれないな。

 と、伍郎は思う。

 あるいはこれぞ運命の女、ファム・ファタールというものなのかもしれない。男を破滅させる魔性の女とも言われるが、しかし実際には、勝手に男性が自滅するというだけのことではないか。女性があまりにも美女すぎると、どうしても男性は気後れしてしまうものだし、そもそも多くの男性は絶対的な自信など持ち合わせていない。特に女性に対しては。その自信のなさや気後れは、実は自滅への最短コースなのではないのか?勝手に思い込み、勝手に行動し、そして勝手に自滅するのではないか?

 相手の本当の気持ちさえわかれば対処法はいくらでもあるのだが、その本当の気持ちというのは、常に靄がかかっている状態で、だからこそ男性は疑心暗鬼に陥るのだ。そしてそうなると、なかなかそこからは出てくることができなくなる。

 今の伍郎は、まさにその状態だった。そしてさらに悪いことに、疑心暗鬼に陥った際の対処法も伍郎は全く知らなかった。

 ただただ、状況に流され、一喜一憂する以外にすべがなかったのだ。

「この写真、伍郎さんの携帯にも送りますね!」

 ビビは嬉しそうに携帯を操作した。

「これでよし……です。ちゃんと送りました!」とビビ。よっぽど嬉しかったのか、その後もはしゃぎ続け、風景の写真をあれこれ撮りまくっている。

「すごいいい天気で最高ですね!」そう言って一息つくと、ビビはまたも視線のレーザービームで伍郎を射抜いた。伍郎はなんとかしてクールなフリを装う。

「だね。それにこの海!すごい色だよ。なんというか……」

 絵の具の色だと言おうとしてやめた途端に

「色鉛筆みたいな綺麗な色ですよね」とビビ。

「だよね」と伍郎。ビビはなぜか伍郎の思考を読み取ったかのような発言をするのだ。

「綺麗すぎるよね」

「ですね。本当に綺麗!」

「思わず見惚れてしまうよね」

 二人は展望台に並んでしばらく海を見ていた。その間も観光客はあちこち出入りし、神威岬は賑わっていた。昔の難所は、もはや難所ではなく、風光明媚な観光地となっている。それが良いか悪いかは別として、人々の思いが溢れる場所になっているのは確かだった。

 伍郎とビビの二人は、いつしか体をピッタリ密着させるようにして景色を見ていたが、二人ともそれには気づかない。もちろん観光客は誰一人としてそんな二人を気にする事もない。

「ねぇビビ」

「なんですか?」

「今何時かな?」

 ビビから携帯の時間を見せてもらう。午後三時近くになっていた。

「こんな時間かぁ。そろそろ帰らないとならないよ」

「そうなんですか」

「帰りはギリギリかぁ」

「そうなんですね……」

 心なしか、ビビは気落ちしていた。しかし、時間は待ってはくれない。二人は元来た道を引き返し、駐車場に戻ってきた。帰り道はいやにあっさりだ。観光施設には寄らずまっすぐ車に乗ると、ビビが先ほど伍郎の携帯電話に送った写真を見るようにと伍郎を促す。確かに写真は届いていた。

 そこに写っている自分。

 写真の中の自分は、それなりにちゃんとした笑顔だった。そしてビビは、眩しそうな、はにかむような笑顔だ。

 なんということだろう。

 写真だからこそじっくりとビビの顔を見ることができたのだが、そうして改めて見たことで伍郎は驚愕した。

 ビビの輪郭線からまさにオーラが出ているような感じで、そんな女性などこれまでの人生でただの一度も見たことがない。しかも実際にビビの周りは明るく輝いているのだ。

 どうなっているんだ?

 それとも何かの見間違いか?

 そういうカメラの機能なのか?

 ビビはいわゆる雰囲気美人ではなかった。写真という、ある意味補正の効かないものに写っているビビは、恐ろしいほどに均整が取れていた。左右がほぼ対称で歪みが見当たらないのだ。

「伍郎さん見て!」

 と、ビビは不意に携帯の画面を伍郎に見せつけた。待ち受け画面が先ほど撮った二人の写真になっている。

「いい感じでしょー」

 輝くビビの笑顔。その笑顔には全く嘘がない。

 分からん!

 どうしても分からん!

 この感性がわからん!

 どうなってるんだ?

 僕との写真がそんなに嬉しいのか?

 もうわからーん!

「伍郎さんはどんな待ち受け画面にしてるんですか?」とビビ。

 もちろん伍郎は何もしていない。携帯はほぼ買ったままなのだ。だから当然買ったままになっている。しかし、そういうことではないのだと伍郎はすぐに察した。

 そうか。それは僕にもわかるよ!

 ビビは暗黙のうちに、二人の写真を待ち受け画面にしてほしいと言っているのだ。

 もちろん、伍郎は逆らえなかったし、逆らう気もなかった。かくして、あっという間に五郎の携帯電話の待ち受け画面も二人の写真となった。

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